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第5話 灯籠屋の夜

 朝、影無は別の顔を持っていた。


 顔そのものが変わったわけではない。骨格は同じで、目も口も昨日と同じ場所にある。変わったのは、顔の纏い方だった。纏うのは表情ではなく、立ち方や視線、呼吸の置き方だった。着物の内側、左脇の縫い目近く——昨夜、木賃宿の壁から読み取った情報が示した場所——に、小さな布のしるしを縫い付けた。影衆の末端が使う、灯籠屋への入場の証だった。


 徴そのものは、昨夜のうちに手元にある布切れで作った。


 正確な複製かどうかは確認できない。だが、偽造とは完璧な複製である必要はない——本物らしく見えれば十分だ、というのが前世の詐欺師の原則だった。本物らしさとは、細部の精度ではなく、提示する側の確信の問題だ。確信があれば、相手は疑わない。確信がなければ、どれだけ精巧でも疑われる。


 影無は鏡を見た。


 曇った手鏡に、中性的な顔が映っていた。


 今日の顔は「伊助」ではない。「伊助」は大黒屋に通う奉公人の顔だ。今日の夜、灯籠屋に入る顔には、まだ名前がなかった。名前のない顔で動くのは珍しくなかった。名前は顔に後からついてくる。人と深く関われば、内側が削れる。それがこの力の癖だった。先に纏い方があって、名前はその纏い方に合わせて選ぶ。


 今日の纏い方は——静かで、目立たず、どこにいても不自然でない人間の纏い方だった。


 影衆の末端に、そういう人間は多い。


「準備ができた?」と澪が言った。「ほぼ」「惣太郎は?」「今朝、大黒屋で会う。ついてくるなと言う」「聞かないでしょ」「聞かないだろうな」


 影無は手鏡を伏せた。


 大黒屋の裏口で、惣太郎はすでに待っていた。


 いつもより早く来ていた。早く来て、待っている人間の顔をしていた——待つことに慣れていない人間が、待つことを自分に強いているときの、少し強張った顔だった。


「来た」と惣太郎は言った。「ああ」「今夜、灯籠屋に行く気は変わっていない」「変わっていないか」「変わっていない」


 影無は少し間を置いた。止める言葉を探したが、昨夜考えた通り、 追い詰められて選んだ行動を止める言葉は見つからなかった。止める代わりに、条件を出した。


「一緒に行く。だが、私の指示に従え」


 惣太郎は影無を見た。昨日と同じ目——信用できるかどうかわからないが、頼る気になる目——で、しばらく見た。


「お前は、灯籠屋に入れるのか」「入れる手はある」「どうやって」「それは言えない」


 惣太郎は少し考えてから、頷いた。


「わかった。従う」


 それだけだった。惣太郎は、決めたあとに振り返らない人間だった。潔さが惣太郎という人間の骨格から来ていることは、この七日間でわかっていた。惣太郎は迷うが、決めたら引かない。その潔さが、今は頼もしくもあり、不安でもあった。


「今日の仕事は、普通にやれ」と影無は言った。「夜、大黒屋を出るとき、茂助に何も言うな。どこへ行くとも言わず、ただ出ろ」「わかった」「灯籠屋の中では、私の隣から離れるな。話しかけられても、私が答えるまで黙っていろ」「……そこまで、危ないのか」「危ない場所だ。だが入らなければわからないことがある」


 惣太郎は頷いた。今度の頷きは、潔さではなく——覚悟の種類の頷きだった。覚悟と恐れが半々の、正直な頷きだった。


 影無はそれを見て、少し何かを思った。何を思ったかは、うまく言語化できなかった。


 日が暮れるまで、影無は大黒屋で普通に働いた。


 蔵の整理、荷の確認、帳場の雑用——いつもと変わらない仕事をこなしながら、今夜の動き方を頭の中で組み立てた。灯籠屋の構造は、三年分の情報から概ね把握していた。表口から入ると広間があり、奥に個室が並んでいる。情報交換は個室で行われる。広間は表向きの料理屋として機能していて、誰でも入れる——ただし、奥の廊下から先は、徴のある者しか通れない。


