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第10話 「一身に受ける」

1


目が覚める。

昨日は、久しぶりのふたり一緒の休日だった。

いっぱいいっぱいだった気持ちも、きれいにリセットされた気がする。


恒一さんも実はしんどかったのかもしれない。



“もう、籍だけ先に……”



彼も、同じことを考えたと言ってた。


疲れていたのは、わたしだけではなかったのかもしれない。

だから、恒一さんがふたりで休もうと言ってくれたのだと思った。



私は、隣で寝息を立てる彼を見た。

この人と出会って、私は本当に大きな愛情をもらっていたのだと、わかった気がした。


しばらく、ぼんやりしてから、ゆっくりとベッドを抜け出す。

顔を洗って、簡単に身支度を整える。


キッチンでお湯を沸かして、テーブルにスマホと指輪の注文書、そして卓上カレンダーを並べた。


「刻印の内容は11月末までにご決定ください」


注文書の下の方に小さくそう書かれている。


ジュエリーショップの店員さんに言われた言葉が蘇る。


「入籍の日付を入れる方が多いですよ」


私も、そうしたい。

ふたりだけの、記念日を刻みたい。

日付が決まらないと、刻印も決められない。


マグカップに淹れたコーヒーを一口飲んで、深呼吸をひとつ。

スマホを手に取って、カレンダーアプリを開く。


「4月かぁ…」


指先で画面をスライドさせて、4月のページを表示する。

日付が整然と並んでいるのを見ながら、ぼんやりと考えた。

せっかくなら、覚えやすい日がいい。


「4月1日にするのも、ありか…」


区切りはいい。

でも、4月1日は年度初めで役所も混みそう。

仕事もバタバタしているかもしれない。


「恒一さんは、どう思うかな」


彼は、まだ寝ているみたいだ。

起きてくる気配はないけど、私も彼も今日は遅番だ。

時間はまだある。


そう思いながら、もう一度カレンダーに目を戻す。

数字のひとつひとつに、目を滑らせていく。


その時、画面の小さな文字が目に入った。


「…大安?」


拡大してもう一度確認する。


4月19日。大安。


「へぇ…」

「4月19日…大安かぁ」


あとで、恒一さんに聞いてみよう。


そう思える余裕が、ちゃんと胸の中にあった。


スマホのカレンダーの小さなマスに「?」のアイコンを入れた。


4月19日。



寝室のドアが開いた。

ダイニングには来ないで、脱衣所へ行ったみたいだ。


しばらくして、ダイニングに入ってきた彼は、よれよれの黒いTシャツだった。

左胸にDRAGON BOAT TEAM SHINSHU。

半袖だけど、寒くないかしら。


「コーヒー飲みます?」


「座ってろ。自分でやるから」


そう言って電気ポットに水を入れている。


マグカップにコーヒーを入れて、向かいの席に恒一さんが座った。


「何見てる」


「入籍日です」


「もう決めるの」


「昨日休んだから」

「今日は決められそうです」


私は、スマホのカレンダーを恒一さんの方へ向けた。


「でね、4月1日と19日で迷ってます」


「19」


「え。はや…」


「大安だろ」


「日曜日ですけど、私たちはあんまり関係ないですね」


「土日が休みの仕事じゃないからな。俺たちは」


「うん」


「春だしな」

「年度初めより落ち着く」


「…そこまで考えてました?」


「今見て、そう思っただけ」



4月19日。


「じゃあ、刻印は?」

「日付、入れるでしょう?」


「うん」


「4月19日」


「うん」

「あと、K to H、H to K」


まだ、苗字は違うのに、指輪の中では、もう並ぶ。


「ひよの指輪には、K to H」

「俺のは、H to K」


「相手の名前?」


「そう」


私の指輪には、恒一さんから私へ。

恒一さんの指輪には、私から恒一さんへ。


まだ、苗字は違うのに、指輪の中では、もうお互いの名前が向かい合っている。


4月19日なら、関東ではソメイヨシノは満開を過ぎているだろう。

でもこれから咲く、桜だってある。

だって、春だから。


その日が急に、ただの数字ではなくなっていた。

私たちの日になるのだと思った。



2


10時だ。

今のうちに母に電話しないと、また明日にずれ込んでしまう。


「ママに電話してもいい?」


「うん」

「俺も親父に連絡する」


「あ、じゃあ、私リビングで…」


「いい。俺があっち行くから」




呼出音が3回で、母が出る。


―ひよちゃん?


「あ、ママ、入籍の日を決めたの」


―いつ?


「4月19日」

「大安だったの」


―いいじゃない。春ね


「それでね、写真の費用のことなんだけど」

「この前、ママが少し出してくれるって、言ってくれたでしょう?」


―少しじゃなくても、いいわよ

―それくらいで済むなら、安いものよ


「安い……?」


―だって、披露宴するわけじゃないんでしょ?

