<番外>記憶
カランコロン……
あの頃と変わらない音が修一を迎えた。
カウンターの奥からは「いらっしゃいませ」と変わらない声がする。
修一はカウンターに座るとアメリカンを頼んだ。
「おまちどう様です」
カウンター越しの修一を見て気がついた瀬戸は
「おっ修一くん、久しぶりだね」とコーヒーを出した。
「ご無沙汰してます」
修一はにこやかな顔で挨拶をした。
しばしの雑談の後、思い出したように
「そういえばこの間純子ちゃんも来たよ」
と言った。
修一は驚き瀬戸を見た。
「いつ頃ですか?」
「うーん…2ヶ月くらい前かな。会社のお使いの途中だって言ってたかな」
純子が倒れた時期だ。
瀬戸は話を続けた。
「純子ちゃん、ずいぶんと綺麗になったね」
「純子は何か言ってましたか?」
瀬戸は思い出しながら
「修一くんとはどうなってるの?って聞いたら急につらそうな顔してね……なんかあったのかい?聞いちゃまずかったのかな」
「いえ……実は」
修一は今の純子の状況をざっと説明した。
「——そうだったのか。知らなかったもんだから、純子ちゃんには悪いことしたな……」
瀬戸はうなだれてしまった。
「ごちそうさまでした。また来ます」
修一はお代をカウンターに置くと店を後にした。
退院前の診察を受けるため純子は主治医の前の椅子にすわっていた。
主治医はレントゲンやCT写真を見ながら
「うん異常は全くないね。来週退院できるよ。ご両親にも連絡しておくね。些細なことでもいいから何かあったらすぐに来てね」と言った。
「ありがとうございます。……あの……」
純子は記憶が戻り修一の顔を思い出したことを言うべきか迷っていた。しかし記憶の事で3年間も通院していたのたから伝えておかなければ。
「あの……記憶が戻るってことはあるんですか?」
「うん、前から言ってるけど完全に戻るって訳にわいかないけど、戻る可能性はあるよ。君の記憶障害は一部だからね。その後はどう?」
「はい実は……唯一思い出せなかった彼の顔をはっきり思い出しました」
「それはいつ?」
主治医は驚きを隠しつつ純子に聞いた。
「目が覚めた時に……。その時はおぼろげだったんですが、今ははっきりとわかります」
「分かりました。ご両親には?」
「いえまだ知りません。私から報告してもいいですか?」
「いいですよ。ご両親もきっと喜んでくれると思いますよ」
「あと一つ聞いてもいいですか?」
主治医は頷いた。
「3年前の事故で彼がどうなったか知りませんか?両親や友達には聞きづらくて」
「うーん申し訳ないけど、彼の事はわかない。医師には守秘義務があってね、例えわかったとしても教えられないんだ」
「そうですか。すみません、こんな事聞いて」
「いや、役にたてなくてごめんね」
退院の事を両親に連絡した後、純子はベッドの上で考えた。
記憶が戻った事は言わなかった。
退院の日、母は手続きなどをするため病室を離れていた。
だいたいの物は事前に母が持って帰ってくれたので持ち物は少ない。
荷造りも終わり、純子は窓から外を眺めていた。
窓からは病院の入り口と中庭が見える。大勢の人が出入りする様子を見ていると、その中に見覚えのある顔が見えハッとした。
「修一?」
純子は気付くと駆けだしていた。
ハアハアと息を切らしさっき修一らしき人物を見つけた場所へきた。
どこ?
周りを見渡すがそれらしき人は見当たらない。
見違いだったのか?
