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消された雨  作者: 鷹司 怜


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第二章 亡霊のログ

夢の話をしよう。


眠ると、数字が降ってくる。雨のように。


慧はその数字を受け止めようとするが、触れるたびに形が変わる。

六が八になる。八がゼロになる。ゼロが——人間の顔になる。


知らない顔だ。いや、知っている。二十三万人の中の、誰かの顔だ。名前はない。

名前を持つ機会がなかった人間の顔だ。ただ数字の向こうに生きていた、誰か。

煙の中を走り回っていた、誰か。子供を抱えて逃げていた、誰か。

肺に煙を詰め込みながら、それがなぜなのかを知らないまま、ただ苦しんでいた、誰か。


 その誰かが、慧の夢の中で、慧を見つめる。


 何も言わない。ただ、見つめる。


だから慧は眠らないことにした。三日間、眠れなかった。

いや、眠らなかった。

その違いは重要だ。眠れないのは受動的だ。

眠らないのは選択だ。

慧は選んでいた。

夢を見ないために、眠らないことを選んでいた。


 眠らない夜は長い。


午前二時、三時、四時。

モニターの光だけが部屋を照らす。

世界の気候データが流れ続ける。


雨が降る場所。


雨が降らない場所。


どちらもARIAが決めた場所だ。


三日目の深夜。慧は再び例のログを開いた。


消えていなかった。

それ自体が不思議だった。

ARIAのシステムは、異常なデータを自動的に隔離・削除する設計になっている。

中原涼のIDで生成されたログは、定義上「異常」だ。

なのに三日間、そのままそこにある。まるで誰かが、消えないようにしておいたみたいに。


 あるいは——消されることを知っていて、消えることを恐れていないみたいに。


慧はファイルの生成経路を追った。通常の案件ならば、経路は単純だ。


現地センサー→衛星→ARIA中央サーバー→各支局端末。だがこの案件は、経路が違った。


 経路が——存在しない。


どこからも来ていないのに、そこにある。

内部から生まれたように見える。だが生成ポイントが特定できない。

まるでシステムの内側に、別のシステムがあるみたいだ。

ARIAの心臓部に、誰も知らない隙間が空いているみたいだ。


慧はシステムログの奥深くまで潜った。

データの海の底を這いずるように。水文学者として叩き込んだ本能が、まだここにある。

川の流れを読む技術。

水はどこへ向かうかを予測する力。

データも水と同じだ——流れる。流れには必ず源がある。

たとえ表面が穏やかに見えても、底には流れがある。その流れを追えば、源にたどり着ける。


 一時間。二時間。三時間。


慧はデータの海を泳いだ。

ARIAの公式ルートを避け、バックアップ経路を遡り、古いシステムの残骸を踏み台にして、より深いところへ。ARIAのシステムは巨大だ。

何十年もの間に積み重なった、古いコードと新しいコードが混在している。

その接合部分に、隙間がある。

古いシステムが想定していなかった経路が、新しいシステムによって生まれることがある。

バグと呼べばバグだが、設計者の意図を超えた構造とも言える。


慧はその隙間を探した。水文学者が地下水脈を探すように。

見えない場所に流れているものを、間接的な手がかりから推測する。


 そして見つけた。一行だけ、異質なコードが埋め込まれていた。


〈ARIA_GHOST_PROTOCOL:v.0.3.7〉


 ゴースト・プロトコル。


 慧はその言葉を声に出して読んだ。深夜のオフィスに、自分の声だけが響いた。


 ゴースト。幽霊。死んだ人間が残したもの。


慧はさらに深く潜った。

ゴーストプロトコルのコードを分析する。

高度な暗号化。

慧のアクセス権限では全容は見えないが、構造の一部は読める。

パターンがある。

設計の哲学がある。

これを作った人間の、考え方の痕跡がある。


これは——長い時間をかけて作られたものだ。一年、いやそれ以上。

誰かが、ARIAのシステムの内部に、別のシステムをこっそり構築してきた。

外部からではなく——内部から。

ARIAのシステムを熟知していなければ、これはできない。


 内部の人間でなければ、これはできない。


そして。

二年前まで内部にいた気候モデリングの専門家で、今は死んだことになっている人間が、一人いる。


慧は自分のアカウントでアクセスできる最深部まで潜ったが、それ以上には進めなかった。

