4話:悲鳴の村
――重い。
全身の細胞が「もう動きたくない」と抗議の声を上げている。
「はぁ……っ、くそ……!」
オルシェは奥歯を噛み締め、フォレストウルフの太い後脚を両手で掴み、一歩ずつ地面を這うように進んでいた。引きずられた巨体が草原に深い轍を残していく。
身体強化アクセル。
さっき自分の手で組み上げた、魔力を筋肉の爆発的な出力に変換するスキルだ。
これを使えば、常人には不可能な怪力を一時的に得られる。
だが――
「燃費、悪すぎだろ……!」
数歩動くごとに、肺が焼け付くような感覚に襲われる。吸い込む空気が足りない。
魔力の消費が激しすぎるのだ。まるで穴の開いたバケツに水を注ぎ込んでいるような感覚。一瞬の爆発力は凄まじいが、持続性が致命的に欠けていた。
それでも、オルシェは歩みを止めない。
視線の先には、残りのウルフの死体が転がっている。
この世界の価値基準はまだ分からないが、これだけの巨獣だ。食料としての肉、防具になる皮、武器に転用できる牙や骨。すべてがこの見知らぬ世界を生き抜くための「資源」に他ならない。
丸腰で放り出された自分にとって、これらを捨てることは、己の命を投げ出すのと同義だった。
「……村でも、あればな」
ぽつりと、乾いた唇から独り言が漏れる。
運ぶ先がない。腰を下ろして休める場所も、水一杯を分かち合える相手もいない。
何より、自分が今どこにいて、どこへ向かえばいいのかという情報が欠落していた。
――孤独。
その重苦しい現実が、身体的な疲労以上にオルシェの精神をじわじわと削り取っていく。
その時だった。
《――異常反応を検知》
脳内に無機質なアラートが響いた。
「……は?」
視界の端に、今までの「対象を直接見る」鑑定とは明らかに異なる表示が浮かび上がる。
それは点ではなく、面。自分を中心とした全方位的な「レーダー」のような機能だった。
《範囲拡張解析:試験起動》
《半径:約3.2km内をスキャン中……完了》
「そんなこともできんのかよ……」
驚きに目を見開く。自分の思考や欲望に呼応するように、鑑定スキルそのものが進化、あるいは隠された機能を解放しているようだった。
だが、感心している時間はなかった。
展開されたホログラムのようなマップが、突如として鮮血のような「赤」に染まった。
《危険度:高》
《人間反応:複数確認》
《敵対反応:武装集団》
《状況:交戦状態に移行中》
「……村か?」
確信に近い予感とともに、さらなる詳細情報がオルシェの脳内へ直接流し込まれる。
粗末な木柵で囲まれた小さな集落。
逃げ惑う人々の熱源反応。
それを冷酷に追い詰め、命を刈り取ろうとする動的な「悪意」の塊。
《敵:盗賊集団(推定12名)》
《武装:鉄剣・弓・火炎瓶》
《対象:北西方向の小規模集落》
《被害予測:防衛ライン崩壊につき、壊滅まで約18分以内》
「――ふざけんな」
思考を介するより先に、低い怒りの声が喉をついて出た。
18分。
それは、全力で駆け抜ければ、ギリギリで間に合うかもしれない時間。
救えるかもしれない命が、そこにあるという事実。
だが、オルシェは思わず自分の手を見つめた。
泥と返り血に汚れ、疲労で小さく震えている手だ。
自分はまだ、五体の狼を倒したばかりの「ただの人間」に過ぎない。
魔力は底をつきかけ、身体は悲鳴を上げている。
相手は人間だ。狼のような本能だけの獣じゃない。武器を持ち、連携し、殺しに慣れた十二人の徒党。
「……勝てるのか、今の俺で」
《勝率計算中……》
《単独突入時における全滅達成率:9%》
「……低すぎるな。笑えねぇよ」
苦い溜息が漏れる。
だが、オルシェの視線はマップの一点に吸い寄せられた。
《別個体:高エネルギー反応を検知》
「……なんだこれ」
表示のひとつだけが、周囲の盗賊たちとは明らかに一線を画す輝きを放っていた。
人間。
だが、生命力の密度も、魔力の波形も、他を圧倒している。
《個体分析》
・推定戦闘能力:高
・状態:深刻な疲労および多重負傷
・状況:包囲網の中心にて孤立
鑑定の視界がズームし、その場の情景が脳裏に焼き付く。
砂塵が舞い、家屋が燃える村の広場。
そこに、一人の女が立っていた。
女剣士。
長くしなやかな髪は乱れ、肌は返り血と泥に塗れている。
それでも彼女の振るう剣閃は鋭く、群がる盗賊たちを容易に近づけさせない。
凛としたその立ち姿には、死を目前にしながらも折れない「誇り」が宿っていた。
「……一人で、あれだけ相手にしてんのか」
畏敬に近い念が胸を去来する。
強い。美しく、そしてあまりにも危うい強さだ。
《生存予測:防衛限界。生命維持停止まで残り約6分》
「……チッ」
激しい舌打ちとともに、オルシェは顔を上げた。
時間が、砂時計からこぼれ落ちる砂のように消えていく。
迷っている間に、あの輝きは消えてなくなる。
「やるか、やらないか……そんなの、決まってんだろ」
選択は、最初からひとつしかなかった。
オルシェは目を閉じ、一度だけ深く深呼吸した。
さっきの戦いを思い出せ。
鑑定の情報があれば、不可能を可能に書き換えられる。
勝率が9%?
なら、戦場に着くまでの間に、それを100%にするための「策」を練ればいいだけだ。
「……0じゃないなら、十分だ」
目を開いたその瞳から、迷いが消える。
オルシェは、これまで必死に守り、運んできたフォレストウルフの死体から手を離した。
今は、死んだ肉よりも、生きている命だ。
「待ってろ、人助けなんて趣味じゃねぇが……」
《目的地:集落中心部。ルート最適化開始》
《通常走行時:到達まで11分》
《『アクセル』最大出力使用時:到達まで5分40秒》
「間に合うな……!」
身体強化アクセル。
未完成。不完全。暴走のリスク。
そんな言葉を、オルシェは思考の隅に追いやった。
「……身体がバラバラになっても知らねぇぞ!」
足の筋肉、神経、骨の髄まで魔力を叩き込む。
針で刺されるような激痛が走るが、それを意志の力でねじ伏せた。
「行くぞ!」
地面が爆発したかのような勢いで、オルシェの身体が弾け飛んだ。
――景色が、線になって流れる。
叩きつけるような風が顔を打ち、鼓膜を震わせる。
身体が、内側から燃えるように熱い。
それでもオルシェは足を止めない。加速し続ける。
その先に待つのは、血煙に巻かれた地獄か、あるいは新たな運命か。
死の淵で戦い続ける、あの女剣士の姿が脳裏に浮かぶ。
「……勝手に死ぬなよ。俺が行くまで」
誰に向けたものかも分からぬ願いを、風の中に置き去りにして。
オルシェは光に似た速度で、悲鳴の上がる村へと突っ込んでいった。
戦場が、すぐそこに迫っていた。




