断罪の丘
橋の上に辿り着いた頃には、既に空が白み始めていた。
背後から、複数の足音と、無線機の雑音が近づいてくるのが聞こえた。ヨハネスは振り返らず、ただ欄干に手をかけ、眼下に広がる海を見つめていた。夜明け前の海は、鉛色に沈み、静かに波打っていた。
「ヨハネス神父」
声をかけたのは、ウェイン刑事だった。息を切らしながら、拳銃を構えることもせず、ただまっすぐにヨハネスを見つめていた。
「もう、逃げ場はありません」
「逃げるつもりは、ありませんよ」
ヨハネスは静かに答えた。その声には、これまでにない穏やかさがあった。憑き物が落ちたような、あるいは、長い旅の終わりに辿り着いた者だけが持つような、不思議な落ち着きだった。
ウェインは、慎重に距離を詰めながら尋ねた。
「なぜ、こんなことを」
その問いに、ヨハネスは少しの間、沈黙した。海を渡る風が、彼の司祭服の裾を揺らしていた。
「あなたは、愛する者を理不尽に奪われたことがありますか」
ウェインは答えなかった。ヨハネスは、構わず続けた。
「法は、時に沈黙します。神もまた、沈黙します。その沈黙の中で、誰かが声を上げなければ、失われたものは、ただ失われたままで終わってしまう。私はただ――その沈黙に、耐えられなかっただけです」
「それでも、あなたのしたことは……」
「ええ、分かっています」
ヨハネスは、静かに頷いた。
「これは、赦されることではない。私自身、赦されたいとは思っていません。ただ――」
彼はポケットから、あの小さな十字架を取り出した。雨に打たれ、幾度となく血に汚れ、それでも彼が肌身離さず持ち続けてきたもの。
「ずっと、裁いてほしかった。誰かに。何かに。この手を、止めてほしかった」
その言葉に、ウェインは僅かに歩みを緩めた。
背後から、他の警官たちが取り囲むように近づいてくる足音が響いていた。逃げ場は、もうどこにもなかった。
ヨハネスは、十字架を胸に押し当て、静かに目を閉じた。エレナの笑顔。トマスの寝息。あの夜の、温かいスープの湯気。そして、雨の中で捧げた、幾つもの祈り。それらすべてが、走馬灯のように瞼の裏を過ぎていった。
「エレナ、トマス」
小さく、その名を呼んだ。
「もうすぐ、そちらに行けるだろうか」
ウェインが何かを叫び、駆け寄ろうとした、その瞬間だった。
ヨハネスは欄干を乗り越え、迷いのない足取りで、その身を海へと投げ出した。
落下する一瞬、彼の視界には、白み始めた空と、鉛色の海と、そして――遠く霞むステンドグラスのような光の残像があった気がした。それが現実だったのか、最後の幻だったのかは、彼自身にも分からなかった。
水面が、大きな音を立てて彼を飲み込んだ。
波紋が幾重にも広がり、そしてやがて、何事もなかったかのように、海はまた静かな凪へと戻っていった。
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その後、大規模な捜索が行われたが、ヨハネスの遺体が発見されることはなかった。
潮の流れが速い海域だったこと、事件発生から捜索開始までに時間が空いたことなどが、当局の公式な説明として発表された。だが、街の人々の間では、様々な噂が囁かれ続けた。
ある者は、彼はあの海の底に、静かに眠っていると言った。
またある者は、彼は生きて、どこか別の街で、また新たな"裁き"を続けているのではないかと囁いた。
その噂を裏付けるように、事件から一年ほど経った頃、遠く離れた国境の向こうの街で、ある報道が小さく取り上げられた。
〈路地裏で発見された遺体、磔刑を模した姿――地元警察は関連を調査中〉
記事はごく短く、すぐに他のニュースに埋もれて消えていった。だが、かつてカルヴァリー・キラーの脅威に晒された街の人々の間では、その一報が瞬く間に広まった。
真偽を確かめる者は、誰もいなかった。海に消えたはずの神父が、本当にその遺体を作ったのかは、誰にも分からない。ただの模倣犯だったのかもしれない。あるいは、都市伝説が独り歩きしただけかもしれない。
教会には、事件から数年が経った後も、時折花が供えられることがあった。誰が供えたのかは、誰も知らない。ただ、法で裁かれなかった罪を持つ者たちが暮らす街角では、今もなお、彼の名――カルヴァリー・キラーの名が、恐怖と、そしてどこか祈りにも似た響きを伴って、静かに語り継がれている。
そして、その名が語られるたび、世界のどこかで、また新たな噂が静かに囁かれ始めるのだった。




