56話:エリシア再訪
――昼。
新しく「国」となったその場所の正門前。
整然と続く選別の列の横を、砂埃を立てずに一台の馬車が静かに滑り込んできた。
派手な装飾は一切ない。しかし、漆黒に塗られた木材の質感、車輪の滑らかな回転、そして馬車を囲む護衛たちの無駄のない所作が、持ち主の隠しきれない格の高さを示していた。
馬車は門のわずか手前で、意志を持っているかのようにピタリと止まる。
重厚な扉が開くと、一人の女が静かに降り立った。
エリシア。
かつて、この場所がまだ名もなき辺境の街であった頃、何らかの意図を持って関わり――そして、冷徹な計算のもとに去っていった存在。
彼女は、日差しを遮るように手をかざし、周囲をゆっくりと見渡した。
そして、その瞳に驚愕の色を隠すことができなかった。
すべてが変わっていた。
絶え間なく続く人の流れ。
肌を刺すような、しかし心地よい緊張感を含んだ空気。
そして、誰に強制されるでもなく隅々まで行き届いた規律。
何より、そこにいるすべての人間に、かつてのような「寄る辺なさ」がない。
自分たちが何者であるかを知っている者の、迷いのない意志だけがそこに充満していた。
「……本当に、国になったのね。あの時の戯言を、形にしてしまうなんて」
エリシアは、自分にしか聞こえないほどの声で小さく呟いた。
だが、その言葉に優しく応じる者は、もうここにはいない。
門の内側から、一人の男が歩いてくるのが見えた。
オルシェ。
その足取りの確かさは、かつてと変わらない。
だが、彼が纏っている気配は、以前のそれとは決定的に異なっていた。
もはや、一人の青年という「個」ではない。
背後に数千、数万の命を背負い、その総体としての意志を体現する存在。
彼は歩く「国家」そのものとして、エリシアの前に立った。
エリシアは、かつての親愛を込めるように、わずかに一歩だけ前へ出た。
「オルシェ」
その名前を呼ぶ。
甘く、どこか懐かしさを孕んだ響き。
だが、二人の間に横たわる見えない距離は、一分たりとも埋まることはなかった。
「話があるわ。急に訪ねて驚かせたかもしれないけれど」
エリシアが、努めて冷静に言葉を紡ぐ。
「我が家と――我がバルティカ家と、この国の今後についてよ」
彼女が言葉を続けようとした、その瞬間。
「いらない」
短く、そして鋭利な刃物のような声が、彼女の言葉を遮った。
一拍。
門前の空気が、真空になったかのように凍りついた。
エリシアの言葉は、行き場を失って宙に浮いたまま、音もなく霧散していった。
「……まだ、何も言っていないわ、オルシェ。我が家が提供できる支援の規模も、帝国の監視を逃れるための提携案も」
エリシアはわずかに眉を寄せ、困惑を滲ませる。
彼女にとって、今のこの国は「投資対象」として最高級の価値を持っていた。だからこそ、持てる限りの条件を持って、交渉の席に着くつもりだったのだ。
だが、オルシェの鉄仮面のような表情は、微塵も動かない。
「分かる」
一言。
それだけで、彼女が用意してきた数千、数万の言葉をすべて断ち切る。
「支援。提携。保護。名目は何でもいい。だが、その裏にあるのは支配だ。自らの傘下に入れ、管理し、いずれは自分たちの都合で切り捨てるための布石。……どれも同じだ」
淡々と、しかし一点の曇りもない言葉が続く。
「全部、いらない」
沈黙。
門の前を行き交う人々の、規則正しい足音と荷車の軋む音だけが、皮肉なほど鮮明に響く。
エリシアは、諦めたようにゆっくりと息を吐いた。
彼女の計算高い頭脳が、目の前の男がもはや「交渉」という土俵にすら立っていないことを理解し始めていた。
「……変わったのね。もっと、柔軟な人だと思っていたけれど」
「違う」
即答。
「最初から、こうするべきだっただけだ。誰かの慈悲に縋らなければ生きていけないような脆弱さを、俺たちはもう捨てた」
その言葉に、わずかながらの痛みが混じったように聞こえた。
それは、かつての自分たちへの決別であり、彼女を信じようとした過去への葬送でもあった。
だが、そこには一片の後悔も、未練も残っていない。
エリシアは何かを言いかけ――そして、その口を噤んだ。
理解してしまったのだ。
もう、これ以上の対話は無意味であることを。
立っている場所が違う。見ている未来の形が違う。
そして何より――二度と同じ場所には戻れないことを。
「……そう。残念だわ」
それだけを残し、彼女は優雅に、しかしどこか空虚な動作で踵を返した。
彼女を引き止める声は、どこからも上がらない。
リーヴは門の横で腕を組み、冷ややかな視線を送っている。
セレスは机に向かったまま、一度として顔を上げることすらなかった。
エリシアは振り返ることなく馬車に乗り込み、扉を閉めた。
馬車は来た時と同じように、静かに、そして拒絶された異物のように去っていく。
オルシェは、その去りゆく影を見送ることはなかった。
視線すら向けず、彼はすでに、その先に待つ「現実」へと向き直っていた。
「次」
その一言で、止まっていた選別の流れが再開される。
止まらない。
個人の過去も、かつての感情も、かつての恩讐も。
この場所を構築する歯車には、そんな不純物が入り込む余地などない。
ここは、自らの足で立つ者たちの国。
誰かの庇護を求める場所でもなければ、去った者が都合よく戻ってくる場所でもない。
門は常に開いている。
だが、その門をくぐれるのは、過去を捨ててでもこの国を支える意志を持つ者だけだ。
――エリシアは、完全に“過去”となった。
新しい国家の歴史から、その名は静かに、そして徹底的に抹消されたのである。




