Case4-9
「結局のところ、私はずっと逃げていたのです。彼女の死を受け止めることが出来ずに……。でもあなたが、私の背中を押してくれた」
「あたしが、ですか?」
「他ならぬあなたが、この『悲恋』を変えろと言ってくれた。あの瞬間私は……これこそが彼女の最後の望みなのだと確信しました」
「そんな……あたしはただ、このままじゃいけないって思った、だけで……」
理沙は俯き、膝に置いていた両手を強く握りしめた。
するとレイヴンは先ほど持っていた紙袋から、一抱えはある白い箱を取り出し、テーブルの上に置いた。
箱の中央には、フランスで一流の化粧品ブランドのロゴが印刷されている。理沙が視線を上げると、レイヴンが開けるように促した。
「……?」
有無を言わさぬレイヴンの迫力に、理沙はそうっと箱を持ち上げる。その中には黒一色に統一された化粧品の一式が、隙間なくずらりと並んでいた。
下地、ファンデーション、コンシーラー。
アイメイクのパレットは三十色をゆうに越えており、マスカラやアイブロウも様々な色合いが用意されている。
口紅は色の見えるパッケージになっており、深紅からオレンジ、ピンク、紫と見事なグラデーションを描いていた。
理沙が使っている化粧品もそこそこの値段だが、今目の前にあるものとは比べものにならない。おそらくグロス一つとっても、数倍の価格はくだらないだろう。
ちかちかと目がくらむような高級品を前に、理沙は少しだけ胸をときめかせる。やがてその化粧品のどれもに『Toi et Moi』の刻印があることに気がついた。
やがてレイヴンが、さらりと口にする。
「あなたに差し上げます」
「へ?」
「私からのお礼ということで」
突然のことに理沙は一瞬理解が出来なかった。
だがようやくかみ砕いたところで、洗われた直後の犬のように激しく首を振る。
「む、無理です!」
「無理?」
「こ、ここ、こんな立派なもの、いただけないです……」
するとレイヴンはわずかに微苦笑を滲ませた後、では、と続ける。
「こうしましょう。あなたを――『Toi et Moi』の正式な従業員として雇い入れる。その契約金代わりとして、これをお渡しする。それならよろしいですか?」
「契約……え、あの、雇い入れるって、いったい……」
「言葉通り、あなたを長期的に雇用したいのです」
当初の予定では、理沙の雇用契約は「新しい化粧品が揃うまで」だったはずだ。その化粧品は今まさに目の前で完成を披露しているわけで――と理沙はさらに惑乱する。
状況に追い付いていない理沙を気遣ってか、レイヴンは笑顔で口を開いた。
「今回のことで気づいたのですが、一人では着られない衣装の場合、女性アシスタントの存在があった方がいいと思いまして」
「……ア、アシスタント?」
「男の私に、肌を見られたくないという女性もいるでしょう。今まではあまりそうしたケースには巡り合いませんでしたが、今後同じようなことがないとも限らない」
「は、はあ」
「それにあなたが化粧を施している時間を使って、私は衣装を仕立てることが出来る。俗にいう『効率化』というやつです」
「こうりつか」
生まれたての雛鳥のように同じ言葉を繰り返す理沙に、レイヴンはふふと笑みを零した。その笑い方はいつものレイヴンのもので――理沙は少しだけ安堵を滲ませる。
「ただし、しばらくは『裏稼業』でのみです。店でのメイクは変わらず私がいたします。あなたに任せるのは、今通っている学校を卒業してからということで」
「は、はい!」
勢いにまかせて返事をしたものの、理沙はあれと瞬いた。学校を卒業したら店でのメイクも担当させてもらえる。
ということはつまり――学校を出た後もこの店で働いていい、ということだろうか。
でも、と理沙はこわごわとレイヴンに尋ねる。
「あの、本当に良いんですか? レイヴンの言う通り、私はまだプロではなくて……」
「たしかに資格や経歴上の話をすれば、あなたはまだプロとは言えません。ですが女性たちのことをしっかりと受け止め、彼女たちが必要としているメイクを施した。私はそれをずっと傍で見てきた。そのうえであなたの技術が必要だと判断します」
