03
始業式から一週間が過ぎても、支倉の人気は相変わらずだった。俺も何度か言葉を交わしてみたのだが、たまに冗談交じりに毒を吐く様子がとても人間的で、彼女には等身大の女子高生としての魅力があった。そんな風に調子に乗る様子がどことなくエクサを思い出させて、ますます俺を思い悩ませた。
ひとつ不思議だったのが、支倉の俺に対する覚えが良いということだった。始業式の日に、教室に残っていたというのに自分の周りへ群がってこなかったことが、彼女の気にとまっていたらしい。
確かにあの日、あの環境下で不貞腐れていたのは俺だけだったから、すくなからず彼女を不安にさせてしまっていたのかもしれない。加えて、空気も読まずに顔だけを見に来て走り去った無礼な男(勇一のことだ)と一緒に帰っていったのだから、印象に残っていたとしてもおかしくはない。
クラスメイトとして普通に話せるようになってきた頃に、彼女とは次のような話をした。
「てっきり、私と話したくても話しかけられないシャイボーイさんなのかと思ってたよ」
「それ、絶対に違うと思っているからこそ言ってるだろ」
「あ、バレた?」
支倉は自分の容姿が秀でていることをよく理解した上で、こうした自意識過剰と受け取られかねない軽口を平気で叩く。
「昔、支倉にそっくりな人が身近にいてな。だから自分の感情を持て余して、ちょっとイラついてたんだよ、あの日は」
「へぇー。じゃあ、あの日の彼もその人のことを知ってるの?」
「ああ、あのときは悪かったな、あいつバカで。本当に顔を見るだけで帰っていかれるなんて、気分悪かっただろ」
「うん、ポカーンってなったよ、ポカーンって」
今では気にしてないけどねーと、彼女は朗らかに笑っていた。この世界を心から楽しんで生きているようなその顔が、俺にはとても眩しく、そして羨ましく見えた。
「もしかして本当に私の気を引くために友達に頼んだんじゃないかって、ちょっと想像しちゃってたよ」
「あの日はともかく、今の俺が支倉の気を引こうとしてること自体は、他の連中とそれほど変わらないけどな。それでも、そんな小細工を使うような気にはなれないよ、俺は」
「あはははっ。で、そういう話を私自身にしちゃうんだ? 面白いね、菖蒲くん。気に入ったよ」
でも……、と彼女は言葉を区切って、どこか寂しそうな顔をした。
「菖蒲くんだけは、私のことをエイミィって呼んでくれないんだね。言ってることとは反対に、なんだか私との間に壁を作ろうとしてる感じがするよ?」
彼女が言うように、このクラスで支倉のことを愛称で呼んでいないのは俺だけだった。なんとなく、エクサによく似た彼女を横文字で呼ぶことに抵抗があるという、俺の勝手な心境によるものだったのだが。
「ま、その辺のことには明確な理由があってね。でもどうしてもと言うのなら、俺のことをエックスって呼んでくれたらそう呼んでやるよ」
嘘だった。「何それー?」と笑わせて話を終わらせようという、小賢しい魂胆だった。
けれど、支倉の反応はその正反対で。
「うん、わかったよエックス」
と、平然と返事をしてのけたのだった。
あまりのことに俺が唖然としていると、彼女はあろうことか俺の肩に手を載せて、至近距離からこう続けたのだ。
「ほら、どうしたのエックス? 私は君の望みどおりに呼んであげたんだから、君も私の望みどおりに呼んでくれなきゃ。……はい、コール・ミー・マイ・ニックネーム・ナゥ」
彼女は人を挑発するとき、わざと日本人の発音で英語を使う。馬鹿にされている感じが強調されて、これには余計に腹が立った。この女は、俺がそう呼びたくなくて適当なことを言っただけだと解っていたのだ。
だが、いいだろう。最初に自分から言い出してしまった手前、そう簡単に引き下がるわけにはいかなかった。俺にだって意地はあるのだ。
「わかったよ瑛美。俺の負けだ。……これで満足か?」
