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第15話 「朝倉ひより」 最終回

婚約編は、今回で最終回です。


ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました。


新婚編も書きたい気持ちはあるのですが、今のところまだ何も決まっていません。

ひよりと恒一のこれからや、恵美と神田、その他の登場人物たちの恋や日常を「もう少し見てみたい」と思ってくださる方がいらっしゃいましたら、コメントなどいただけるととても嬉しいです。


また続きを書く力になります。



プロローグ


朝の光がいつもよりやわらかく感じた。


ずっと、前から決めていた4月19日。

テーブルの上で待っていた小さな箱を開けて、くすぐったい沈黙があった。


「あの…お願いします」


恒一さんの指先が、私の左手の薬指にそっと指輪を通す。


今度は、私の番。


同じように、彼の指に指輪を通した。


本人確認書類と戸籍全部事項証明書、婚姻届。

ちゃんと、用意した。


薬指に残る、なんだかくすぐったい感覚が抜けないまま、ふたりで役所へ向かった。

日曜日だから、本来の窓口ではなくて、時間外受付の小さなカウンターに婚姻届を預ける形になった。


役所で、どちらの姓を名乗るのか、世帯主をどうするか、新しい本籍地等々、多少の確認はあったが、無事に受理された。


「これで……夫婦、ですよね」


思わず確認するように言った。


「うん」


恒一さんは、短く返してくれた。

「うん」って一言だけなのに、胸がふわっと浮くような気がした。


時計は11時40分。

少し早いけど、ふたりで職場へ向かうことにした。



1


日曜日のインフォメーションは、落ち着く暇がなかった。

さっきまで、役所にいたことが嘘みたいだ。


私も、恵美も次から次へとやってくるお客様に対応して、雑談のひとつもできない状態だった。


「すみません、駐車券の割引のやつ、どこで押してもらえます?」


お客様が駐車券を差し出してきて、私は笑顔で受け取る。


「館内ご利用のレシートをお持ちでしたら、こちらで認証できます」


そう説明している横で、今度はフロアガイドを持ったお客様が順番待ちをしている。


恵美の方を、ちらりと見ると若い男性のお客様が恵美に声をかけていた。


「紳士服売り場って何階ですか?ネクタイとかもありますかね?」


「そちらのエスカレーターで、5階までお上がりください」

「ネクタイもご覧いただけます」


少し、声が掠れてきたころ、今度は催事場について尋ねられた。


「新学期の売り場、ありますよね?」


「はい、9階の催事場でただいま『新学期スタートセレクション』を開催中でございます」

「エレベーターですと、東側エレベーターが近いです」


手で方向を示して案内する。


次々とお客様がやってきて、私は笑顔を崩さないようにしながら、頭の中でフロアと売り場の位置をぐるぐる回していく。



そして、一段落して恵美と顔を見合わせたときに、少し離れた婦人雑貨エリアの従業員が声を上げた。


「朝倉さーん!」


ん?


恒一さんを呼んでいる?

近くにいるの?

どこだろう?


思わず右へ左へ視線を走らせて、恒一さんを探す。


すると、婦人雑貨エリアの女性従業員が、困ったような声でまた声を上げる。


「ひよりさん!」


あっ!

