83話:エリシア終わり
かつて、その足音だけで廊下の空気を引き締め、その一瞥だけで百の将兵を平伏させた女がいた。
エリシア。
彼女の名は権力の象徴であり、彼女の意思はこの国の針路を定める羅針盤であったはずだった。
だが、今、王都の回廊を歩く彼女を包んでいるのは、冷徹なまでの静寂だった。
廊下には、依然として人の姿がある。
着飾った貴族、分厚い書類を抱えた文官、巡回する衛兵。
彼らは確かにそこに存在し、忙しなく行き交っている。
だが、誰一人として彼女と視線を合わせようとはしない。
すれ違う瞬間、彼らは申し合わせたかのように視線を落とすか、あるいは壁の装飾に熱心な関心を向けるふりをする。
以前であれば、彼女の姿を認めれば遠くからでも足を止め、深く頭を垂れたはずの者たちが、今は透明な壁でも隔てられているかのように彼女を無視して通り過ぎていく。
挨拶の声すら、かからない。
物理的な接触を避けるような、露骨で、それでいて静かな拒絶。
誰も彼女を見ていない。
そこにいるはずの「エリシア」という存在は、彼らの世界から、書き損じた文字のように丁寧に消去されていた。
――執務室。
彼女は自分の席に座る。
慣れ親しんだ、最高級の木材で作られた重厚な机。
かつては、ここに収まりきらないほどの報告書や陳情書、決済を待つ機密文書が山積みになっていた。
だが、今、目の前にあるのは、数日前に自分が置いたままの、埃を被りかけた古い書類だけだ。
時間は過ぎていく。
しかし、部屋の扉がノックされることはない。
急ぎの報告も、深刻な相談も、一切届かない。
外部との繋がりを断たれた、窓のない牢獄のような静寂が部屋を支配している。
「……次は?」
エリシアは、自分でも驚くほど小さく、掠れた声で呟いた。
秘書官を呼ぶつもりだった。あるいは、次の予定を確認するつもりだった。
だが、その問いに対する返事はない。
扉の向こう側に気配はあっても、誰も入ってこない。
彼女の声は、誰の耳にも届くことなく、冷え切った空気の中に霧散していった。
――会議。
円卓の席はすべて埋まっている。
重要閣僚、軍の有力者、各省の長。
顔ぶれは変わっていないはずだった。
だが、流れる空気の重質が、以前とは根本的に異なっていた。
議論は活発に行われている。
予算の配分、周辺諸国とのパワーバランス、崩壊しつつある国境付近の対応。
しかし、その激しいやり取りの中に、エリシアの席へと向けられる言葉は一つとしてない。
彼女は隙を見て、自らの意見を述べようとした。
国家の窮状を救うための、彼女なりの策を。
だが、彼女が言葉を発した瞬間、円卓を支配していた熱は一瞬で引いていく。
発言が止まるわけではない。
ただ、彼女の言葉を誰一人として拾おうとしないのだ。
まるで、壊れた蓄音機が勝手に鳴り出したのを無視するように、議論は彼女を飛び越えて再開される。
「それは後でいい」
誰かが、顔も上げずに短く切り捨てた。
その一言ですべてが終わり、彼女の存在は再び「空席」と同義になった。
議論は進む。決定も下される。
だが、そこにエリシアの意思が介在する余地は、微塵も残されていなかった。
――兵。
彼女は最後の拠り所として、かつて自らが手塩にかけて育てた精鋭部隊のもとへ向かった。
最前線の指揮官として、あるいは国家の守護者として、命令を下すために。
だが、彼女が「動け」と命じても、兵士たちの瞳に宿るのは当惑と、微かな憐れみだけだった。
彼らは動かない。
あるいは、彼女の命令とは全く異なる、別の場所から下された不透明な指示に従って、機械的に隊列を組み替える。
「聞こえていないのか」と問い詰めても、返ってくるのは虚無的な沈黙だけだった。
指揮権。
それは、相手が従うという合意があって初めて成立する幻想だ。
その幻想は、すでに粉々に砕け散っていた。
彼女が握っているはずの指揮棒は、今やただの古い杖に過ぎなかった。
――結果。
誰も、彼女を見ていない。
誰も、彼女に従わない。
権力という衣を剥ぎ取られ、存在という核を否定されたエリシア。
彼女は、そこに立っているだけの「現象」に成り下がっていた。
エリシアは、ゆっくりと立ち上がる。
震える唇を開き、何かを叫ぼうとした。
自分はまだここにいる。自分はまだエリシアである。この国を、民を、導く義務があるのだと。
だが――言葉は、喉の奥で硬い塊となって、外へ出ることを拒んだ。
意味がない。
何を発しても、誰にも届かない。
何をしても、世界は一ミリも動かない。
変えられないという冷徹な事実を、彼女自身の理性が、あまりにも深く理解してしまっていたからだ。
――沈黙。
周囲の人間は、彼女を責めることもしない。
罵倒し、追い出すこともしない。
ただ、触れないのだ。
関わらないのだ。
腫れ物に触れるような忌避ですらない。
そこに存在しないものとして扱う、究極の「無関心」。
彼女は、自分が生きたまま埋葬されているのだと気づいた。
完全に、この世界から切り離されている。
やがて。
誰もいなくなった、暗い廊下の隅で。
震える吐息とともに、小さく、重い声が落ちた。
「……なぜ……」
その問いに答える神も、悪魔も、そして人もいない。
返ってきたのは、彼女自身の虚しい木霊だけだった。
「……私は、間違っていなかったはずなのに」
エリシア。
彼女の物語は、ここで終わった。
崩壊する国家の中で、一人の人間が完全に消滅する。
その終焉は、あまりにも静かで、あまりにも冷酷だった。