 今夜、目的は一つだった。


 お絹が怖いと言った男の顔を見ること。


 それだけだった。


 顔を見るだけでいい。名前がわかれば、なおいい。だが今夜は、それ以上のことはしない。情報を収集するだけで、何も動かさない。前世の詐欺師は、初めて踏み込む場所では必ず一度、観察だけの訪問をした。観察だけの訪問で得た地図が、次の訪問での判断の精度を上げる。


 日が落ちた。


 茂助に、今夜は帰ると告げた。茂助は何も言わなかった。その沈黙が、何かを察しているようにも見えたが、今は関係なかった。


 裏口を出ると、惣太郎が待っていた。


 着替えていた。普段の商家の若旦那の着物ではなく、もう少し地味な、人目を引かない着物だった。自分で考えて着替えてきた、ということだった。


 影無は惣太郎を上から下まで見た。


「帯を、もう少し低く締めろ」「なぜ」「今の締め方は育ちがよく見える。育ちがよく見える人間は、灯籠屋では目立つ」


 惣太郎は黙って帯を直した。指先だけが、少し不器用に動いていた。


「歩くとき、少し猫背になれ。背筋が良すぎる」「……わかった」「声は出すな。私が話す。お前は頷くか首を振るかだけにしろ」


 霞津の夜が、霧の中に始まっていた。


 灯籠屋は、霞津の北の、城下町に近い区域にあった。


 表通りに面した間口は広くなく、暖簾が下がっていた。暖簾は橙色で、灯籠の絵が染め抜かれていた。中から明かりと声が漏れていた。普通の料理屋の声だった——笑い声、器の音、酒の匂い。焼いた川魚の匂いが、少し焦げすぎていた。それが表の顔だった。


 影無は惣太郎と並んで暖簾をくぐった。


 広間は十畳ほどで、六つの卓があった。半分ほどが埋まっていた。客は商人風が多く、武家風が一人いた。誰も影無たちを特別に見なかった。


 奥に、廊下があった。廊下の入口に、男が一人立っていた。立っているだけで何もしていないが、立っている場所と立ち方が、通せんぼの意味を持っていた。


 影無は男に近づいた。


 着物の左脇腹を、さりげなく——しかし男に見える角度で——開いた。縫い付けた徴が、明かりの中に見えた。


 男は短く目を留めた。


 頷いた。


 廊下への道が開いた。


 廊下は暗かった。


 広間の喧騒が遠くなり、板張りの廊下に自分たちの足音だけが残った。影無は足音を殺した。惣太郎は殺せなかったが、影無の隣を歩くことで、惣太郎の足音は消えていなかったが、影無の歩調に合わせることで、一人分の気配にまとまっていた。


 個室が四つあった。


 一つ目は空だった。二つ目は声がした——低い、複数の声。内容は聞こえなかった。三つ目は沈黙だった。沈黙の中に人の気配があった。四つ目は——


 四つ目の前を通ったとき、惣太郎が止まった。


 影無は惣太郎の袖を軽く引いた。止まるな、という意味だった。


 惣太郎は歩き続けたが、四つ目の前で視線が動いた。障子に視線が刺さった。障子の中に、何かを感じた、という目だった。


 廊下の突き当たりに、小さな窓があった。窓の外は中庭に面していた。影無は窓の前に立ち、惣太郎を引き寄せた。


「四つ目の部屋か」と影無は声を殺して言った。


「……声が、した」と惣太郎は言った。同じく声を殺して。「聞き覚えのある声が」「誰の」「わからない。でも——前に一度、父に連れられて灯籠屋に来たことがある。そのとき、広間で聞いた声に似ていた」「顔は見たか、そのとき」「見ていない。声だけ聞いた」