私か。


婦人雑貨売り場の人は、半笑いで言った。


「こちらのお客様の駐車券の認証、お願いします」


私は、赤くなった顔を上げるのが、恥ずかしくてうつむき加減で言った。


「かしこまりました」


隣で、恵美が噴き出している。


「ちょっと、ひより」


「なに?」


「今、完全に朝倉主任探してたよね」


小声で言われて、私は駐車券を機械に通しながら、ますます顔が熱くなった。


「……まだ、慣れてないの」


「今日からでしょ。そりゃそうよ」


そう言って笑う恵美の声が、いつも通りでほっとした。



今日は、いつになく忙しい。

さっきの、恥ずかしい「朝倉さん事件」も、忙しさで、いつまでも赤面したままではいられなかった。


その後も迷子のアナウンスや忘れ物の対応などが続いた。


時計を見る暇もないまま、ふと視線を上げると、フロアの向こうから恒一さんが歩いてくるのが見えた。


ああ、もう、16時なのね。

巡回の時間。

いつものように「変わりはないですか?」と聞かれる。


「異常はありません」


そう答えたとき、恒一さんの肩越しにフロアマネージャーの姿が見えた。


「朝倉さん」


フロアマネージャーが声をかける。


「はい」


私と恒一さんの返事が、同時だった。


フロアマネージャーも一瞬黙って、私と恒一さんを見る。


そして、落ち着き払った声で言った。


「KSSの朝倉さん」


また、恵美が噴き出す。


私は、穴があったら入りたい気持ちで、また顔に熱が集中しているのを自覚した。


「九階催事場の通路が少し混み合っています。一度、確認をお願いします」


「承知しました」


恒一さんは、何事もなかったように頷いた。

その横顔があまりに平然としているので、余計に私だけが慌てているみたいだった。


フロアマネージャーが去ったあと、恒一さんがちらりとこちらを見る。


「……お前も朝倉だろ」


小さな声でそう言われて、私は返す言葉に詰まった。


隣で、恵美が肩を震わせている。




やっと、休憩時間だ。

遅番なので、休憩室で食べるお弁当を地下で買った。


バックヤードの廊下を歩いていると、前方に恒一さんが歩いていた。

小走りで駆け寄って「恒一さん」と小さく声を掛けた。


「休憩か?しっかり食べろよ」


恒一さんが、そう答えたとき後ろからまた誰かに声を掛けられた。


「朝倉さん」


ふたりで同時に振り返り、同時に「はい」と返事をしていた。


相手は、2階のフォーマルウェア売り場の従業員だった。


「あ…、インフォの朝倉さん……です」


恒一さんが、私を見て言った。


「お前だ」


「わかってます」


恒一さんは、さっさとひとりで歩いて行ってしまった。


「あ…、ごめんね。今日の連絡事項に書いてあったのよ」

「4月19日から、高阪さんは、結婚のため氏名変更って」


私は、あわてて言った。


「すみません。ややこしいことで」


2階の従業員は、小さく手を振って言った。


「おめでたいことなんだから、気にしないで」


そう言って、笑っていた。


「ごめん、これだけ印もらっていい?」


そう言って、書類を渡された。


私は、いつものようにポケットから小さな印鑑を出しかけて、手を止めた。


高阪。


そこに彫られていた二文字を見て、また少し胸がくすぐったくなる。


「あ、すみません。これ、旧姓のままで」


「ああ、いいよ。いいよ。サインで」


2階の従業員は、笑いながら書類の端を指さした。


私は少し緊張しながら、そこに名前を書いた。


朝倉ひより。


書き慣れない四文字は、ちょっと不格好だった。


それでも、その名前は確かに、今日から私のものだった。



2


朝倉ひよりになって、1週間が過ぎた。


生活は、驚くほど変わらなかった。

同じ部屋で起きて、同じ職場へ行って、同じ人の隣に帰る。


変わったのは、名前だけだ。


けれど、その名前が、私の中でまだうまく馴染み切っていない。


クレジットカードやネットショッピングの登録名は、思ったよりも簡単に変えられた。

画面の中の私は、すぐに朝倉ひよりになった。


でも、手元にあるものは、少し遅れてついてくる。


印鑑。

郵便物。

銀行口座。

そういうものが、ひとつずつ、ゆっくり変わっていく途中だった。




春のシフト表が、張り出された。


ロッカールームの前に人だかりができている。