「……っ」
レイヴンのその言葉に、理沙は思わず顔を伏せた。耳の端まで赤くなっていくような感覚に、たまらず唇を噛みしめる。
(ど、どうしよう、ずっと見ていてくれた、なんて)
嬉しい。たまらなく嬉しい。
仕事を認めてもらえたことも。レイヴンが理沙を気にしてくれていたことも。
理沙は目の端に、うっすら涙が溜まってきたことに気づき、慌てて何度も瞬いた。そんな理沙の感激を知ってか知らずか、レイヴンは穏やかに問い返す。
「それで、お話は受けていただけるのですか?」
「あ、あの、えっと」
理沙はたまらず、ソファから立ち上がった。正面のレイヴンに向けて、深く頭を下げる。
「あの、――よ、よろしくお願いします!」
腰をしっかりと折り曲げたまま、理沙はぎゅうっと目を閉じた。しばらくその体勢のまま硬直していると、ぎしりというソファの軋みの後、ぽんと理沙の頭にレイヴンの手が乗せられる。そのまま何度かよしよしと理沙の頭を撫でた後、さっさと離れていくレイヴンの足音が耳に入った。
「……?」
恐る恐る顔を上げた理沙は、現実かを確かめるように自身の頭に手を乗せる。そのまましばしきょとんとしていると、呆れたような声でレイヴンが顔を覗かせた。
「何をぼさっとしているんですか。明日には店を開けますから――」
「はい! 掃除ですね!」
食い気味に返ってきた理沙の言葉に、レイヴンは苦笑する。理沙は得意げに腕まくりすると、表の掃き掃除をするべく、嬉しそうに店外へと飛び出していった。
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そして迎えたクリスマスイブ。
理沙の通う美容学校は明日から冬季休校に入るため、クラスメイトたちに会うのはしばらく時間が空いてからとなる。
休暇中の課題や始業時の注意事項などの説明を受けた後、ようやく講師が退席した。すると前の席に座っていたクロエが、勢いよく振り返る。
「リサ! Présent!」
「わあっ、あ、ありがとう!」
突然差し出されたプレゼントを受け取ると、理沙はわくわくと紐解いた。中には蛍光色の生地をつぎはぎしたような、ファンキーなテディベアが入っており、クロエらしいと理沙は改めてお礼を言う。
実は、と理沙もまたリュックから包みを取り出した。
『Moi aussi.(あたしからも)』
『Je suis ravi!(わーい! 嬉しー!)』
満面の笑みを浮かべるクロエになごみつつ、理沙はリュックからもう一つプレゼントを取り出した。
隣の席で寝息を立てている王子様の肩を、とんとんと叩く。
『Gérald, Tiens.(ジェラルド、これ)』
『……quoi?(何?)』
「ええっと、『la dernière fois,(この前の)merci.(お礼)』……」
何とか組み合わせた理沙のフランス語に、ジェラルドは眉を寄せていた。だが理沙が差し出した包みをさっと受け取ると、短く『merci.』とだけ返す。受け取ってもらえた、と理沙はほっと胸を撫で下ろした。
さっそく理沙のプレゼントを開け、中に入っていた原色のキャンディを頬張っていたクロエが、それを見て「アレ?」と首を傾げる。
『la dernière fois?(こないだのは?)』
「あ、ええと、その、……『J'hésite à y aller.(行くべきか迷っていて)』……」
途端に口ごもる理沙を前に、クロエはにやりと口角を上げた。
「アキラメタラ、ソコデシアイシュウリョウデスヨ!」
「へ⁉ な、なんでそれを」
『Bon courage!(がんばって!)』
高らかに拳を握り上げたクロエは、ひらひらと手のひらを理沙の方に示した。つられて理沙が手をあげると、バシン、と力いっぱい手のひら同士を叩き合わせる。あまりに強さにじんじんとした痛みが伝わり、理沙は目を見開いた。
満足げに教室を後にするクロエを見送った後、理沙はやや赤くなった手のひらを見つめ、そのままぎゅっと握りしめた。




