傷
部屋の中に入るように促しても凌はなかなか動こうとせず、玄関に立ったまま留まっていた。
正直言って彼は、見た目はそんなふうに気遣いするように思える人ではない。けれど、どうやら一人暮らしの女性の家に上がることにためらっているらしい。
確かに、ほとんど知らないといってもいいような男性と二人きりになるということに響にも迷いはあったけれど、あのまま彼を帰していたらきっと気になって仕方がなかっただろう。
(いつかの腕の傷だって……)
あれだって結構ひどかったのに、凌は全然頓着していなかった。今日はそれに輪をかけて放置状態だ。
(今日はお腹だよ? 普通、そんなところに怪我なんてしないでしょ?)
程度は浅いとしても、傷の場所が場所だ。「大丈夫」と言われて「そうですか」と見過ごすことはできなかった。
部屋の真ん中まで来ても足音がしないことに気付いて響が振り返ると、彼はまだ玄関にいた。それも、扉を開けたまま。
他人のことはこんなに大事にできるのに、何故、自分自身のことはあんなにぞんざいなのだろうと、響は悲しいのを通り越して、理不尽な怒りすら抱いてしまう。
「早く入ってください」
怒った口調で繰り返すと、凌はいかにも渋々といった風情でため息をつき、ようやく靴を脱いで上がってきた。
「そこに座っててください」
素っ気なく言い置いて、響は救急箱を取り出す。
たいしたものは入っていないから、ひどいようなら今日こそ病院に行ってもらわないと。
そう思いながら振り返ると、凌は言われたように床に胡坐をかいていた。その顔はいつもと全く変わりなく、痛みなんて本当に全然感じていないように見える。
響は彼の上着を脱がせて、左の脇腹に目を走らせた。
青いTシャツの黒い染み。普通なら、コーヒーか何かをこぼしたと思うだろう。けれども、腕の時と同じように、汚れの中心がすっぱりと切れている。
「服、めくりますよ?」
そう告げておいて、響はそっと裂かれたTシャツの裾を持ち上げる。
押したら人差し指の第一関節まで埋まってしまうような彼女の脇腹と違って、彼のは叩いたらゴンゴンと音がしそうだ。
そこに走る、水平な赤い線。
確かに、腕の時よりも遥かに傷は浅そうで、響はホッと息をつき、そして眉をひそめる。
(でも、これって……)
その傷もまた、転んだり打ったりといった、『普通に』していてできるようなものとは違っていた。
明らかに、刃物による傷。
「何で、こんな怪我するんですか? ケンカですか?」
「まあな」
「刃物持ってるような人なんて、相手にしないで下さい。逃げたらいいじゃないですか」
逃げるなんてプライドが許さないのかもしれないけれど、刺されるよりはいいに違いない。
ムウッと睨み付ける彼女に、凌は肩を竦めただけだった。
伯母の凪は、響の父親も血の気の多い人だった、と言う。父親のことが話題に上ることは滅多にないけれど、身体が大きく、乱暴で、けれど母と響にはとても優しい人だったと、何故か悲しげな眼をして、彼女は言っていた。
もしかしたら、凌と似ている感じなのかもしれない。
だから、響は何となく心惹かれてしまうのだろうか――父親のことは、全然覚えていないのだけれど。
小さく息をついて、響はもう一度シャツをめくって傷を見る。もう血は止まっているようだからガーゼを貼っておくだけでいいだろうか、そう考えながらしげしげと見つめた。
と。
「これ、何の痕ですか?」
彼女の目に入ってきたのは、直径一センチメートルほどの丸い――何か。そこだけ薄らと白く、ツルンとして、どう見ても、傷が治った痕だ。それがお腹にも背中にも、いくつもある。多分、ズボンの中にも続いているのだろう。
「水ぼうそうって、こんなに大きくないですよね?」
首をかしげた響に、凌は彼女が言うものを見もせずに、サラリと答える。
「ああ、タバコだ」
「え?」
「父親がやった。タバコを押し付けたら、そういうのができる」
「でも、それって……何で?」
平然とした凌の台詞が、響には理解できなかった。何を問うているのか自分でも判らないままに、疑問を口にする。
彼はそれを「何故父親はそれをしたのか」というふうに採ったらしい。
「さあな。腹が立ったからかもな。あるいは、単なる気晴らしか」
「そんなの、けど……痛いよ……」
呆然と呟いた響に、凌は首を振る。
「別に、たいしたことはない。痛くもない」
「ウソ! 腕だってお腹だって、ソレだって、痛い筈だよ!」
「俺は痛みを感じない。感じ方を忘れた。だから平気だ」