 影無は廊下を振り返った。四つ目の障子は閉まっていた。中の声は、この距離では聞こえなかった。


 近づく必要があった。


 近づくには——


「ここで待て」と影無は惣太郎に言った。「どこへ」「戻る。少しだけ」「危ないことをするのか」「危ないことはしない。聞くだけだ」


 惣太郎は影無を見た。少し間があった。


「……わかった」


 影無は廊下を戻った。


 四つ目の個室の前まで来た。


 止まった。


 自分の内側——能力の残りを確認した。今夜はまだ何も使っていない。使えば、自分の内側の何かが消える。何を失うかは選べない。だが——


 使わずに聞く方法があるか、考えた。


 廊下に立って耳を傾けるだけでは、障子越しに声が届くかどうかわからなかった。届いたとしても、内容が拾えるかどうか——


 使う必要はなかった。


 廊下の板に膝をついた。影無の耳は、能力を使わなくても通常より感度が高い。転生してこの体を得たとき、聴覚だけはもとの体より鋭くなっていた。能力の副産物か、体の構造的な特性かはわからない。


 板に手をついて、息を止めた。


 障子の隙間から、声が漏れてきた。


「——あの娘のことは、もういい」


 低い声だった。滑らかで、よく通る——御蔵の声だった。


「はあ」という声が続いた。仙右衛門の声だった。「縁談は、別の形で進める。大黒屋に対しては、別の条件を提示する」「別の条件、と申しますと」「息子の方を使う」


 影無の手が、板の上で止まった。


 息子——惣太郎のことだ。


「惣太郎殿を、ですか」「あの若者は、父親と違って頭が動く。使い方によっては、娘より役に立つ」「しかし、あの若者は……父親の事情をある程度知っているようで、少々扱いにくいかと」「知っているから使える」御蔵の声は平らだった。感情の起伏がなかった。「知っている者は、知っているがゆえに縛られる。何も知らない者より、はるかに御しやすい」


 仙右衛門が何か言った。聞き取れなかった。


「それから」と御蔵は続けた。「大黒屋に最近入った奉公人のことだが」


 影無は息を止めた。


「上方から来た者だと聞いている。染物の心得があると」「左様で。伊助と名乗っておりまして、口入屋の紹介で——」「顔を見た」「はあ」「普通の奉公人ではない」「……廊下にいるな?」御蔵の声だった。 影無の背中で、汗が一筋だけ流れた。仙右衛門の声が、少し間を置いた。


「さようでございますか」「断言はできない。だが——気配の消し方を知っている者の、消し損ないが見えた」


 消し損ない。


 影無は廊下に膝をついたまま、その言葉を聞いた。


 御蔵は、影無が気配消去の技術を持つことを——あの一秒の視線で——読んでいた。完全には見抜けていないが、何かを感じている。同種の技術を持つ者が、同種の技術の痕跡を嗅ぎ取った。


「調べますか」と仙右衛門が言った。「急がなくていい」と御蔵は言った。「急いで動くと、相手も動く。今は泳がせておく」


 泳がせる——それは、影無が前世で使った手だった。ターゲットを警戒させず、自然に動かし、動いた先で捕まえる。御蔵は影無に対して、まったく同じことをしようとしていた。


「ただし、惣太郎には近づけるな」


 影無は廊下から離れた。


 音を立てずに立ち上がり、窓の方へ戻った。


 惣太郎は窓の前にいた。


 影無が戻ってくるのを見て、何かを聞こうとした目をした。影無は首を小さく振った。今はここではない、という意味だった。惣太郎は口を閉じた。


 二人で廊下を戻り、広間を抜け、暖簾の外に出た。


 夜の霞津の霧の中に、出た。


 少し歩いてから、惣太郎が口を開いた。


「何があった」「聞こえた」と影無は言った。「御蔵の声と、仙右衛門の声」「何を話していた」


 影無は少し間を置いた。


 全部話すか、一部だけ話すか——判断に、いつもより時間がかかった。いつもなら判断は速い。情報の開示は戦略的に行う、というのが前世からの習慣だった。相手に必要な情報を、必要なだけ渡す。それ以上渡すと、相手の行動が予測できなくなる。


