第1話 冬の工房と静かな戦い
冬、雪深い地方都市の郊外にある、榊原花火の工房。
しんとした空気の中、仁は一人、作業台に向かっていた。
外は吹雪が窓を叩き、その音は遠い海の波音のように聞こえる。工房の片隅に置かれた小さな石油ストーブが、ジージーと低く鳴りながら、酸っぱいような独特の匂いを漂わせる。
仁の指先が、火薬を詰める前の玉皮に刷毛で糊を塗っていく。滑らかな動きで、糊が薄く均一に広げられる。その上に、薄い和紙をそっと重ね、空気が入らないように掌で撫でつける。
地味で、気の遠くなるような作業だ。だが、この工程こそが、夏の一瞬を夜空に咲かせるための基礎となる。
仁の浅黒い肌は、工房にこもる熱気と寒気、そして火薬の匂いに満ちた日々の証だった。短く刈り込んだ髪からは、湯気がかすかに立ち上っている。火薬と糊の匂いが染み付いた手のひら。
それは、仁の生き様そのものだった。
都会の大学を出て、一度は別の世界を歩いた。派手なスーツを着て、高層ビルの窓から東京の夜景を見下ろしていた頃が、遠い過去のように感じられる。
父である泰三の病を機に、仁は実家に戻り、四代目として家業を継ぐことになった。最初は慣れない作業に戸惑い、自分には向いていないのではないかと何度も自問した。しかし、一度火薬の匂いを嗅ぎ、玉に触れ、花火の奥深さを知ってからは、この世界から離れられなくなった。
花火は仁にとって、ただの商売ではなく、生きる意味そのものになっていた。
工房にいる時は、仁はほとんど口を開かなかった。ひたすら玉に、花火に、向き合う。それが仁の流儀だった。
静寂の中で聞こえるのは、糊を刷毛で伸ばす音、和紙を重ねる時の僅かな摩擦音、そして窓の外で絶え間なく続く雪の音だけだ。この静寂こそが、仁の集中力を高め、感覚を研ぎ澄ませる。
作業を始めてどれくらい経っただろうか。
ふと視線を感じ、顔を上げる。火鉢に手をかざして温める父、泰三が、黙ってこちらを見ていた。背筋はまっすぐだが、白髪が交じり、背は若い頃よりも少しばかり丸くなったようだ。仁は父の視線に、少し居心地の悪さを感じた。
「いい玉になったな」
そう言ってくれるかと期待したが、父の口から出たのは別の言葉だった。
「悪くねぇ……だが、まだ硬ぇな」
その言葉に、仁の動きがピタリと止まる。和紙を重ねる指先に、無意識に力が入った。内心、胸の奥で苛立ちが燻る。
もう何年も、この工房で玉を作り続けている。父の技術は全て盗んだつもりだし、自分なりに工夫も凝らしてきた。それなのに、未だに「硬い」と言われる。
父の言葉は、仁が作る花火そのものだけでなく、仁自身の心のありようをも指摘しているように感じられた。それはまるで、お前はまだ花火師として未熟だ、と言われているかのようだった。
「硬いって、どういうことだよ」
珍しく、仁は父に食ってかかった。
「お前が作った玉は、どれもこれも理屈通りだ。計算は完璧だが、遊びがねぇ。花火は数学じゃねぇ、感情だ」
泰三は穏やかな口調でそう言った。
「…俺は、泰三さんの教え通りにやってる。伝統を、守ってる」
仁の言葉に、父は何も言わず、ただ静かに首を振った。
「守るだけじゃ、いずれ廃れるぞ」
その言葉が胸に刺さった。反論しようとしたが、言葉が出てこない。父はそれ以上何も言わず、火鉢の火を眺めていた。
仁は再び作業に戻ったが、さっきまで研ぎ澄まされていた集中力が、すっかり乱されてしまった。
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その日の夕方、仁の携帯電話が鳴った。画面に表示されたのは、町の商工会職員、宮坂沙織の名前だった。
「はい、榊原です」
仁が電話に出ると、宮坂の事務的な声が聞こえてきた。
「榊原さん、お忙しいところ申し訳ありません。来年の花火大会のことで、いくつかご相談したいことがありまして…」
宮坂はいつも通り、淡々と本題に入った。
彼女は町の観光課から商工会に出向してきた、真面目一辺倒な人間だ。数字でしか物事を判断しないようなところが、仁はどうも苦手だった。
「来年の花火大会なんですが、メインスポンサーが撤退することになりまして…」
宮坂の言葉に、仁の手が止まる。
「…え?」
「理由は、花火大会の集客力低下です。このままでは、来年の大会は規模を縮小せざるを得ません」
「そんな馬鹿な…」
仁の声が、無意識に震えた。
「花火は、そんな簡単なものじゃない。一年の、いや、何十年という歴史の積み重ねで、やっと夜空に大輪の花を咲かせられるんだ。それを数字で、集客で…」
仁の言葉を遮るように、宮坂は言葉を続けた。
「わかっています。ですが、数字がなければ、大会は成り立ちません。今のままでは、町は衰退する一方です。人が集まらなければ、町の未来はないんです」
宮坂の言葉が、鋭い刃物のように仁の心を抉る。
「…派手さがなければ、人は集まりません。榊原さんの花火は、確かに美しい。ですが、今の時代に求められているのは、それだけではないんです」
宮坂の言葉の真意を理解したとき、仁の怒りは頂点に達した。仁は、花火の伝統と美しさを守るために、人生の全てを捧げてきた。
それが、今の時代に合わないと言われたのだ。
「あんたに、何がわかる…!」
仁は電話を乱暴に切った。掌に持っていた刷毛から、糊がポタリと床に落ちる。
窓の外では、雪が激しさを増していた。静かに降り積もる白い雪。
それはまるで、仁の心に降り積もる、冷たい不安と苛立ちのようだった。
父の「まだ硬ぇな」という言葉。
宮坂の「派手さがなければ人は集まりません」という言葉。
それらが仁の頭の中で反芻され、ぐるぐると渦を巻く。
「俺は、俺の花火を作るだけだ…」
仁は、誰に聞かせるでもなく呟いた。
だが、その声は、どこか自信のない、弱々しい響きを帯びていた。