―成人式だって、それくらいどころか、もっとかかったわね


「へ?もっと?」


―そうよ。だって、あなたの振袖はレンタルじゃないもの

―今もあるわよ?


「そ…そういえば、そうだったね」

「一回しか着てないと思うんだけど…」


―まぁ、普通はそんなもんよ

―よく着ても、3回くらい?


「ママは、もったいないと思わなかったの?」


―そんなことより、我が子が着るものだからレンタルよりはって思ったんじゃない?

―あんまり、覚えてないけど?

― 一回しか着なかったからって、買ったことは後悔もしてないし

―だから、今回は結婚写真だし、全部出させてくれるなら、それでもいいけど?


「え」

「でも、私たちのことだから、ふたりで出すべきかなって」


―そんなにこだわんなくてもいいじゃない

―我が子の結婚に、一銭も出したくない親なんてあまりいないと思うわね


「え」


―私がパパと結婚する時には、親がしてくれたもの

―親にしてもらったんだから、子どもにもしないとね

―ひよちゃんが、困ってるから出したいわけじゃないわよ?

―親だから

―名字が変わって、朝倉さんの家に入るその日まで、うちの娘なんだから

―何より、ちゃんとしてあげたいのよ


「あ…」

「…ありがと、ママ」


―あとで、写真、ちゃんと見せてね。

―アルバムは、うちの分までお願い



***


「あ、親父?」


―おお、恒一

―先日は、ご苦労だったな


「それはいいんだけど」

「入籍する日が決まった」


―そうか。いつ


「4月19日」


―……ああ


―大安か、いい日だな


「写真の費用だけど、向こうのご両親から少し受けることになった」

「こっちからも、同じように受ける形でいいかな」


―当たり前だ。

―こっちで、全部持ってもいいくらいだ

―結納金も納めてないんだから


「いやいや…それは……」


―うちの長男だからな

―何もするなと言われても困る


父の背後から声が聞こえる。

母の声だ。


―ひよりさんの花嫁写真、楽しみにしているわ

―恒ちゃんも、ちゃんと笑って写ってよ

―いつも、仏頂面だから


「わかってる」


耳に響く、高音が聞こえてくる


―お兄ちゃん!写真送ってよ!


「送らない」


―なんでよ!


「うるさい。だまれ」


―まぁ、そういうことだ

―大事にして、泣かせるんじゃないぞ


「大事にしてるし、泣かせてない」


―なら、いい



***



リビングでの電話が終わったのか、恒一さんがダイニングへ入ってきた。


「泣いたの?」


「んーん。泣いてない」


「嘘だ」


私は、笑った。


「受けることにした?」


彼が聞く。


「うん」

「名字が変わって、朝倉さんの家に入るその日までは、うちの娘だからって」

「ちゃんとしてあげたいって、言われました」


彼は頷いて言った。


「うちも同じだった」

「何もするなと言われても困るって」


私たちふたりで、決めているつもりだった。

でも、春へ向かう道の両側には、ちゃんと見守ってくれる人たちがいた。


4月19日。

その日を、ふたりだけではなく、両方の家が待っていてくれる。


そう思ったら、胸の奥が温かくなった。



3


午後からの出勤。遅番だ。


13時少し前に、インフォメーションカウンターに立つ。

早番の恵美はすでに立っていて、軽く申し送りをした。

午前中は、いつも通りだったようで、トラブルはなし。


落ち着くと、どうしても思い出してしまう日付。


4月19日。

カレンダーに書き込んだその数字が、ずっと頭のどこかで光っていた。


私は制服のスカーフを結びなおしながら、深呼吸をして落ち着こうとしていた。

それなのに。

隣の恵美に、声を掛けられた。


「ひより?」


左を見ると、恵美がじっとこちらを見ていた。


「なに?」


「今日、なんかずっとニヤけてない?」


「そんなことないよ」


恵美は、腕を組んで、じっと私の顔をのぞきこんだ。


「まぁ、だいたい察しはつく」


「え!?」


また、顔!?