 だが今夜は——


 惣太郎の横顔を見た。 このまま何も知らせずにいれば、守れるかもしれない——そう考えた瞬間、言葉が喉に引っかかった。


「全部話す」と影無は言った。


 自分でもなぜそう決めたか、うまく説明できなかった。


 御蔵が次に惣太郎を使おうとしていること。仙右衛門が動いていること。そして——御蔵が影無の正体に気づきかけていること。すべてを話した。


 惣太郎は歩きながら聞いた。聞きながら、黙っていた。話が終わっても、しばらく黙っていた。


「私を、使おうとしているのか」「そう聞こえた」「……妹が死んで、次は私か」


 声が平らだった。感情を抜こうとしている声だった。抜ききれていなかったが、抜こうとしていた。


「お前は、どうするつもりだ」と惣太郎は言った。「どうするとは」「御蔵に気づかれかけている。このまま大黒屋にいれば、お前が危ない。逃げることもできるだろう」


 影無は少し考えた。


 逃げる、という選択肢は、確かにあった。今なら間に合う。御蔵はまだ「泳がせる」と言っていた。今夜、灯籠屋に来ていたことはわかっていない。明日、大黒屋に行かなければ、伊助という顔を捨てれば、御蔵の手が届く前に離れられる。


 できる。


 できるが——


 惣太郎の「妹が死んで、次は私か」という声が、まだ耳に残っていた。「逃げない」と影無は言った。「なぜ」惣太郎はそこで一度、言葉を切った。


 影無は答えを探した。


 正直な答えは、いくつかあった。お絹の死の真相を明らかにしたいから。惣太郎を御蔵の手から遠ざけたいから。前世の女性への贖罪の形として、今この場でできることをしたいから。


 どれも理由だった。だが、それだけでもない気がした。


「やりかけのことがある」と影無は言った。


 惣太郎は何も言わなかった。


 霧の中を、二人で歩いた。大黒屋の方向とは逆の方向へ、しばらく歩いた。どちらからともなく、そうなっていた。どこへ向かうということもなく、霞津の夜の中を歩いた。


 運河の近くまで来た。水の音がした。


「四つ目の部屋の声が、聞き覚えのある声だったと言っていたな」と影無は言った。「ああ」「御蔵の声だったか」「……違う。御蔵の声は、聞いたことがなかった。別の声だった」「どんな声だった」


 惣太郎は少し考えた。


「若い声だった。二十代、あるいは三十前後の——少し、かすれた声」


 影無は聞きながら、頭の中で整理した。御蔵と仙右衛門以外に、四つ目の部屋に人間がいた。若い、かすれた声の——


「それが、お絹の縁談相手かもしれない」と惣太郎は言った。


 声に、迷いのない重さがあった。


 翌朝、影無は大黒屋に行かなかった。


 初めてだった。


 三畳半の借間で、朝の光が差し込む中に座っていた。御蔵が「泳がせる」と言った。泳がせるとは、相手の動きを観察することだ。観察される側は、動くことで情報を与える。動かなければ——少なくとも今日一日は——観察される情報が減る。


 それだけの理由ではなかった。


 今朝、影無は内側を確認していた。


 昨夜、廊下で膝をついて声を聞いた。能力は使わなかった。だが帰り道、惣太郎に全部話した——その「全部話す」という判断が、どこから来たのか、朝になっても説明できなかった。


 戦略的には、正しくなかった。情報の全開示は相手の行動を不確定にする。惣太郎が何をするかわからなくなる。制御を好む人間が取る選択ではなかった。


 では、なぜそうした。


「眠れた?」と澪が言った。「少し」「昨夜のこと、考えてる」「ああ」「全部話したこと」「なぜそうしたか、わからない」


 澪は少し間を置いた。


「わからなくていいと思う」と澪は言った。「全部話したくなったから、全部話した。それでいい」「それは感情による判断だ」「そうだよ」「感情による判断は、精度が落ちる」「……それでも、そうする時もあるでしょ」


