王女の小さな手を取る黒鷹(二)
──僕がまだ小さなルディカ王女だった頃
初めてのエルミア南部への旅は、数日前だったなら、あるいは母マリエルが共にいたなら、ルディカにとって楽しいものになっただろう。
しかし、この時のルディカは、フードを目深に被り、旅商人に化けたセスらに隠されながら、ただ荷物に紛れ揺れるだけだった。
皆の主になると決めたものの、裏社会がどんな場所かも分からない。皆が口にするそれは、幼いルディカには恐ろしく響いた。だが、そこの王たる人は、大好きなセスの兄だ。
「きっと大丈夫よね。お母様」
首から下がった濃く青い石の輝きが、大丈夫と言ってくれている気がした。
やがて、見上げてしまうほど大きな屋敷に到着すると、身なりの良い人々が現れ、ルディカをどこかへ連れて行こうとする。
「セス! ジョゼ!」
離れるのは怖い。離れるのは嫌だ。
必死に戻ろうとすると、ジョゼがしゃがみ、いつものように頭を撫でた。
「着替えさせてもらうだけです。後でちゃーんと会えるので、ご安心ください」
「セス……は?」
「私も後でお会いできますよ」
スティーン達も笑顔で送り出してくれる。ルディカは案内されるまま開かれた大きな扉をくぐった。
自分は皆の主だ、と気を引き締める。母のように毅然と振舞おう。作法通り優雅な足取りで顔を上げる。
ふと視界に入った調度品に気を取られ、ほんの少しだけ首を向けた時、そこに人がいることに気付いた。
「子供、これの良さが分かるのか?」
品はあるが、威圧的な大人の男は、調度品の傍で腕を組んでいる。
いきなり無礼な声をかけられ、応じる気はなかったが、自分を連れ歩いている使用人達が敬意を払っている。
ルディカは一度だけ行った王宮を思い出した。あの時、自分がどんなに軽んじられているか嫌でも分かったものだ。
この見知らぬ者もそういった類いだろう。
が、セスらの為にも無下に扱うわけにはいかない。
「分からないわ。ただ……」
男はじっとルディカを見下ろしたまま、言葉を待っている。
幼いながらも、ルディカは頭を働かせた。
「悲惨だと思ったの」
目の前にある花瓶には、細長い並木の道に馬車と犬が描かれていた。
ほう、と男は顎をさする。
「では、今までの調度品の中で気になった物は?」
「ないわ」
短く即答すると、男は愉快そうに笑う。さすがに不敬だと感じ、ルディカは顔を毅然と上げたまま体ごと横に向いた。これより会う者がいかなる人物であろうと、王女たる自分の誇りを捨てたくない。
「狩りの噂の方が真実のようだな。良い気位だ。姫を湯殿へ。最上のもてなしをしろ」
姫と言われ内心驚くも、ルディカは表情に出さなかった。母が見ている。きっとどこかで。
主となった自分を。
男は一切敬意を示さなかったが、少なくとも、侮りの表情は消えていた。
身綺麗にされたルディカは、肌触りの良い肌着の上に、ふんだんにフリルをあしらった上等なドレスに身を包んだ。王宮に行った時ですら、こんな物は着たことがない。鏡に映った自分は本当に王女のようであった。
が、見せたい人は鏡の中に映っていない。新しい服が届き披露する時には、いつも母が共に姿見の前にいてくれた。
優しくて綺麗な、自分の母。
ふっと鏡から視線を外し、黙って使用人頭のような女に目を向ける。恭しく頭を下げた女は再びルディカを案内する。
やがて一際重厚な飴色の扉の前に着く。
「主がお待ちです」
扉が開かれ、ルディカを案内した使用人達は入らずに控えている。
(ひとりで行けということ?セス達もいるかな)
背筋を凛と伸ばし誘われた部屋へ入ると、セスらがいてホッとした。
が、先ほどの男もいる。
(椅子に座ってるのは、あの者とセスだけ……)
ジョゼらスティーンは、セスの後ろに立っている。笑顔はない。
会話の途中だったのが見て取れる、ティーカップ。セスはほんの少し口をつけただけ。男は半分飲んでいる。
押し黙った大人達。向けられる視線。
自分が何をすべきか。どこにどう歩いて行けばよいのか。
考えるまでもなかった。
立ち上がって迎えるセス。対して男は深々と座ったまま。しかし、侮りはない。
ルディカは真っ直ぐに歩むと、応接用の絨毯の手前で、黙ったまま跪き頭を垂れる。
皆が動こうとしたのが分かった。いつも心配ばかりかけて、与えられてばかりだった。母を失い、主と宣言したところで、皆に助けてもらうばかり。
ならば頭のひとつやふたつ何でもない。この身すら差し出そう。
ソファから布が擦れる音がした。ふかふかとした足音が自分の前で止まる。ピカピカに磨かれた靴が見えた。
「すまなかった」
両腕を優しく包まれ、不意に顔を上げると、男はルディカの前にかがみ、優しい顔をしていた。
「彼らが命を預ける主がルディカ王女と聞き、試すようなことをしてしまった。腹が減っているだろう。こちらにおいで」
優しい目、優しい顔。だが、この者は自分を王女と呼びながら今もそうは扱っていない。ただの子供としてしか扱っていない。