病室へ帰る途中、ガラスの向こうには別棟の談話室が見える。ガラス張りの談話室は明るい光が射し込み、入院患者と見舞いの人たちが談笑しているのが見える。
その談話室に母の姿を見つけた。
話が終わったのか母と話していた人物が母に頭を下げて歩いていく。
「修一?……修一!」
純子は叫んだ。
が、ガラスに邪魔され声は届かない。
周りの人が驚き足を止めた。
純子はまた駆けだした。
息を切らせ談話室を出る母を捕まえた。
「お母さん!修一は!」
「えっ?修一さん?」
「修一はどこ?今ここで話してたじゃない」
口ごもる母にしびれをきらし純子は修一が去っていった方へ走っていった。
走りすぎて胸が苦しい、でも修一を見つけなきゃ……。
ここで見失ったらもう二度と会えない気がした。
修一どこ?
病院の地下駐車場、修一は車のドアに手をかけた。
『もう純子のことは諦めて』
純子の母の言葉が胸を刺す。
「——退院だそうですね、おめでとうございます」
「ありがとう…。修一さん、こんな事言うの失礼だと思うんだけど……もう純子の事は諦めて下さい。あなたの人生を滅茶苦茶にして申し訳ないけど。記憶が戻らない以上あなたを苦しめるだけだわ。純子とは離婚して新しい人生を歩んで」
「……」
「純子があんなんじゃ夫婦っていっても紙の上だけの事だし。この先一緒には暮らせないと思うの。3年間も無駄にさせて本当に申し訳ないけど。純子は充分幸せだったと思うわ」
「待っていてはダメですか?」
「あの子はあなたが死んでしまったと思っているの。はっきりとは言わないけど——」
確かにそうだ。
俺はずっと純子を待っていたけど純子はそれを望んでいただろうか。俺は純子の親の重荷になっていたのかもしれない。
もう諦めた方がいいのかもしれない。
「修一!」
振り返ると純子がいた。
「純子?」
修一は驚き目を見開いた。しかしすぐに顔を伏せて
「人違いです」
と言った。
今さっき諦めると決めたのだからこれ以上純子を見ることができない。
「うそ!あたしを『じゅんこ』って呼ぶのは修一しかいないもん」
「あっ……」
修一は確かに『じゅんこ』と呼んでいた。
薄暗い駐車場でしばし沈黙が続いた。
修一が口を開いた。
「純子、記憶が戻ったのか?」
「うん、倒れた後に思い出したの。修一は元気だった?もう他の人と……一緒に?」
「いや、まだ一人だよ。彼女もいない」
「そう……」
「……もう純子を諦めようと思ってた。お義母にも言われたんだ『純子を諦めてくれ』って。でも純子が思い出してくれたって事は諦めなくていいって事なのか?純子は俺でいいの?」
「修一に会いたかった……ごめんなさい、思い出せなくてごめんなさい」
涙を流して修一に謝った。
「ごめんなさいっ」
修一は静かに純子に近づくと三年振りにその体に触れた。
「ずっと待ってた。おかえり純子」
「ただいま」
純子は修一に抱きつき、二人はきつく抱き合った。
修一の匂い。あの時から変わらぬ匂いに純子は涙で頬を濡らした。
そして2人の唇が優しく触れあった。
「純子、綺麗になったね」
修一の言葉に純子は頬を赤らめた。
「そんなことないよ……。なんだか初めて修一に触れたみたい……」
「でもこの唇は覚えてる」
修一はもう一度唇を重ねた。
純子は母親が待っている病室に修一と一緒に戻ってきた。
「純子、あなた記憶が?」
「うん。ごめんね、黙ってて」
二人が堅く手を繋いでいるのをみて母親は純子の記憶が戻ったことを悟った。
退院から二日後、神崎家には純子の両親と純子、それに修一がいた。
純子は記憶が戻ったこと、二人の気持ちは三年前から変わっていないこと両親に話した。
話を聞いていた純子の父親は半信半疑だったが、母親は信じていた。
「お父さん、ねっ……」