 影無は答えなかった。


 精度だけが基準ではない、ということは、三年前の影無なら言えた。三年前はまだ、精度以外の基準の存在を知っていた——感じていた。今は、知識としては知っているが、感じることができない。知識として持っている善意は、感じる善意と同じ価値があるか。


「澪」「なに」「昨夜消えたのは、何だった」


 使ったわけではなかった。使っていないのに、昨夜何かが消えた気がしていた。廊下で御蔵の声を聞いたとき——御蔵が「惣太郎には近づけるな」と言ったとき——何かが、音もなく薄くなった。


「確認してみる」と澪は言った。


 鎖骨の裏が、少し冷えた。澪が影無の内側を探っているときの感覚だった。


「……『距離』だと思う」と澪は言った。「距離」「人と人の間に置く距離感の感覚。近づきすぎないようにする感覚。それが薄くなってる」


 影無は少し間を置いた。


「それは……能力を使ったわけではないのに、消えたのか」「消えたというより——自分で手放した、に近い気がする」


 自分で手放した。


 御蔵の言葉を聞いたとき、惣太郎が次の標的になると知ったとき——何かが決まった感覚があった。決まった、というのは判断ではなく、もっと前の段階の何かだった。判断が生まれる前の、向きが定まる感覚。


 その向きが定まったとき、距離の感覚が薄くなった。


 人と距離を置く感覚が薄くなった人間は——近づく。


 近づいた先で何が起きるか——前世を知っている人間には、想像がついた。近づけば、傷つく。傷つくか、傷つけるか、どちらかになる。影無の場合は、後者の方が怖かった。


 言葉にする前に、喉の奥が少し引きつった。「傷つけたくない」と影無は声に出した。「誰を」「惣太郎を。亀吉を。茂助を。大黒屋にいる全員を」


 言ってから、それが言葉として出てきたことに、少し驚いた。


「それは」と澪は言った。声が、水が湧くより少し温かかった。「……前なら、そんなこと言わなかった」「そうか」「感情から来てる言葉は、良い言葉だよ。たとえ正確じゃなくても」


 昼過ぎ、影無は動き出した。


 大黒屋ではなく、霞津の東の方角へ歩いた。木賃宿の方向ではなく、その手前の——古い長屋が並ぶ区域だった。


 そこに、一人の人間がいた。


 名を、おかよと言った。


 影無がこの三年で知り合った、数少ない人間の一人だった。数少ない、というのは影無が意図的に関係を持たないようにしてきたからで、おかよとの関係も厳密には「知り合い」ではなく「情報の売り手と買い手」に近かった。おかよは霞津の様々な場所で働きながら、自然に情報を集め、必要とする相手に売る——それを生業にしていた。


 長屋の前でおかよを呼ぶと、すぐに出てきた。


 四十代半ばの、小柄な女だった。目が細く、笑うと目が消えた。笑っているときの方が、何かを考えていた。


「伊助さん。珍しい」「少し聞きたいことがある」「聞くだけで?」と言いながら、おかよは指で輪を作った。銭の形だった。「払う」「じゃあ聞きましょ」


 おかよの長屋の前の縁台に並んで座った。


「灯籠屋に出入りしている、若い男のことを聞きたい」と影無は言った。「二十代から三十前後、声がかすれている」


 おかよは笑顔のまま、少し考えた。


「それだけじゃ、多すぎますよ」「影衆の人間だと思う。御蔵の近くにいる」「御蔵さんの」


 おかよの笑顔が、一瞬だけ固まった。固まって、また戻った。固まった一瞬が、御蔵という名前の重さを示していた。


「……高いですよ、その話は」「払う」「倍でも?」「払う」


 おかよは細い目でしばらく影無を見た。


「伊助さん、あなた、何者ですか」「染物師の奉公人だ」「そうは見えません」「払いは増やす。見え方の話は関係ない」


 おかよは息を吐いた。諦めと合意が混ざった息の吐き方だった。


「御蔵さんの近くに、若い男が一人います。霞津の者ではなく、上方からついて来た男だと言われています。名前は——ひいらぎと呼ばれている」「柊」「源氏名みたいなものでしょうね。本名は誰も知らない。若いのに影衆の中でも一目置かれている、と聞きます。御蔵さんの右腕とも、後継ぎとも」「顔は」「私は見たことがありません。でも——」


