小さな花
虎徹と連れ立って歩いていた凌は、通り過ぎようとしていた花屋の前で立ち止まった。
「どうした?」
「いや……」
振り返った虎徹には生返事をする。
彼の目を引いたのは、一つの鉢植えだった。
ここいらはキャバクラやら何やらが多いだけあって、深夜営業の花屋も結構ある。普段は気にも留めないのだが、ふと視界に入ってきたそれが、凌の足を引き止めたのだ。
親指の頭の半分ほどの大きさの、黄色く丸い花をいくつか付けた鉢植え。
砂糖菓子のようにも見えるそれは、何となく、彼女を思い出させる。
「花? お前が花買うの? もしかして女?」
ヒョイと肩越しに覗き込んできた虎徹が、凌が見つめているものを目にして心底から意外そうな声を上げた。そして肩を竦める。
「今日も結構稼いだだろ? やっぱ、武器あり二対一ハンデはかなり受けるよな。金が入ったんだし、そんなしょぼいのじゃなくて、あっちのでデカい花束作ってやったらいいじゃんか」
虎徹の言う「あっち」とはガラスケースに飾られたきらびやかな大輪の花々だ。確かに綺麗だとは思うが、彼女には――響には、この鉢植えの方が似合うし、彼女自身もその方が喜びそうな気がした。
だが、急にそんなものを貰っても、面食らうだけなのではなかろうか。
凌の胸の中にはそんな迷いもあって、なかなか手が伸ばせない。
そうこうしているうちに、店の奥から店員がやってきた。
凌は身体の左側を彼女に見られないように、さりげなくずらす。もしも見られたら、面倒な騒ぎになることは間違いない。
幸い、店員は何も気付いていないようだ。
「いらっしゃいませ。――そちらのヤエキンポウゲですか?」
大の男が可憐な鉢植えを見つめているのを見て一瞬間は開いたが、そこはそれ、場所柄色々な客がやってくる店だ。店員はにこやかな顔を崩さない。
「そろそろ花の時期は終わるので、お安くしておきますよ?」
「枯れるのか?」
「ええ……春から初夏の花ですから、花は落ちます。でも、多年草だから来年も咲きますよ。丈夫ですし」
店員の説明は良く解からなかったが、取り敢えず、枯れることはないらしい。
「じゃあ、それを」
凌がポケットから抜いた札を差し出しながらそう言うと、店員は笑みを深くして頷いた。
「贈り物なら、おリボンかけましょうか?」
流石にそれは照れ臭い。
「いらない。そのままでいい」
「そうですか? じゃあ――」
ラッピングは断ったが、代わりに随分可愛らしい紙袋に入れられて差し出された。植木鉢のままで持つのも、この紙袋で持つのも、どっこいどっこいの気恥ずかしさだ。
ポリ袋にでも入れてくれよと内心ため息をつきつつ、凌は釣りを受け取って店を後にする。
「お前が花とはねぇ」
紙袋の縁に指を引っかけて中を覗きながら、虎徹がニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべた。
「じゃあさ、これから呑みに行かね? その女の話を聞かせろよ」
「いや、俺はもう帰る」
「またかよ。最近マジで付き合い悪ぃな」
からかう笑みを消して、虎徹が口を尖らせる。
実際、ここ数週間、彼の遊びの誘いは全て断っていた。虎徹の『遊び』にはたいてい女が付いてくる。女絡みの集まりには、行く気になれなかったのだ。
それよりも、響の傍にいたい。
あの三人組の件があった日から、バイトの後は駅まで送っていくようになっていた。
初めのうちは何か言いたそうにしていた彼女だったが、最近は、凌の姿を見れば嬉しそうに笑ってくれる。
実際のところ、電車に乗ってから彼女が自分のアパートに着くまでや、バイトに出て来る時も心配は心配なのだが、流石に最初から最後まで送り迎えをするとは言い出せない。
(俺と彼女は、何の関係もない)
ただの客と店員だ。
そもそも、店の外で会うような間柄ではない。
今も、帰り道だからと言いつつ駅まで同行しているのだ。
もっと親しくなれば言い訳など必要なくなるのだろうが、人との距離を彼の方から詰めたことなどなかったから、どんなふうにしたらいいのか、凌には今一つ判らなかった。
むっつりと黙り込んだ彼に、虎徹が続ける。
「どうせその花をやる女なんだろ。この時間に会いに行くってことは、まあ、そういうことなんだろ? どっかのキャバ嬢? どの店だよ?」
ニヤリと笑った虎徹に、彼女にはまだろくに触れたことすらない、と伝えたら、きっと目を丸くするだろう。そして余計な興味を持たせるだろうから、凌は口を噤んでおく。
何も答えずにいる凌はいつものことで、虎徹は勝手に話を進めていく。
「よっぽどイイんだな、その女。今度オレにも紹介しろよ。じゃあな」
いかにも理解ありげに凌の肩を二つ三つ叩くと、虎徹はふらりと離れていった。その背は、たちまち人波の中に消えていく。
凌は小さく息をつき、少し速足で歩き出す。いつもよりも少し時間が押していた。別に約束をしているわけではないから、出てきた時に彼がいなければ、響は独りで帰ってしまうかもしれないのだ。
幸い、彼女が上がる時間には間に合った。
