無
コンコンコン
部屋の隅にある襖を静かに三回叩く。
「……行かれましたか?」
襖の中から静かに聞こえてきた声。
「……ああ」
襖の外にいる我が主からの小さな返事。しかし、その声は確実に部屋中に響き渡った。
やはり、わが主は威厳がある。これだけは間違いなく言える。
「与六……やはり、お前そのようなところに隠れずに堂々と話を聞けばよかったんじゃないのか?」
声の主——上杉景勝は襖を開け、自身の従者——与六に問う。いつもの無表情でありながらどこか寂しそうに見えたのは自らの許嫁に騙しているような罪悪感があったからだろう。しかし、与六はゆっくりと首を横に振った。
「ええ。されど景勝様と虎姫様のみでしか得られないこともありましたよ」
何も悪びれることもなく淡々と告げる与六。罪悪感が増幅する。しかし、許可を出したのは自分だ。後悔しても遅い。
「そ、そうか……だが、やはり虎に何も告げずにするというのは案外難しいな」
「はい。そうですね。虎姫様が想像以上に聡明なお方でしたね」
与六は虎が本当に小さいころから見ていたが、あれで実はまだ六つの子供だというのに子供とは信じられない。まさしく軍神の子。本当に女であるのが惜しい。あれが男であれば上杉家にいや、天下にすらその名を轟かすことができるかもしれない。与六のもう一人の主人である虎はそれほどの傑物なのだ。
「まさか虎があれだけの覚悟のあったとは……」
景勝とてまだ幼い許嫁を巻き込むのは本意ではない。ましてや彼女は政略上とても重要だ。そんな彼女に何かあった場合彼もただでは済まない。
「はい。しかし、あの年齢でご自分の立場を自覚しておられる」
ならばなおさらだ。あの男を生かしてはならない。
「ぼくは義兄上や姉上たちの命を狙いたくはない」
「ええ。それは存じ上げています。されど景勝様も聞いておられるでしょう。虎姫様を排斥する噂を」
虎はあの年齢でしっかりしているし、並大抵の武将が操れるような子供でもない。だからこそ邪魔なのだ。虎の代わりに操れそうな上杉家一門がいるとすれば、謙信の姪の子供で先日生まれたばかりの道満丸しかいない。そもそもだが景虎と険悪に興じる策を提案したのは与六である。景勝自身この策に賛成だという訳でもない。
「これも上杉を―—虎姫様守るためです」
守るためとはいえその犠牲は果たして必要なことなのか疑問だ。もし、虎ならどう考えるか……。いや、これ以上あの子を巻き込むわけにはいかない。
やはり、戦国の世というものはままならないものだな。