「私は……」
無礼にも勝手に腕に触ったままの男。だが、皆の命はこの男に委ねるしかない。
「これより王女であることを捨て、あなたに仕えましょう。その代わり、どうか彼らを受け入れて下さい」
男の顔から笑みが消え、腕から手が離される。
「王族とは、そんなにも簡単に身分を捨てられるほど安い物なのか?」
真っ直ぐに見てくる目は暗く怖かった。が、見下しても侮ってもおらず、子供扱いもせず、真剣だ。
ルディカは迷いなく答える。
「付いてきてくれた者達すら守れないような私が、唯一持つ物は自分自身だけです。彼らは私の大切な人達。私の財産。王女の身分と比べ、彼らの方が劣るとあなたは思いますか?」
虚を突かれた顔をする男は、可笑しそうに笑い出す。真剣に話したのに笑われたルディカは憤慨しかけたが、男はいきなりルディカを抱き上げ大きく掲げた。
「きゃぁ!」
「はっはは! 年端もいかぬ子供がここまで圧倒してくるなど初めてだ。おまえは良い!」
「あ、兄上! いい加減になされよ!」
「ギルバート様……こっちはそろそろ我慢の限界だぜ」
歳の割に小さなルディカを肩に座らせると、ギルバートは上機嫌に笑いながらセスらを制す。
「おまえ達は姫の話を聞いていなかったのか。おまえ達の為に持てる全てを差し出すと言って交渉してきたんだぞ? この私を相手に。まあ、安っぽく差し出す子供ならいくらでも見てきたが、姫は全く質が違う。よし決めた。姫はこれより私が育てる!」
ルディカへのあまりの無礼に、剣を抜きそうな勢いのジョゼをセスが必死になだめ、ギルバートはルディカを高く持ち上げ大笑いしている。
「ま、まだあなたのものになるとは決まってません! みんなのことを……」
戸惑いながらも、何とか皆のために話を続けようとすると、ルディカは優しくソファの上に置かれた。ギルバートは跪くでもなく目線をルディカに合わせてかがみ、ルディカの唇に人差し指を当てる。
「あなたのものに、というのはもっと大きくなってから言うセリフだぞ。それもおいおい教えてゆこう」
騒いでいるスティーンを見向きもせずに、ギルバートはルディカから指を外すと、頭を優しく撫でた。
「おまえが見ていたあの花瓶。他の飾りもだが、実は価値がバラバラでな。どれが気になるかなどその時の気分だったり、状況で変わる。世の中の価値も同じだ。おまえは世間にとって取るに足らぬ王女と思われている。それが今のおまえの世の価値。だが、私が見出した価値は世間のそれとは全く違う。おまえの母も」
ルディカの目がこぼれんばかりに大きく開く。確かに母、と今この男は言った。
セス達は静まり返る。ルディカが母の名を口に出す時以外は、目の前で話題を出さなかった。彼女がほとんど口に出さず、いつも明るく笑っていたからだ。
「お母様を……どう思ってる?」
泣きもせずに瞳を揺らす。ギルバートはしばし沈黙の後、眼差しを穏やかにした。
「マリエル様は……健やかなおまえを産み、こんなにも誇り高く賢い娘に育てた、立派なお方だ」
ルディカの大きな目に涙が溜まり始めた。ギルバートはルディカの隣に座り、頭に手を当てる。
──ルー、いつも元気ね
「お母様……っ」
頭を撫でるギルバートの腕に縋り付き、ルディカは大泣きした。抱き寄せたギルバートは、ルディカの温もりに不思議な心地になる。
「マリエル様の替わりには到底なれんが、私はおまえの父になろう。王女であることを捨て、私の庇護下に入れ。黒鷹総帥の養い子として新たな道を作ってやる」
声を上げわんわんと泣くルディカを撫でていると、ギルバートの中に愛しさが込み上げた。小さな肩で背負おうと見せてきた気概も、主としての覚悟も、忘れさせて穏やかに生きさせてやりたいなどと、考えてしまう。
セスは目頭を押さえ、ジョゼは上を向く。
母を失い大人の中で、ルディカがどれだけ気を張っていたか。気付いていたのに、どう声を掛けてよいのか誰も分からなかった。
ギルバートはそんなルディカの心に入ったのだ。
(敵わないな。姫様のお側近くにいたのに)
王女として扱っていた自分達には、できないことを兄がしてくれた。セスは深く敬服する。
ギルバートは、ルディカが泣き疲れて眠ってしまうまで、ずっと抱きしめ撫でていた。
***
「あの時は不思議な出会いだと思った。何度思い出してもルーが可愛すぎる」
「もー! 僕は恥ずかしいのに」
クラーラは話を聞きながら泣いてしまい、今は顔を上げられないでいる。ルーは笑いながら優しく背を撫でた。
「姫様がなぜ誇り高いのか理解して……もう涙が止まりません。ギルバート様が少し酷いけど……」
「ねー、酷いよね。いたいけな子供をあんなに試して大人気ないよ」
いたずらっぽくからかうルーにギルバートは慌てる。
「冗談! ギルバート様はずっと優しくしてくれたよ。ただ、熱が入りすぎてて、その後は結構地獄だったけど……」
クッキーを食べながら面白そうに笑うルーは、ペンダントを手にしながら再び懐かしげに目を細めた。