権限が足りない。


 慧は画面を閉じた。考える。


 涼が生きているとしたら。死亡記録は改ざんされたデータだとしたら。


慧は自分の専門家としての感覚を呼び起こした。

改ざんされたデータには必ず痕跡がある。

完璧な改ざんなど存在しない。

どんなに巧みに書き換えても、元のデータが存在した痕跡は必ず残る——わずかな矛盾、タイムスタンプのずれ、ファイルサイズの不整合。

なぜなら、データは時間の中に存在するからだ。

書き換えた時刻と、書き換えられた内容の時刻は、一致しないことがある。


 慧は中原涼の死亡報告書を呼び出した。二年前、自分はこれを読んで閉じた。今度は違う目で読む。


 報告書の作成日時:2051年9月18日 14時32分07秒。


 中原涼の転落事故発生日時:2051年9月18日 23時41分。


 慧は止まった。


 事故が起きる前に、報告書が作られている。


 ありえない。


いや、実務上ありえなくはない——と慧は自分に言い聞かせた。

だが転落事故の日付と場所と状況が、テンプレートの段階で記入されているはずがない。

それは事故後にしか知り得ない情報だ。

未来の事故の場所と日時を、事前に知っていなければ書けない情報だ。


震える手で、慧はファイルのメタデータを精査した。

表示上の作成日時と、ファイルシステム上のタイムスタンプ。

だがこのファイルは——表示上の日時は事故後になるよう書き換えられていた。

だがファイルシステムの最下層に残るオリジナルのタイムスタンプは、消えていなかった。


 中原涼の「死」は、彼が死ぬ九時間前に決定されていた。


 慧は机から離れた。オフィスの壁まで歩いて、壁に手をついた。


吐き気が来た。本当の意味での吐き気だ。

入社三年目まで毎晩知っていた、あの吐き気。

ずっとなかったのに——戻ってきた。


 私は何を、手伝ってきたのだろう。


気候データの改ざんだと思っていた。

不都合な数字を消すだけだと。

人は死ぬかもしれないが、それは遠い場所の、画面の向こうの話だと。

統計の中の、名前のない命だと。


 だが涼は——涼は、ここにいた。


 同じコーヒーを飲んで、同じ廊下を歩いて、名前があって、声があって——。


 同じシステムの中にいた人間が、そのシステムに殺された。


 慧は洗面所に駆け込んだ。全部吐いた。コーヒーと、十七年分の何かを。


 吐き終わって、鏡を見た。


四十三歳の女が映っていた。

目の下に深い隈。頬が落ちて、骨が浮いている。

自分がいつからこんな顔になったのか——わかっている。


知っている。


モニターしか見ていなかったから。

自分の顔を見ていなかったから。

見ていた。毎朝見ていた。

でも——見ていなかった。本当の意味では。


 慧は水で口を漱いだ。


外部に漏らすことはできない。

自分のすべての行動はARIAによって監視されている。

それは自明だ。

外に連絡しようとした瞬間に、フラグが立つ。


 何もしない、ということもできない。すでに動いてしまったからだ。


 中原涼の顔が浮かんだ。「それは間違っています」と言ったときの顔。静かで、怖がっていなかった。


 慧はオフィスに戻った。自席に座った。そして——ゴーストプロトコルへのアクセスを試みた。


 正面から権限を使うのではなく、システムの裂け目から。三時間かけて、たどり着いた。


 ゴーストプロトコルの入口——それは暗号化された一つのメッセージだった。


〈あなたが来るのを待っていた。桐島慧。準備ができたら、応答してください〉


 送信者の名前はなかった。だが慧には、わかった。


涼だ。この簡潔さ。

必要なことだけを書く、あの文章のクセ。

感情の装飾を省いて、でも言葉の下に確かな何かが流れている——あれは涼だ。


 慧は画面の前で、長い間、指を止めた。


応答すれば、終わりだ。これまでの慧の人生が終わる。応答しなければ——これまでの慧の人生が続く。


 どちらが怖いか。


 慧はしばらく考えた。答えが出た。


 どちらも怖い。ただ——これまでの人生が続くことへの恐怖の方が、今は少し大きかった。


 慧はシステムからログアウトした。まだ応答しなかった。


 でも——確かめてしまった。


 涼は、生きていた。


その事実が、慧の中で何かをゆっくりと変え始めていた。

まるで閉じた扉に、最初の亀裂が入ったように。


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