というか俺は、正直なところ、クラスメイトの注目を浴びてしまっていたその状況から早く抜け出したいだけだった。昼休み中の教室でのやり取りだったので、衆人環視の真っ只中だったのだ。
「う……なんて言うかその、そうやって名前で呼ばれる方が距離が近いような感じがして、なんだかちょっと恥ずかしいね」
よし、勝った。これで支倉も納得して、今まで通りの呼び方で定着してくれることだろう。顔を真っ赤にして照れさせることになってしまったが、肩に手を置かれて顔が近くなっていたつい数秒前の状況よりは格段にマシだった。
しかし、俺がそう思っていたところに、彼女はまたしてもぶっ込んできた。
「よしわかった! そういうことなら私も覚悟を決めよう! それでいいよね、力也!」
ええー! という不満と驚きの声が、クラス中の男子から迸った。どうやら遠巻きに眺めているだけではいられなくなったらしく、所々から俺に制裁を加えようという相談が始まっていた。
だが俺は、それでもいいかと思っていた。エクサによく似た女の子にあの世界で使っていた名前で呼ばれることに比べたら、下の名前で呼び合うことくらい、べつにたいしたことではない。引くに引けなくなってしまったという事情もあるが、俺もこの日から、彼女を瑛美と呼ばせてもらうことになった。
それはまだ九月半ばの、俺たちが出会って一ヶ月も経っていない頃のことだった。
九月二十日は、俺たちが異世界へ行き、そして帰ってきた記念日だった。
当時、つまり去年は土曜日で、都合がいいことに今年も日曜日で休日である。俺たちは久しぶりに三人で集まって、勇一の祖父の墓参りに行った。
お彼岸の頃に家族で来てばかりだと勇一が言ったので、墓の掃除はそこそこにしてすくに供花を入れ替え、線香を焚いた。三人並んで手を合わせて、八年前に亡くなった爺さんに、もう一度あの世界のことを報告した。
精霊の長老が言うには、以前にも一度、この世界の青年を召喚して魔物を退治してもらったことがあったらしい。それが勇一のお祖父さんで、勇一が抜いた宝剣は、そのときにも爺さんが使っていた物だと言う。
血の繋がった祖父が一度は救った異世界を、その孫がもう一度救うことになったという因果関係に、勇一は何か特別なものを感じているようだった。昔の勇一がお祖父ちゃんっ子だったということもあって、向こうの世界で彼は何度も勇み足を踏んでいた。
死んだ祖父が守った世界の平和を乱す輩が現れたことが、彼には絶対的に許せなかったのだろう。
話を聞くと、当時のお祖父さんは大変な好色だったという。人間の娘を相手にするだけでは飽き足らず、精霊の長老の娘を身篭らせたというのだから見境がなさすぎる。そうして生まれた俺たちの世界の人間と精霊とのハーフが、後に俺が世話を焼くことになるエクサだった。
精霊と人間では成長速度や寿命の尺度が違うので、彼女は俺より遥かに年上のはずなのに、まるで同年代の少女のように可憐だった。炎のような激しい気性を持ちながらも、水のように俺の心を癒し、風が歌うように笑い、大地のように一本芯のある心を持った、まさに精霊を統べるに相応しい血筋を受け継いだ女性だった。
それが勇一の爺さんの娘なのだと思うと、なんだか俺まで感慨深くなる。俺も美貴も勇一と同じように、その好々爺のことが大好きだったからだ。
若かりし頃のあの人には、向こうの世界に愛した女性が存在したのだ。それでもその女性が住む世界を守るために戦って、俺たちと同じように別れを告げる間もなく帰ってきた。そうしてこの世界で別のお嫁さんをもらい、子供を授かり、その血筋は勇一へと受け継がれている。おそらくは勇一と美貴も、似たような未来を歩んでいくのだろう。
でもその中で俺だけが、この世界での生き方がわからずに惑っている。爺さんに教えてもらいたいくらいだったが、いくら墓石に話しかけたところで、返事が得られるわけもない。
確かに俺も、この世界でまた女の子のことを好きになった。その相手との関係は、自分でも驚くくらい順調に進展している。けれどそれでも充足できず、俺の中の何かが燻ってやまないのだ。