 おかよは少し間を置いた。


「左の頬に、薄い傷がある、と聞いたことがあります。小さな傷ですが、見る人が見ればわかる、と」「……でも皆、傷より“目”を覚えてるそうです。見られると、嘘を隠したまま息ができないって」


 影無は聞いた。聞きながら、惣太郎が「怖い」と言ったことを思った。


 お絹が怖いと言った。


 御蔵の右腕で、後継ぎとも言われる若い男——柊——が、縁談相手だとすれば、お絹が怖いと感じた理由はどこにあるか。顔を見ただけで怖いと感じたのか、あるいは——その男が何かをしたのか、何かを言ったのか。


「もう一つ」と影無は言った。「値段が上がりますよ」「大黒屋のお絹について、何か聞いているか」


 おかよの表情が、今度は固まらなかった。代わりに、少し下がった。目が伏せた方向に動いた。


「……可哀想に、と思っています」「思う、だけか」「思う、だけです。これ以上は——私も、知りません」


 嘘だった。知っている。だが、話せない。


 その「話せない」の種類が、茂助の「話せない」と同じ種類だった。恐れから来る沈黙。


 影無は銭を置いた。


 おかよは銭を見て、また影無を見た。


「伊助さん、気をつけてください」「どういう意味だ」「あなたが聞いていることを聞いていると知られると——影衆は、本当に」


 おかよは言葉を止めた。


 止まった先を、言わなかった。言わなくても、影無にはわかった。


 三畳半の借間に戻ったのは夕刻だった。


 文机の前に座り、覚書に「柊」と書いた。


 御蔵の右腕。後継ぎ。上方からついて来た男。左の頬に薄い傷。


 縁談相手は柊だった——ほぼ確信だった。


 だがそれがわかったとして、何ができるか。


 お絹はもう死んでいる。柊が縁談相手だったことを証明しても、それがお絹の死に直結するかどうかは、まだ証明できない。帯の前結び。仙右衛門の「済んだ」という口の動き。それだけでは、役人は動かない。役人が動かないのは、影衆の圧力のせいだから、そもそも役人に頼む手が使えない。


 では、どこへ向かうか。


「澪」と影無は呼んだ。「なに」「この話の、終わりが見えない」「見えなくていいんじゃない、今は」「終わりが見えない話を進めると、どこへ着くかわからない」「それが怖い?」


 怖い——その言葉を、影無は内側で確認した。怖いという感覚の棚が、どこにあるか。湿った布を口に押し当てられたような恐怖が、まだそこにあった。


「怖い、と言えるうちは大丈夫だと、お前は言った」「言った」「今も、そう思うか」


 澪が少し間を置いた。


「思う。でも——」「でも」「怖いと言えなくなってきたとき、誰かがそこにいられるか、それが問題だと思う」


 誰かが——


 影無は覚書の「柊」という文字を見た。


 誰かがそこにいる、ということの意味を、今の影無はうまく理解できなかった。理解できないのは、それを感じる感覚が薄くなっているからかもしれない。薄くなっているが——昨夜、惣太郎と霞津の夜を歩いたとき、どちらからともなく歩き続けた、あの時間の感触は、まだどこかに残っていた。


 残っている。


 それだけで、今夜は十分だと、影無は思った。


 霞津の夕鐘が鳴った。


 窓から差す橙色の光の中で、「柊」という文字が少し滲んで見えた。その滲みが、誰の感情なのか、影無にはまだわからなかった。

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