休憩室にもバックヤードにも張り出されているが、朝はロッカールームで確認して写真を撮る人が多い。


何気なく、自分の名前を探して、指があるところで止まる。

そこには、「朝倉ひより」と印字されていた。

ついこの前まで、並んでいた「高阪ひより」は、どこにもいない。


消えたわけじゃない。

ちゃんと自分の中には残っている。

でも、これからここで働く私は、この名前なんだな、と静かに思う。


無意識に、左手の薬指へ視線が落ちる。

細い輪が、いつも通りそこにあるだけなのに。




4月の空気はまだ少し冷たくて、けれど館内は新卒研修の空気で、どこかそわそわしている。

その午後、私はインフォメーション代表として、新入社員研修の手伝いに駆り出されることになっていた。


会議室では、緊張した顔の新入社員たちが、きちんと並んで座っている。

マナー研修担当の社員から軽く紹介されて、私は前に一歩出た。


「それでは、インフォメーションからは自己紹介と、基本的なマナーについてお話しいただきます」

「お願いします」


喉の奥が、詰まるような感じで、息がしにくかった。

わかっていたはずなのに、名前を名乗るその瞬間だけ、まだ心の準備が追いついていない。


私は姿勢を正して、新入社員たちの視線を正面から受け止めた。


「インフォメーションカウンター担当の朝倉ひよりと申します。よろしくお願いします」


自分の口から出た、「朝倉」という音が思ったより自然に、会議室の空気に溶けていく。

当然ながら、新入社員たちは特に表情を変えない。

ただ真面目な顔で、こちらを見ているだけ。


その当たり前の光景が、なぜかくすぐったくて。

自分の口から出た「朝倉」と、左手の細い指輪が、同時に少しだけ重く、そして誇らしく感じられた。



研修が終わり、資料をまとめていると、新入社員のひとりが小さく手を上げた。


「あの、朝倉さん」


その声に、今度はちゃんと自分だとわかった。

少しだけ遅れて、それでも自然に顔を上げる。


「はい」


「今日のお話、ありがとうございました。来月から、売場に立つのが少し怖かったんですけど、頑張れそうです」


まっすぐに頭を下げられて、胸の奥がふわりと温かくなる。


「こちらこそ。困ったことがあったら、いつでもインフォメーションに来てください」


「はい。ありがとうございます。朝倉さん」


もう一度そう呼ばれて、私は小さく頷いた。

この人たちは、高阪ひよりを知らない。

最初から、朝倉ひよりとして私を覚えていく。


それが少し不思議で、少し寂しくて、でも、思っていたよりずっと悪くなかった。


3


ふたりで退勤して、家に着くころには、空はすっかり群青色になっていた。


エレベーターを降りて、いつものドアの前で、ふっと息をつく。


「今週だけで、何回も『高阪さん』って言いかけて、朝倉さんって言い直す人がいました」


鍵を開けながら、そう言った。


後ろにいた恒一さんは、小さく笑った。


「そのうち、みんな呼ぶようになる」

「朝倉さんって」


リビングの明かりを点ける。

柔らかいオレンジ色が、仕事の空気を少しずつほどいていく。


「でも、結局『朝倉さん』って言いかけて、『やっぱり、ひよりさんでいいかな』って流れになってます」


この一週間で、「朝倉さん問題」は何度も起きた。

私が返事をしてしまったり、恒一さんも一緒に振り向いたり、呼んだ人の方が困ってしまったり。

そのたびに少しずつ、職場のみんなは自然に私を「ひよりさん」と呼ぶようになっていた。


「ひよりさんでも、朝倉ひよりに違いないから」


「……うん。そうですよね」


名字が変わっても、呼ばれ方が変わっても。

私の指で細く光る指輪と、同じ名字を持つ人が隣にいるなら、それでいい。


「じゃあ、ひよりさん。お茶、入れる」


わざとらしく名字を外して呼ぶ声に、思わず笑ってしまう。


「お願いします」


そう返すと、その響きが前より少しだけ、私の中に馴染んでいくのを感じた。



ひより日和 婚約編 第15話 「朝倉ひより」 最終回 おわり


 

追記  6月19日より新婚編スタートです。

結婚したふたりが、ゆっくりと夫婦になっていく、そして周囲の恋と家族、友人なども登場するお話になると思います。

応援、どうぞ、よろしくお願いします

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