恵美に隠すこともない。

悪いことじゃないんだから。


「入籍する日、決まった」


「おお!」


恵美の声が、思ったより大きくて、慌てて「しーっ」と指を立てた。


「ごめん、ごめん」

「いつ?」


「4月19日」

「大安だったの」


言葉にして、その日付がもう一度、確かな形になった気がした。


「いい日じゃない」

「ひより、春がいいって言ってたもんね」


恵美が、まるで自分のことみたいに頷いた。


「両親にも言ったの?」


「うん。朝に電話した」


そこで、少しだけ言いづらくて言葉を選ぶ。


「それでね、フォトウェディングの費用を話したら」


「うん」


「両方の親が、ちょっとずつ出してくれることになった」


「ああ、なるほど」


「全部じゃないけど、結構大きい金額を」


スタジオのプラン表を見ながら「ここはちょっと贅沢かな」と肩をすくめた、あの金額が頭に浮かぶ。


「ありがたいね」


素直にそう言うと、恵美は即座に頷いた。


「それは、素直に受け取るのがいちばんだよ」


「甘えすぎかなって、思ったりしたんだけど」


心のどこかにあった小さな引っ掛かりが、思わず口から出た。


「全部おんぶにだっこなら、さすがにねって思うかもだけどさ」

「いっぱいがんばったじゃん」

「シフトやりくりして、計画して、準備して」

「そこに、ちょっと親の気持ちが乗っかるだけだよ」


「そうかなぁ」


「将来、何十年後かに、あんたの子どもが結婚するとき」

「おばあちゃんやおじいちゃんが、費用を手伝ってくれたって話せるでしょ」

「そっちのがいいじゃん」


想像して、ちょっとくすぐったくなった。


「だから、ありがとうって受け取るのが正解だと思うな」

「それに、ひよりの顔」


「え?」


「この前までの『チェックリスト』に追われている人の顔じゃなくなった感じする」


「ひどい」


「褒めてるの」

「ひより、ちゃんと顔が明るくなってる」


恵美にそう言われて、思わず頬に手を当てたとき。


「何褒めてるんですか」


少し、くだけた声がした。

恵美が、慌てて言った。


「いらっしゃいませ。……って、亮じゃん」


インフォメーションカウンターの前に制服姿の神田さんが立っていた。

神田さんは、クリアファイルを軽く持ち上げて見せた。


「これ」

「館内巡回ルートの変更メモ」

「インフォ前から、ちょっと動線変わるんで」


恵美は内緒話をするように、口元を手で囲うみたいにして言った。


「入籍する日、決まったんだって」


「あ、言っちゃう?」


私が小さく抗議の声を上げると、恵美は「親友特権」と肩をすくめた。


「マジっすか」

「いつですか?」


そう言って、私を見た。

恵美が、そのまま続ける。


「4月の19日だって」


「わぁ、春ですね」

「おめでとうございます」


神田さんは、礼儀正しく言った。


恵美は、「その日をちゃんと覚えとかないと……」と言いながら、スマホのカレンダーを見ている。


「恵美さん、そういう日付覚えるタイプなんですね」


「人によるわよ」


「じゃあ、俺の誕生日も覚えてください」


「……知ってるから、それはもういいの」

「さっさと行きなさい。巡回中じゃないの?」


ちょっと、沈黙してた神田さんが、慌てて言った。


「あ、あぁ、そうでした」


軽く頭を下げて、神田さんは人混みへと戻って行った。


神田さんの背中を見送りながら、恵美は何も言わなかった。

けれど、さっきより少しだけ、カウンターに置いた指先が落ち着かないように見えた。


4月19日。

その日を覚えてくれる人が、また増えた。

私たちの記念日は、少しずつ周りの人たちの中にも置かれていく。



4


遅番の日の帰り道は、いつもより街の明かりが遠く見えた。


部屋に着いたのは、21時半過ぎ。

簡単に、夕ご飯を準備した。


鍵が回る音がしたのは、23時前。


ガチャ、とドアが開いて、恒一さんが「ただいま」と言った。


「おかえりなさい」

「ご飯、温めるね」


「うん」


温め終わったお皿を並べて、恒一さんと向かい合って座る。


「どうだった、今日」


箸を持ちながら聞かれて、少し笑顔になった。


「なんかね、いっぱい『おめでとう』を言ってもらいました」


「そうか」


「たまたま、神田さんも来てて」


「神田が?」


「はい。なんだか嬉しかったです」


「そうか」


恒一さんは、それだけ言って、ご飯を一口食べた。

少し間をおいて、ゆっくり続けた。


「全部、ひよのものだから」


「え?」


「両親からの『おめでとう』も」

「前田さんと神田からの『おめでとう』も」

「写真の援助も」


恒一さんは、私をまっすぐ見る。

初めて、会った時のように。


「全部、ひよのものだから」


胸の奥が、きゅっとなる。


「……ふたりのじゃなくて?」


「もちろん、ふたりのことだけど」

「こういうのは、最初にひよのところに届くものだろ」


少し、視線を迷わせてぽつりと続けた。


「俺の分は、ひよが笑ってくれれば、それで足りるから」


「…ちゃんと受け取るね」


声が震えそうになるのを、誤魔化すように笑って見せた。


「ありがとうって、言って、ちゃんと受け取る」


「うん」


その日を決めたことで、私はたくさんのものを受け取った。


親からの気持ち。

友人からの祝福。

そして、面の前にいる彼からの大きな愛情。


4月19日。

私たちの日は、たくさんの人の気持ちに支えられながら、春の中に置かれた。




ひより日和 婚約編 第10話 「一身に受ける」 おわり


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