Case4-10
火にかけていたマキネッタから、こぽこぽと泡立つ音が聞こえてくる。同時にふわりとコーヒーの香ばしい匂いが鼻をくすぐり、理沙はタイミングを見計らってからよしと火を止めた。小さなエスプレッソカップに傾けると、注ぎ口から芳醇な液体が零れだす。
丁寧に抽出した一杯をトレイに乗せ、理沙はそろそろと『トワ・エ・モア』の奥にある小部屋へと向かった。
中のソファにはレイヴンが座っており、理沙の姿に気づくと手にしていた本を脇に置く。
今日はお店の定休日。
理沙がここにいるのは、かねてから約束していた『コーヒー試飲会』のためだ。
「ど、どうぞ……」
緊張した面持ちで、理沙はレイヴンの前にソーサーに乗せたカップを置いた。ソーサーには角砂糖が二個置かれており、レイヴンは手慣れた様子でそれを入れる。
その光景に、理沙はううむと眉を寄せた。
(やっぱりレイヴンも、甘い方が好きなんだ……)
実は最初の頃、理沙はエスプレッソをブラックのまま飲んでいた。だが濃縮された苦みが凄まじく、毎度涙目になっていたところ、大家さんからぼちゃんと角砂糖を放り込まれたのだ。
後から調べたところによると、フランスではエスプレッソに大量の砂糖を入れて飲むのが主流らしく、たしかに大家さんも下宿人たちも、ここぞとばかり甘くして楽しんでいた記憶がある。
くるくるとスプーンでかき混ぜた後、レイヴンはそっと取っ手をつまみあげた。わずかに香りを確認した後、少しだけ口をつける。
続く沈黙に耐え切れず、理沙は恐る恐る尋ねた。
「ど、どうで、しょうか」
「……悪くありません」
レイヴンにしては上々の評価に、理沙はぱあっと顔をほころばせる。だがすぐにどすりと釘を刺された。
「ですが、お客様に出せるレベルではありませんね」
「は、はい……」
やっぱり、と理沙はがくりと肩を落とす。その様子をじっと見ていたレイヴンは、再度カップを傾けた後、静かにはあと息を吐きだした。
「ただまあ……私個人としては、比較的好きな味です。特別に、私に出すコーヒーとしては許可しましょう」
「……ええと、それは、つまり?」
「……日本語は難しいですね。あー……『これからは私のために、コーヒーを淹れてください』……これで伝わりますか?」
トレイを胸の前で抱えていた理沙は、レイヴンの言葉にぼんと顔を赤くした。違う違う、とレイヴンに背を向け慌てて首を振る。
(こ、言葉の綾! 多分わたしが想像したような他意は! ない! はず……)
理沙はどきどきと鳴りやまない心臓を、必死になって落ち着けた。そこではっと何かを思い出すと、目をしばたかせているレイヴンを残し、一旦部屋を後にする。
すぐに戻って来たと思うと、テーブルの上にもう一つ小皿を置いた。レイヴンが見つめるそれには、小粒のチョコレートが二つ並んでいる。
「リサ、これは?」
「『chocolat』です! いつもお世話になっているので、そのお礼にと思って……」
レイヴンはそのうちの一つを手に取ると、はくりと口に含んだ。小さなそれを丹念に味わうと、幸せそうな笑みを浮かべる。
「――美味しいです。ありがとうございます」
「よ、良かったです!」
それを見たレイヴンは、ちょいちょいと理沙を手招きした。
疑問に思いながらも理沙は近づき、レイヴンの傍で首を傾げる。するとレイヴンは、小皿に残っていたもう一つのチョコレートをつまむと、すばやく理沙の口に押し込んだ。
突然のことに驚いた理沙は、思わずそのまま食べてしまう。
「――⁉」
「どうせ私の分だけ準備して、自分では食べていないのでしょう?」
「ふぁ、ふぁい……」
「この国のchocolatは世界に誇れる文化です。よく味わいなさい」