凌が着いて少しして、響が裏口から姿を現す。いつものように、彼の姿を認めた瞬間、パッと笑顔になった。そうして、小走りに駆け寄ってくる。
「こんばんは」
時間的には『朝』なのだが、彼女の第一声は、いつもこれだ。
凌は小さく頷いて、寄りかかっていた壁から身を起こす。そうして、彼女の隣に並んで歩き出した。花屋の店員にそうしたように、胴の左側は見せないようにして。
響が歩く速さはかなり遅いから、凌にしてみれば一歩一歩を踏み出すのにいつもの三倍の時間をかけなければ、彼女と合わせることができない。けれども彼は少しも苛立ちを覚えることなく、むしろその時間ができるだけ長く続いてくれるようにと思いすらした。
そうやって歩く間、いつものように、響は歩きながらバイト中にあったことを話し出す。内容は、デザートの新商品が出たとか、どれも他愛もないことだった。
小鳥のさえずりにも似た楽しそうなその声に、凌は黙って耳を傾けるだけだ。せいぜい、ところどころに唸るような相槌を打つだけで。けれども、そんな些細な反応に、響はこの上なく嬉しそうな笑みを浮かべる。
駅までの二十分ほどはあっという間に過ぎてしまい、じきに駅名が書かれた看板が現れた。
「じゃあ、ここで。おやすみなさい」
ペコリと頭を下げて構内に入って行こうとする彼女に、凌は手にしたままだった紙袋をズイと差し出した。
「何ですか? ……うわぁ、可愛い」
言いながら袋を受け取り中を覗いた響は、そこに入っているものを目にして声を上げた。そうして、凌を見上げて首をかしげる。
「これ、わたしに?」
「ああ……誕生日なんだろ?」
「はい、三日前でした」
答えながらも、彼女は嬉しそうに鉢植えの入った紙袋を大事そうに両腕に抱えた。あまりに嬉しそうで、凌は何となくバツが悪くなる。
「普通に、切り花の方がいいと、言われたんだがな」
「いいえ、わたしはこっちの方がいいです」
その言葉と笑顔は、本心からのもののようだった。が、不意にその笑みが曇り、頬が強張る。
「あの、それ……」
響の視線は彼の顔からずっと下がって、一点を凝視している。
ハッと気付いて凌は身体を引いたが、すでに遅かった。上着は何ともない。だが、その下の青いTシャツの左の脇腹には、黒ずんだ染みがある。
「じゃあな」
さっさと身を翻そうとした彼の腕を、普段の彼女からは思いも寄らない素早さで響が捉えた。そして、強い口調で訊いてくる。
「それ、また怪我じゃないんですか? 何で、そんなとこに……」
凌は内心舌打ちをしたい気分だった。こうなるだろうことは当然予測できていたから、気付かれないうちに別れるつもりだったのだが。
「別に、たいしたことじゃない」
そう言って響の手を外そうとしたが、彼女に拒まれる。
「何でそんなに怪我するんですか? また、この間みたいに放っておくつもりなんでしょう? 何で――」
響の声が震え、その唇は微かにわなないていた。脇腹の傷は全く何も感じないのに、彼女の血の気が引いたその表情を目にした途端、凌は胃の辺りを強く締め付けられたような感覚に襲われる。
実際、ほんのかすり傷なのだ。ナイフがちょっと削いだくらいで、もう血も止まっている。
だから、心配することなど何もない。
そう言って宥めようとした凌を、彼が口を開くよりも先に、響はキッと睨み付けてきた。
「また、お医者さんには行かないんですね?」
「そんな必要ない。かすり傷だ」
「でもお腹ですよ? 何でもないって言える場所じゃないでしょう?」
責める目付きだが、口元が震えていたら迫力半減だ。凌は何となく笑ってしまいそうになって、余計に睨まれた。
「……わたしの家に来てください。駅からすぐですから」
「は?」
「どうせ、お家に帰っても何もしないんでしょう? だったら、わたしのところで手当てします」
「お前な、赤の他人の男をそんな簡単に――」
「いいから! 来てください!」
呆れた声で言いかけた凌を、彼女はピシャリと遮る。
頑として凌がその場に留まれば、響に彼を動かすことなど不可能だっただろう。だが、彼の腕を掴んでいる彼女の指の先は白くなっていて、それ以上力を入れさせればその小さな爪など剥がれてしまいそうだった。厚手のジャケットの布地を通しても、彼女のその手が震えているのが伝わってくる。
(まるで、俺が泣かせているみたいじゃないか)
凌は憮然とそう思った。
こうなれば、ついていかないわけにはいかない。
「判った」
ぼそりとそう言うと、響の身体からほんの少し力が抜けたのが判った。
渋々ながら歩き出した凌を引っ張って響は二人分の切符を買うと、さっさと構内に入っていく。
手を離したら彼が逃げ出すとでも思っているのか、電車の中でも彼の腕を掴んだままで、彼女はむっつりと黙り込んでいた。話したのは、「次で降りますから」の一言くらいだ。
駅を出てからも黙々と歩いて、十分ほどで着いたアパートの二階へと上がっていく。
「ここです。どうぞ」
一番奥の扉を開けて、やっぱりムスッと、彼女は言った。