母親が父親を見ると、難しい顔をしていた顔が緩んだ。
「うん。修一くん、もう一度純子をもらってくれるかい?」
父親は微笑みながら修一に聞いた。
「もちろんです」
修一は純子の手を握りしめ笑顔で返事をした。
それから程なくして二人は一緒に暮らし始めた。
一緒に住み始めて五日後、いつも通り仕事をしていると昼休みの時間に修一から電話がきた。
「純子、瀬戸さんが明日の夜店に来てだって」
「瀬戸さんが?何だろう」
「さあ…?」
次の日、会社帰りに待ち合わせをして2人は《喫茶・夕凪》へ向かった。
店に着くとドアに掛かっているプレートは《close》になっており店内は暗く店は閉まっているようだった。
「あれ?」
「開いてるの?」
修一がドアを押すとカランコロンとドアベルがなり内側に開いた。
修一がドアを開け続いて純子も店内へ。
「こんばんは……瀬戸さん?店長?」
店の中はシンとしている。
「ねえ…本当に——……」
純子が言いかけたその時、パッと電気がつきパンパンとクラッカーがなった。
「きゃっ…!」
「おめでとう!!」
灯りがつくとそこには瀬戸と雪絵、大学時代の友達や会社の同僚の達が手をたたいていた。
店の壁には
『退院&結婚おめでとう』と大きく書かれた紙が貼られていた。
「えっ?」
2人は目を丸くした。
2人には内緒で雪絵を中心に準備していたらしい。
「純子。退院、そして結婚おめでとう!」
「雪絵……」
純子と雪絵はしっかり抱き合った。
「ありがとう雪絵」
「これ、あたし達からのお祝い。ほんの気持ちだよ」
そう言い、きれいな花束と可愛らしいクマのウエディング人形を渡された。
純子は涙を拭くと「結婚の話、誰から?」ときいた。
「あたしの情報網は広いのよ」
雪絵はウインクをして純子のおでこをつついた。
「西根さん、純子をよろしくお願いしますね」
もらい泣きしながら雪絵は修一に頼んだ。
「ああ、ありがとう」
修一は瀬戸を見ると
「瀬戸さん、ありがとうございます」と言った。
「なに、修一くんと純子ちゃんの晴れ舞台だ。私も彼女に協力させてもらったよ」
ちらっと雪絵を見て瀬戸は笑った。
「あたしたち幸せ者だね……」
1ヶ月後の検査でも異常は見つからなかった。
「後遺症の心配もないね。もう完全に完治したようだね。よく頑張った、もう定期検診は大丈夫」
担当医にお墨付きをもらい純子は病院を後にした。
「もう大丈夫だって」
純子は家に帰り修一に報告した。
「そうかよかった。お義父さんたちには?」
「うん、帰りに報告してきた」
修一は微笑んだ後何かを思い出したように「ちょっと待ってて」といい隣の部屋に消えた。
戻ってきた修一は純子の目の前にリボンのかかった小さな箱を置いた。
「まだだったよね」
そう言うと修一は小さな箱から指輪を取り出し純子の左手の中指にはめた。
純子の中指できらりと指輪が光る。
「じゅん……いや、『すみこ』愛してる。改めて結婚しよう」
純子の瞳から涙がキラッとこぼれた。
「あたしも……修一を愛してる」
泣き笑いになった純子を修一はきつく抱きしめ何度も何度も「愛してる」と囁いた。
「結婚式もしよう。この間の人達を呼んで」
「うん」
新緑が萌えきれいに澄み渡る初夏の空。
純白のウエディングドレスに身を包んだ純子は父親と腕を組み、バージンロードの先で待つ修一の元へ歩いていく。
「汝、健康の時も病めるときも——」
この言葉がぴったりとくる人は他にいないのではないか。
参列者は皆、修一の事を思っただろう。
「——これを愛しい敬い慰め遣えて共に助け合い、永久に節操を守ることを誓いますか?」
「誓います」
誓いのキスを交わし参列者に祝福された二人は笑顔になる。
挙式が終わり外に出た二人。
澄み渡る夏の空高くブーケが投げられた。