平気な筈がない。
響は唇をきつく噛んでまた彼の身体に目を戻す。
その丸い痕は、たくさんあった。もう消えそうなほどに薄いものから、未だ比較的はっきりと見えるものまで。
多分、小さな頃からずっと、そうされてきたのだ。
なのに、凌は泰然と、いつものように「たいしたことはない」と言う。彼がしばしばその言葉を口にするのには気付いていた。けれども、本当に「たいしたことはない」ものだったのだろうか。
響には、とうていそうは思えない。
まるで、彼自身をごまかすための呪文のように思われた。
響の目には、目の前の大きな身体に、幼い子どもの姿がダブって見える。
と、不意に視界が揺らぎ、彼女の頬を熱いものが転がり落ちていった。
――こんなふうに泣いてはいけない。自分はもう大人なのだから。
そう言い聞かせても、響は涙をこらえることができない。
頭の上から、息をのむ気配が伝わってくる。
「本当に、大丈夫なんだ」
彼が少し困ったような声で、そう言った。困らせているのが自分なのだと判っていても、響の頬はどんどん濡れていく。
「もう十年も前に、親父をぶちのめして家を出たんだ。もう、昔のことなんだよ」
だから、気にするな。
言外にそう宥められても、響はついにしゃくりあげてしまう。
「ご、めんなさい……すぐ、止めるから……」
大きく息を吸って止め、ギュッときつく目を閉じる。
響はできるだけ頭の中を空っぽにして心を落ち着かせようと試みた。声には出さずにゆっくりと数を数えて、それに集中する。しゃくりあげそうになったら息を呑み込んで、喉の奥に押し込めた。
そうして、頭の中で五を数えた時だった。
目蓋を閉じて暗かった視界が、更に陰る。次いで、頬か――殆ど唇と言っていいほどのところに、柔らかく温かな感触。それは掠めるように触れて、すぐに離れていった。
――え?
パッと目を開けるとすぐ間近に凌の顔があって、響はまるで氷漬けにされた魚のように固まった。いや、氷漬けなら寒いだろうが、むしろその逆だ。
屈んだ凌の視線は響の高さとぴったり合っていて、もろに彼の目を覗き込んでしまう。
響が瞬きを一つすると、また涙が頬を転がり落ちていくのを感じた。と、それがきっかけになったかのように凌の顔が近付いて、さっきとは反対側に、さっきと同じ温もりが触れる。
キス、というよりも、唇で撫でられているようだった。
唇にしろその他の場所にしろ、響はこれまでキスの経験などない。だから比べようがないのだけれど、凌のその行為はマンガや小説で読むものとは違うような気がした。
触れられているのは唇だけなのに、全身が温かい。感じられるのは優しさだけで、響はつい先ほどまで自分が泣いていたことを忘れてしまう。
「悪い」
唐突な凌の声に、響はハッと我に返った。いつも落ち着いていて表情を変えることのない彼の眼差しが、戸惑ったように揺れている。
響が瞬きをすると凌は顎を引いて立ち上がり、彼女が声をかける隙を与えず足早に玄関へ向かう。響はペタリと座り込んだまま、目だけでその背を追った。
「鍵、かけろよ」
凌はそれだけ言い残し、後は振り返りもせずに出て行ってしまう。
シンと静まり返った部屋はいつもと同じなのに、何故か妙に物足りなかった。
独りになって、少しして、ようやく響の頭は先ほど起きたことを考え始める。
「えぇっと……?」
ジワジワと熱を帯びていく頬を両手で包み、響は彼の心を察しようと頭を巡らせた。
泣いていたから、慰めようとしてしたのだろうか。
凌は多分響よりも五歳は年上で、中身的にはもっと開きがあるように思われる。多分、彼からしたら子どもが泣いているようだったのだろう。
だから、ああしたのだ。
きっと、彼にとっては恋愛感情からのキスなわけではない。
速やかにそう結論付けて、響は一人頷いた。
が、そう納得させた傍から、別の心の声が、そっとそう囁きかけてくる。
(じゃあ、わたしは……?)
凌の隣にいると、響の胸は妙にざわめくのだ。安心するような、落ち着かないような――不安なような。色々なものがない交ぜになって、どれが一番強いのか、判らない。
彼に対して抱く気持ちはこれまで他の誰にも感じたことのないもので、名前を付けることが難しい。
なんだか胸のあたりがモヤモヤウズウズして、響は握った拳をみぞおちのあたりにギュッと押し付けた。
「何なんだろ、これ」
訳が解からず、響きは思わずつぶやいた。
――訳が解からない。
けれども、彼と一緒にいたいという想い――それだけは、確かなものだった。




