19話:問題発生
夜。
灯りが爆発的に増えた街は、遠目には闇の中に浮かぶ宝石のように美しかった。
防壁の上に立てば、眼下にはかつての荒野が嘘のような、人々の生活の熱量が渦巻いている。
だが、その眩い光の裏側で、急速に膨張しすぎた歪みが、静かに、しかし確実に軋みを生み出していた。
「……セレス。夜更けにすまないな」
オルシェが、執務用に整えられた部屋の扉を開ける。
そこには、数日前よりもさらに高く積み上げられた羊皮紙の山と、その中心でペンを握りしめたセレスがいた。
「来たか。ちょうどお前の顔を見たいと思っていたところよ」
セレスは顔を上げた。その肌はわずかに青白く、隠しきれない疲労が滲んでいる。
だが、その瞳に宿る知性の光は、以前よりもさらに鋭く、冷徹に研ぎ澄まされていた。
「聞くぞ。……包み隠さず言え」
オルシェはセレスの向かいの椅子に深く腰を下ろした。
今のこの町が抱えている本当の「数字」を知っているのは、管理官である彼女だけだ。
「まずは一番の懸念だ。食料充足率はどうなっている」
間を置かずに、答えが返ってくる。
「現在、約72%。……正直に言って、危険水域よ」
「……やっぱり足りねぇな。3000近い胃袋は重いか」
「当然よ」
セレスは淡々と、数字の羅列を指でなぞりながら言葉を継ぐ。
「人口増加の速度が、土壌の再生速度を追い越しているわ。ロイたちの魔力農法は確かに異常な効率だけど、収穫には物理的な時間がかかる。今のままのペースで移民を受け入れれば、一ヶ月後には配給が途絶えるわ」
「短期的には?」
「リーヴたちによる組織的な狩りと、バルドから買い叩いた備蓄でギリギリ持たせている状態。でも、それは綱渡りの経営よ」
「長期は?」
「新規開拓した大麦と芋の収穫が始まれば安定する。……ただし、それまで“何も起きなければ”の話だけどね」
沈黙。
食料は命の根源だ。それが揺らげば、どんなに強固な壁も内側から崩れる。
だが――問題は、胃袋だけではなかった。
「……治安はどうだ。不満が溜まってきてるだろ」
セレスの手が、わずかに止まった。
「……悪化しているわ。想定を少し上回る速度でね」
「どの程度だ」
「軽犯罪の増加。特に食料の盗み、住居の割り振りを巡る諍い。最近では新参者と古参の間の派閥争いも起き始めている。昨日も酒場で三件の乱闘騒ぎがあったわ」
「……予想通り、か。人が増えれば『悪意』も『欲』もそれだけ増える」
「ええ。リーヴの自警団が巡回を増やしているけれど、彼女たちは戦士であって法執行官じゃない。力で押さえつけるのにも限界があるわ」
セレスは一度ペンを置き、オルシェを真っ直ぐに見据えた。
「でも、オルシェ。本当の問題はそこじゃないわ。……内側の膿なんて、あなたのスキルで一人ずつ教育すれば済む話。問題は、“外”よ」
空気が、一瞬で凍りついた。
「噂が広がっているわ。……いいえ、広まりすぎた。バルドの商隊が持ち帰った富の噂が、飢えたハイエナたちの耳に届いたのよ」
「まあ、隠してねぇしな。むしろ宣伝に使ったくらいだ」
「それだけならいい。でも、最悪の連中が“嗅ぎつけた”わ」
セレスの目が、蛇のように鋭くなる。
「誰がだ」
答えは、短く、そして吐き捨てるような響きを伴っていた。
「近隣の、腐った貴族たちよ」
沈黙。
オルシェの脳裏に、この世界の理不尽な構造が浮かび上がる。
汗水垂らして開拓する者から、座ったまま成果を奪い取る者たちの存在。
「……やっぱり来るか。そんな気はしてたよ」
「来るわ。しかも、話し合いが通じる相手じゃない。……悪徳貴族。名前はいくつか挙がっているけれど、筆頭はこの領地の境界を接するライル・ヴァン・ダール辺境伯」
セレスは、詳細な調査記録が記された紙を一枚、差し出した。
「税を吸い上げるだけ吸い上げ、飢饉が起きても領民を見捨てる。自分を肥やすことだけに執着し、邪魔な芽は力だけで支配する……テンプレート通りの無能よ。でも、無能な権力者ほど、自分たちの支配を脅かす『新興勢力』を許さない」
「潰すか、取り込むか、か」
「ええ。この街は今や、彼らにとって喉から手が出るほど欲しい『金の卵を産む鶏』に見えているはずよ。間もなく、正当な『領土権』や『徴税権』を盾にした使いが来るわ。最悪の場合、私兵を引き連れてね」
オルシェは、ゆっくりと肺の空気をすべて吐き出した。
せっかく手に入れた安らぎと、積み上げてきた技術。
それを、ただの「生まれ」や「肩書き」だけで踏みにじろうとする奴らが、すぐそこまで来ている。
「……で、どうする。オルシェ、あなたの判断を聞かせて」
セレスの問いに、オルシェは一秒の迷いも見せなかった。
「潰す。当然だろ」
その言葉を聞いた瞬間、セレスの口元が、わずかに、しかし美しく歪んだ。
「そう言うと思ったわ」
「ただし、順番がある。無闇に喧嘩を売って街を壊されたら元も子もねぇ。まずは内側を固める」
オルシェは指を一本ずつ立てて、優先順位を整理した。
「第一に、食料の完全安定。収穫を魔力でさらに加速させる。第二に、治安の維持。自警団とは別に『警備隊』を組織して、法を敷く。そして第三に――」
オルシェの瞳に、冷徹な火が灯る。
「“力”を見せつける。俺たちが、ただの農民の集まりじゃねぇってことを、骨の髄まで叩き込む。その上で、外から来るハエを叩き落とす」
セレスは、満足そうに深く頷いた。
「合理的ね。……なら、私はそのための『法』と『帳簿』をさらに精緻に組み上げるわ。あなたは、その圧倒的な力で街を導いて」
「ああ。任せろ」
オルシェは立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。
眼下に広がる街の灯り。
そこには、自分を信じてついてきた3000人の命がある。
これまでは「生存」のための戦いだった。
だが、ここからは「守護」と「支配」のための戦いが始まる。
「……ここからが、本当の異世界内政の本番だな」
オルシェは、夜風に吹かれながら静かに呟いた。
空には、不気味なほどに静かな月が、嵐の前触れのように輝いていた。




