第10話 刀工、次の一振を定める
朝。
鍛冶場の炉は既に起こされていた。
炭が静かに爆ぜ、赤から白へと色を変えていく。武蔵国住兼真は足でフイゴを踏み込みながら、炉の中の鋼を見ていた。
昨夜、選り分けた鉄は悪くなかった。
玉鋼には及ばない。
だが、影打一振を打つには足りる。
問題は——誰に渡すかだ。
金床の前には、昨夜のままの静けさが残っていた。
鍛冶場の外では、既にエルザが立っている。
手は軍刀ベルトに下げた刀へ自然に伸び、肩の力は抜けていた。最初にここへ転がり込んできた時よりも、立ち姿だけで別人に見える。
少し離れた場所には、ガルドと部下たち。
誰も無駄口を叩かない。
今日は遊びではないと、全員が理解していた。
兼真は鋼を引き出した。
金床へ置く。
鎚を振り下ろす。
甲高い音が鍛冶場に響く。
一打。
もう一打。
返ってくる音を聞き、わずかな歪みを拾い、修正する。
鉄は隠せない。
打てば出る。
熱も、癖も、地も、全部出る。
兼真は無言で打ち続けた。
外で見ていたガルドが、低く呟く。
「……本当に、一人でやるんだな」
エルザは視線を兼真から外さずに答えた。
「最初からそうだ」
「助手も取らないのか」
「必要無いんだろう」
その返事に、ガルドは苦笑した。
「いや。必要だとしても取らん顔だ」
その通りだった。
兼真は誰の手も借りない。
借りられないのではない。借りる気が無い。
炉へ戻す。
加熱。
引き出す。
また打つ。
鍛冶場の中では、その繰り返しだけが絶対だった。
やがて兼真は鎚を止めた。
鋼を持ち上げ、光へ透かすように見る。
まだ足りない。
再び炉へ入れる。
フイゴを踏む足が一定の調子を刻む。
その音を聞きながら、エルザは自分の呼吸も合わせていた。
昨日までと違う。
鍛冶場の音が、もうただの雑音ではなかった。
火の強さ。
鎚の間。
止める位置。
その全部に意味があると分かる。
「……見ているだけで分かるのか」
ガルドが言う。
エルザは小さく首を振った。
「分からん」
「だろうな」
「だが」
エルザは続ける。
「無駄が無いのは分かる」
ガルドは黙った。
その時だった。
兼真が不意に口を開く。
「エルザ」
名を呼ばれ、エルザは即座に顔を上げた。
「何だ」
「入れ」
短い指示。
エルザは迷わず鍛冶場へ入る。
炉の熱が頬を刺す。
兼真は顎で作業台の端を示した。
「そこに立て」
エルザは従う。
兼真は次にガルドを見る。
「お前もだ」
ガルドが目を細める。
「俺もか」
「そこだ」
金床から少し離れた位置。
互いに一歩で届かず、しかし動きは見える距離だ。
二人が立つ。
兼真はその位置関係を見た。
肩幅。
手の長さ。
腰の位置。
踏み出しの癖。
無言のまま確認し、また鋼へ視線を戻す。
「……測っているのか」
ガルドが問う。
兼真は答える。
「見ているだけだ」
それは否定ではなかった。
エルザは気づく。
この男は、刀だけを見ているのではない。
使い手も見ている。
いや——刀に合うかどうかという基準で、使い手を見ている。
兼真は鋼を引き出した。
今度は打たない。
静かに見て、短く息を吐く。
「これでいい」
その一言で、空気が変わった。
ガルドが一歩踏み出しかける。
「決まったのか」
「まだだ」
兼真は鋼を置く。
「地は悪くない」
「なら」
「使い手が決まっていない」
即答だった。
ガルドは笑う。
「結局そこか」
「そこだ」
兼真は水を一口含み、喉を湿らせる。
それから刀架へ向かった。
掛けてあった影打の中から一振を取り、静かに抜く。
刃を見る。
光を受けて、地が浮く。
反りは深すぎず、元幅も無理がない。女でも男でも振れるよう、極端には寄せていない。余裕を残した設計。その思想は、既にこの数振に通っている。
「外へ出ろ」
兼真が言った。
三人は鍛冶場の前へ出る。
森の木立の間に、昨日立てた巻藁の残りがある。
兼真は新しい巻藁を一本、静かに据えた。
「見るのか」
ガルドが言う。
「違う」
兼真は巻藁の位置を直す。
「見せる」
短い言葉だった。
エルザの目がわずかに細くなる。
兼真は影打一振を帯に差し、その位置を整える。
作業着の帯に収まった刀は、軍刀ベルトのような固定はない。だが、帯の締めと差し角だけで十分だった。
姿勢は自然だった。
力んでいない。
だが、崩れない。
「昨日は見せただけだ」
兼真は言う。
「今日は比べる」
エルザとガルドが黙る。
兼真は巻藁の正面へ立つ。
「エルザ」
「……何だ」
「お前が先だ」
エルザは一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに前へ出た。
刀に手をかける。
呼吸を整える。
抜く。
引く。
流す。
巻藁が斜めに滑って落ちた。
悪くない。
昨日までより明らかに良い。
だが、兼真は何も言わない。
「次」
ガルドが前へ出る。
「俺もか」
「やれ」
ガルドは長剣を見下ろし、少しだけ肩をすくめた。
「これは刀じゃない」
「関係無い」
兼真は言う。
「叩くな」
ガルドは苦笑しつつも、構えを変えた。
普段の打ち込みではなく、意識して力を抜く。
踏み込みを浅くし、引くように斬る。
巻藁は斬れた。
だが、落ち方が違う。
引き切れていない。
抵抗が残っている。
「……難しいな」
ガルドが呟く。
「だから言っている」
兼真は影打一振を抜いた。
静かに立つ。
帯に差した位置から、無駄なく手をかける。
「よく見ろ」
次の瞬間。
兼真が抜いた。
居合。
帯から滑らせるような抜き上げと、わずかな腰の送りだけで、刃が最短で走る。
巻藁に刃が通る。
音もなくずれ、時間差で落ちた。
誰も声を出さない。
兼真はそのまま納める。
終わり。
それだけ。
「もう一つ」
兼真は巻藁をもう一本立てた。
今度は帯から抜いた影打を両手で持つ。
中段。
自然体。
ガルドが息を呑む。
エルザは瞬きすらしない。
兼真は踏み込まない。
ほんのわずか、重心だけを送る。
そして引く。
巻藁がまた、遅れて落ちた。
同じ結果。
だが、始まりが違う。
「……居合と」
エルザが呟く。
「中段だ」
兼真が答える。
「どちらも引いている」
ガルドが言う。
「そうだ」
「叩いていない」
「そうだ」
兼真は影打一振を帯へ納めた。
静かに、当たり前のように。
「欲しいのは、これか」
ガルドが聞く。
兼真は頷かない。
ただ言う。
「欲しいなら、そこへ来い」
言葉は短かったが、意味は十分だった。
エルザは刀を握る。
ガルドは自分の剣を見る。
二人とも理解した。
兼真が選ぶのではない。
刀に届く動きができるかどうか。
それで決まる。
兼真は鍛冶場へ戻った。
炉の前に立つ。
フイゴを踏む。
火が再び強くなる。
「今から打つ」
背を向けたまま言う。
「次の一振は、見て決める」
エルザは答えない。
ただ、鍛冶場の前で静かに構えた。
ガルドもまた、剣の握りを直す。
森の中で。
火と刃と呼吸の音が、同じ場所に集まり始めていた。




