第32話 王妃の記録
リディア様は、先代王妃の記録箱を開ける準備を始めた。
旧記録庫で見つかった黒布の箱。
夜明け竜胆の封印。
黒鱗に侵された糸。
それは、アシュレイ陛下の母に関する記録であり、王家の呪いの根に触れるものでもある。
だからこそ、急いで開けることはできない。
「花冠は、急がせると歪む」
リディア様が言った。
「セレスティア様も同じことを言っていました」
「彼女はよく分かっているわ。自分の花で苦しんでいる人は、他人の花にも敏いもの」
私たちは王の書庫の一角を仮の修復室にしていた。
机の上には王妃記録箱の写し、封印糸の拓本、戴冠花冠の黒鱗片、十五番の婚約花冠。
花冠院長の許可ではなく、王命で置かれた修復台。
以前なら考えられないことだ。
リディア様は封印糸の拓本を見ながら言った。
「この結び方は古い。今の花冠院では使わない」
「先代王の頃ですか」
「ええ。王妃様が亡くなられた年に廃止された」
「なぜ」
「記憶封じに使えるから」
私は手を止めた。
「記憶封じ」
「誓約花に残る記憶を、一時的に眠らせる技術。もとは戦時中、敵に記録を読まれないよう使われた。でも、人の不都合を隠すのにも使える」
王妃様の記録箱。
黒鱗。
記憶封じ。
線が一本ずつつながっていく。
「王妃様は、何かを封じられたのですか」
「それを知るために開けるの」
リディア様はそう言ってから、少しだけ声を落とした。
「でも、ミラ。箱を開ける時、あなたに全部読ませるつもりはない」
「なぜですか」
「あなたの代償が重くなりすぎる」
「でも、私が読まなければ」
「私も読む」
リディア様はまっすぐ私を見た。
「私は今まで怖くて読まなかった。でも、もう逃げない。あなた一人に残響を背負わせない」
その言葉に、私はしばらく返せなかった。
花冠院の上級修復師。
昔、怖くて黙った人。
でも今、怖いまま鍵を持ち、記録箱の前に立っている人。
完璧な人ではない。
だから信じられる。
「一緒に読みましょう」
「ええ。ただし、準備してから」
準備は三つあった。
一つ、代償記録。
二つ、立会人。
三つ、逃げ道。
逃げ道とは、残響に飲まれた時に強制的に引き戻す花のことだ。
リディア様はそれを「帰り花」と呼んだ。
「帰り花には、本人が今の自分に結びついている花を使う」
「私の場合は」
「契約紙の白い蕾がいいでしょうね」
私は契約紙を見た。
アシュレイ陛下と交わした修復契約。
そこに浮かぶ白い蕾。
まだ咲いてはいない。
でも、昨日の眠りかけた事件で、確かに陛下の眠りを受け止めた。
「陛下の場合は」
私が聞くと、リディア様は黙った。
「陛下には、帰り花が少ない」
その言葉が重かった。
人を今に結びつける花。
王には、それが少ない。
王冠。
戴冠花冠。
王家の誓約。
それらは陛下を王に縛る。
でも、アシュレイという人を今に戻す花ではない。
「ノア様の忠誠花は」
「近いけれど、あれは陛下を守る花。陛下自身が帰る花ではないわ」
私は胸が痛くなった。
「作れますか」
「時間がかかる。本人が選ぶ花でなければ意味がない」
本人が選ぶ花。
セレスティア様の咲かない蕾も同じだ。
誰かに咲かされる花ではなく、自分で選ぶ花。
その日の夕方、アシュレイ陛下に帰り花の話をした。
陛下はしばらく黙っていた。
「私の帰り花か」
「はい。王としてではなく、アシュレイ様自身が今へ戻るための花です」
また、名前で呼んでしまった。
今回は訂正できなかった。
陛下も訂正しなかった。
「私に、それがあると思うか」
静かな問いだった。
私はすぐに答えられなかった。
軽々しく、ありますと言いたくなかった。
「今は、少ないと思います」
「正直だな」
「でも、作れます」
「誰が」
「陛下が」
私は契約紙の白い蕾を見た。
「私たちは手伝えます。でも、帰る花は本人が選ぶものです」
陛下は窓の外を見た。
春祭りの灯りが、遠くで揺れている。
「眠らないことを選んだ時、私は帰る場所を減らしたのかもしれない」
「増やしましょう」
陛下は私を見る。
「簡単に言う」
「難しいことだから、簡単な言葉で始めます」
少しの沈黙。
やがて陛下は、ほんのわずかに笑った。
「君のそういうところは、時々ずるい」
ずるい。
王にそう言われる日が来るとは思わなかった。
王妃の記録箱はまだ開いていない。
でも、それを開くために必要な花が見え始めた。
過去を読むには、今へ戻る場所がいる。
王家の呪いを追うほど、私たちは今の自分たちの花を探すことになる。




