35話:決断
夜はさらに深く、冷たく沈んでいた。
先ほどまで激しい怒号と悲鳴に包まれていた広場も、今は崩れた瓦礫の影が長く伸びるだけの、死した静寂の場所へと変わっている。
リーヴが背を向け去り、民衆が不安を抱えたまま各々の避難先へと散った後、オルシェはただ一人、そこに座っていた。
周囲に転がる石材の冷たさが、服を透かして肌に伝わってくる。
鼻をつくのは、焦げた木の匂いと、土埃、そして先ほどまでそこにあったはずの「生活」が壊された腐臭に近い微かな違和感。
オルシェは膝を抱えることもなく、ただ茫然と、自分の掌を見つめていた。
そこには、ヴェイルとの交戦で負った傷から流れた血が、どす黒く乾いてこびり付いている。
静かに。
ただ、考える。
脳裏をよぎるのは、リーヴの言葉だ。
『全部守る? そんなのはな、戦場じゃ“死に方”だ』
これまでの自分は、それを理想だと信じて疑わなかった。
「鑑定」という、他者にはない圧倒的な情報優越を持ち、未来を予測し、最適解を導き出せる自分ならば、全ての犠牲をゼロに抑え込めるはずだと自惚れていた。
だが、現実はどうだ。
ヴェイルという予測不能な「異物」が現れただけで、その精緻な計算は脆くも崩れ去り、結果として防壁は破られ、街の人々は恐怖に突き落とされた。
「……全部は守れない」
ぽつりと、独り言が夜の闇に吸い込まれていく。
その言葉を認めることは、自分自身のこれまでの歩みを全否定するに等しい屈辱だった。
今まで救ってきた命、繋いできた希望、それら全てが「たまたま運が良かっただけ」だと言われているような気がした。
口に出しただけで、胸の奥が物理的な痛みを持って軋む。
自分が守ろうとした「全て」の中には、自分自身の潔癖な正義感も含まれていたのだと思い知らされる。
だが、痛みと共に、ある種の透明な感覚が脳内を支配し始めた。
不必要なものを削ぎ落とした先にある、冷徹な思考の芽生え。
感情を優先して結論を歪めていたノイズが、リーヴの叱咤によって強制的に排除されたのだ。
「でも――」
オルシェは、血の乾いた掌を強く、強く握りしめた。
爪が皮膚に食い込み、新たな鈍い痛みが走る。その痛みが、混濁した意識を鮮明に繋ぎ止める。
「守るものは選べる」
そうだ。
全てを救おうとして全滅するくらいなら、確実に救うべき一点を定め、そのためなら他の全てを切り捨てる。
それは非情な決断であり、英雄の道ではないのかもしれない。
人から恨まれ、自分自身を呪うことになる道だ。
だが、ヴェイルのような「本物の怪物」を屠るためには、自分もまた、人間らしい甘さを捨てた「勝利のための機能」に成り果てる必要がある。
オルシェはゆっくりと、折れそうな体を叱咤して立ち上がった。
視線を上げ、闇の向こうを見据える。
そこにはまだ、街を蹂躙しようと虎視眈々と機会を伺うヴェイルの気配が残像として残っている気がした。
瞳に、もう迷いはない。
かつての澄んだ青い瞳は、今は夜の闇をそのまま映し込んだような、深く昏い色へと変貌していた。
それは、何かを諦めた者の目ではなく、目的を遂行するために自らの心さえも道具に変えた者の目だった。
「……次は、勝つ」
それは祈りでも、叫びでもなかった。
ただの事実として、これから訪れる未来を確定させるための宣告だった。
ヴェイル・アル=ゼノス。
あいつは「私を確認しに来た」と言った。
ならば、次に見せるのはお前が望む絶望ではない。
お前が予測し得ない、冷酷に研ぎ澄まされた「勝利」そのものだ。
オルシェは腰の折れた剣を抜き、その刃を月光に晒した。
刃こぼれした鋼は、惨めな敗北の証。
だが、その切っ先に宿る魔力は、以前とは比べものにならないほど密度を増し、鋭く、静かに脈動していた。
守るべきものを一つに絞り、それ以外を戦術的資源として使い潰す。
指揮官としての本当の産声が、崩壊した街の静寂の中で、静かに、だが確実に響いた。
夜明けはまだ遠い。
しかし、オルシェの心の中では、既に次の戦いの盤面が、鮮血の色で塗り潰されながら組み上がっていた。
「待っていろ、ヴェイル。今度は、終わりまで見届けてやる」
一歩、踏み出す。
その足取りは重く、しかし確かな意志を宿して、崩壊した石畳を力強く踏みしめた。