あの日あの時生まれた暗い気持ちが、日を追うごとに強くなってきている。勇一の戦いを尊重した俺の決断は間違いだったんじゃないかと、親友を見る度に考えてしまう。それでも、彼のことは美貴に任せると決めてある。勇一のことは心配なんてしていない。
だから、本当に不安なのは。
俺自身の気持ちの方だった。
向こうの世界で、俺たちは魔物のトップに立つ者のことをただ〝魔王〟とだけ呼んでいた。倒した魔物からその名前を聞くことはなかったし、そこに不便な思いをしたこともなかったから、俺たちは魔王の正体も知らないまま、最終決戦に臨むことになった。
そしてその先で、俺たちは衝撃の事実を知ることになる。
実際に目の当たりにした魔王の姿は、どこからどう見ても、ただの豚だったのだ。
そんな馬鹿なと驚愕している俺たちに、彼は人語を操り、元々は俺たちと同じ世界に生きる家畜であったと語った。それがどういうわけか異世界に迷い込んで、俺たちと同じように特殊なチカラを手に入れた。それは魔物の力を増幅して統率するというもので、同時に知恵や言葉も身についたのだそうだ。
そして、その豚が望んだことは、人間という種族への復讐だった。
自分は明日には殺されて、食用の肉にされるという予見があった。彼が異世界に迷い込んだのは、そんな矢先のことだった。
だから、思い知らせてやりたかったのだ。
無残に殺され貪り食われる恐怖というものを、人間どもにも植えつけてやりたかったのだ。
だがしかし、私自身には何も戦う力がない。ここまで辿り着くことができた時点で、貴様らの勝ちは確定している。我々の惨敗だ。どの道私は、ヒトの手で殺される運命にあったのだろう。さあ殺すがいい人間ども、しかし決して忘れるな! 薄汚い貴様らが持つそのエゴこそが――
人間や精霊が〝魔王〟と呼び表し畏怖した存在が放つ、辛辣な慟哭は、そこで途切れた。
勇一が首を刎ねたからだ。
勇一が激怒した理由は解る。大好きな祖父が守った世界を荒らす凶悪な魔王が、出会ってみたらただの豚だっただなんて、そんなふざけたオチに納得なんてできるはずがない。
しかしだからといって、文字どおり問答無用に切り捨てる必要が、あの場面にあったのだろうか。理不尽に殺されなければならなかった元家畜に哀切を抱いたのは、決して俺だけではないはずだ。
こちらの世界に戻ってきて以来、美貴は豚肉を食べなくなった。「食べられなくなるほど神経が細いつもりはないけど、それでも食べる気は起きなくなっちゃったわよね」と、真剣な顔で話していた。
一方で俺は、豚どころか牛や鶏の肉まで食べられなくなってしまった。他人が食べている姿を見ても平気なのに、自分の口に運ぼうとすると途端に気持ちが悪くなる。精神的なものなのでそれと気付かず食べてしまう分にはまったく関係ないのだが、すこしでも意識してしまうともう駄目だった。
そして肝心の勇一はというと、幸せそうな顔で好物のステーキを頬張ったりする。あの魔王の言葉にまるで関心を持たないまま、豚肉ですら平気で食べるのだ。信じられない図太さだった。
俺にはそれが、心の底から恐ろしい。あの一幕から何の教訓も得ることなく帰ってきたくらいだから、いつか何かやらかすんじゃないかという危惧があった。だから美貴にはその懸念を打ち明けて、アイツのことは彼女に任せた。今の恋人が傍にいる限り、滅多なことが起きることはないだろう。
だから、本当に危険なのは、俺の方。
あの日あの時の魔王の言葉は、俺の心に息づいている。
本当に正しかったのはあいつの方なんじゃないのか。苦労して見つけた俺の答えは、本当に俺が守りたかった存在は、こんな人間なんかではなかったはずだ。実行にこそ移さないまでも、そう思わずにはいられないのだ。
人間なんて滅びてしまえばいいと。
俺にはまだ、それができるだけのチカラが残されている。
そんなことを考えてしまう自分が、この胸に確かに巣食っていた。