言われるまま少しずつ舌で転がしていると、今まで食べたことのない濃厚な甘みと苦みが理沙の口の中を満たした。
もはやお菓子というより、非常に完成度の高い宝石のようで、理沙はうっとりとした表情でその極上を楽しむ。
その様子を満足げに眺めていたレイヴンが、再びカップを傾けた――すると店のドアががたんと揺れる音がし、理沙とレイヴンは揃って顔を上げる。
閉店の札は下げていたはず、と理沙が表に出ようとしたところ、巨大な花束を抱えたフェリクスが目の前に現れた。
その迫力に、理沙はたまらず飛び上がる。
「ぎゃー!」
「リサ! ここにいたのか! 連絡が取れないから、レイヴンを問い詰めようと思っていたところだったよ。まったく、これは運命だね!」
「れ、連絡……?」
急いでポケットに入れていた携帯を見ると、フェリクスからの着信が大量に届いていた。あわわと慌てる理沙をよそに、フェリクスがばさ、と花束を差し向ける。
『Joyeux Noël!(メリークリスマス!)』
「あ、ありがとうございます……」
「これだけじゃないんだよ、リサ。さあ、こっちに座って」
フェリクスに恭しく手を取られ、理沙はレイヴンの向かいのソファに座らされる。え、え、と動揺する理沙をよそに、フェリクスは跪くと脇に抱えていた箱を開いた。それを見た理沙は大きく目を見開く。
中には薄葉紙に包まれたハイヒールが入っていた。
とろけるような真っ赤なエナメルに、金のシンプルな装飾。細身のアンクルストラップにはぐるりとダイヤが埋め込まれており、ヒールの部分にも赤い宝石が縦に並んでいる。
誰が見ても高いと分かるそれを前に、理沙はぶわりと嫌な汗をかいた。
「フェ、フェリクスさん、これって……」
「前に約束した、君のための靴だよ。遅くなってしまって悪かったね」
「ひ、ひえっ!」
理沙は珍妙な声を上げ、ガタガタと震えながら蚊の鳴くような声で「お、お金は分割でもいいでしょうか……」と絞り出す。
それを聞いたフェリクスは、あっはっはと豪胆に笑った。
「だからいらないよ。今日はクリスマスイブだしね。ひよこちゃんへのプレゼントだ」
「プ、プレゼントって、こ、こんな高いもの……」
「リサ? 男からの贈り物にいちいち怯えているようでは、素敵なレディにはなれないよ。『merci.』って軽く微笑みかけてもらうだけで、男は満足してしまうものなのだから」
それに、と赤いハイヒールを手に取ったフェリクスは目を細める。
「『素敵な靴は、あなたを素敵な場所へと連れて行ってくれる』――この国に伝わる言い伝えだ。きっとこの靴は、君をこれからもっともっと素晴らしいところへ連れて行ってくれる。俺がその助けになれるのなら、それは何よりも嬉しいことなんだ」
「素敵な、場所へ……」
やがてフェリクスは、理沙のスニーカーを脱がせると、そっとハイヒールをあてがった。
ハイヒールは元々理沙のものだったかのように、ごく自然に足に収まる。反対側の足にも素早く履かされ、フェリクスに手を差し伸べられた。
以前も思ったが、やはりヒールの高い靴は不安定だ。フェリクスの手を借りながら、理沙は生まれたての小鹿のように震えながら立ち上がる。
「や、やっぱり、似合わないのでは……」
「大丈夫大丈夫。リサ、君はきっとあっという間に、このヒールを颯爽と履きこなすような素敵な大人の女性になるよ」
「そう、でしょうか……」
「ああ。俺が保証する」
フェリクスのその言葉に、理沙はふと美しかったシャルロッテの姿を思い出した。ぐっと足に力を込め、しっかりと背筋を伸ばす。
一気に高くなった視界に、理沙はこくりと息を吞んだ。




