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消された雨  作者: 鷹司 怜


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第五章 面談


 内部監査部門は、地下四階にあった。


 エレベーターが開いた瞬間、空気が変わった。


 上のフロアとは違う。音がない。完全に音がない。吸音材でできた壁が、足音を、息遣いを、ここに来た者が立てるすべての音を飲み込んでいる。廊下に人の姿がない。蛍光灯ではなく、白色LEDの低い光。影の角度が違う。普通の光は影を作るが、この光は影をほとんど作らない。あらゆる角を、均等に照らしている。


 隠れる場所がない光だ、と慧は思った。


 スティーブン・キングの小説に出てくるような場所だ、と慧は思った。そして——そういう場所だ、と慧はすぐに訂正した。作りすぎた怖さではなく、リアルな怖さ。意図して設計された、機能的な恐怖の空間。


 案内された部屋には、テーブルが一つ、椅子が二つ。窓はない。男が一人、座っていた。


 四十代半ば。短く刈り込んだ白髪交じりの髪。スーツは黒。ネクタイはない。目が細く、何を考えているかわからない顔だった。その目には、感情がなかった。感情がないのではなく——感情を見せないことに、完全に慣れた目だった。プロだ、と慧は思った。こういう仕事を長年やってきた人間の目だ。


「桐島慧さん。お時間を取っていただきありがとうございます」


 男は名前を名乗らなかった。慧も聞かなかった。聞いても嘘をつかれるだけだ。


「どうぞ、お座りください」


 慧は座った。テーブルの上には何もない。男の手元にも資料はない。これは圧力だ。「私はすべてを頭の中に入れている」という無言のメッセージだ。


「最近、お仕事はいかがですか?」


「通常通りです。特に問題は」


「そうですか」男はうなずいた。「十七年間、ほとんど欠勤なく勤務されていますね。素晴らしいことです。先週、初めて有給を取得されましたが——体調は回復されましたか?」


「はい。大したことではありませんでした」


 男の目が、微かに動いた。何かを確認するような動きだった。


「それは良かった。十一月十四日の深夜、通常業務外のシステムアクセスがありました。案件772-Cの処理後、内部ログ照合システムに長時間接続していた記録があります。何をされていたんでしょうか」


 慧は動じなかった。動じないように、動じないように、心の中で繰り返しながら。十七年間、感情を顔に出さないことを練習してきた。


「ログに異常検出の通知が来ました。内容を確認していました」


「どのような異常でしたか?」


「削除済みのユーザーIDが、ログ内に残存していました。おそらくシステムのクリーンアップが不完全だったのだと思います。技術部門に報告するべきか確認しようとしていました」


 嘘だ。だが嘘とわからないように言った。十七年間、データという形で嘘をつき続けてきた。今度は言葉で。原理は同じだ——相手が信じるかどうかではなく、相手が反証できるかどうかが重要だ。


「削除済みのユーザーID。どのIDでしたか?」


「確認しましたが、社員番号が判読できませんでした。フォーマットが古くて」


 男はしばらく慧を見た。慧は見返した。視線をそらさなかった。そらすことは弱みになる。


 沈黙。十秒。二十秒。三十秒。


 この沈黙は計算された罠だ。人は沈黙を埋めようとする。余分なことを言い出す。慧は一字も余分に言わなかった。


「中原涼という名前はご存知ですか」男は言った。


 心臓が一拍ずれた。昨日の夕食。コンビニのカップ麺。賞味期限が迫っていたヨーグルト。


「元同僚です。二年前に亡くなりました」


「そうです。不幸な事故でした。中原さんはとても優秀な方でしたが、職務上のストレスが原因で一部の業務に問題が生じた。最終的に過失として処分され、その後に事故が起きた。残念なことです」


 慧は何も言わなかった。男が「残念」という言葉をどんな意味で使っているのか、測りかねた。


「桐島さんは、中原さんと親しかったそうですね」


「同じチームで一時期働いていました。友人とまでは言えませんが」


「中原さんから、ARIAの業務について話を聞いたことはありますか?」


「ありません」


「彼が問題視していた案件についても?」


「知りません」


 男はまた、しばらく慧を見た。この沈黙は——信じていない、という沈黙だった。


「わかりました。ご協力ありがとうございました。業務に戻ってください」


 廊下に出た。エレベーターに乗った。扉が閉まる瞬間、廊下の奥に人影が見えた気がした。振り返ると——もう誰もいなかった。


 慧は確信した。あの男は信じていない。面談は終わりではない。始まりだ。


 オフィスに戻り、席に着いた。モニターを開く。


 十分後、慧は気づいた。


 自分の昨日の業務記録が、また変更されていた。昨日と同じだ。タイムスタンプのずれ。ファイルリストの削除。慧の存在が、少しずつ薄くなっていく。


 これが涼に起きたことだ。誰かが記録を書き換え始めたとき、涼はどう思っただろう。同じように気づいたのか。同じように怖かったのか。


 慧は画面を閉じた。


 今夜。今夜、動かなければ、明日には動けなくなるかもしれない。


 昼休みに、慧はオフィスの外に出た。外は曇っていた。十一月の東京。空気が乾いていて、鼻の奥が痛くなる。今日も、どこかのARIAオペレーターが管理している気候の中に、自分は立っている。


 この空は本物か、作り物か。


 その問いに答えが出ないまま、慧はオフィスに戻った。

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