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第1話 俺、男なのに乙女ゲームのヒロインになったんだが?

 俺は猫を助けた。


 正確には、猫を轢きそうになってハンドルを切り、ガードレールを突き破って死んだ。


 雨の降る金曜日の夜だった。


 ゲーム会社の広報部に勤める俺は、来月発売予定の新作ゲームの宣伝資料を抱え、ようやく終わった残業から解放されたところだった。


 時刻は午後十一時四十分。


 視界は最悪。ワイパーは全力で働いているのに、フロントガラスの向こうは雨粒と街灯が入り交じって、まるで出来の悪い水彩画みたいになっている。


 そんなとき、道路の真ん中に白い猫が飛び出してきた。


「うおっ、危ねえ!」


 反射的にハンドルを切った。


 タイヤが滑った。車体が横を向いた。ガードレールが迫ってきた。


 そして最後に見えたのは、道路脇でこちらを振り返る白い猫だった。


 なぜかそいつは、金色の目を細めて笑っていた。


 いや、猫が笑うわけないだろ。


 そう思ったところで、俺の人生は終了した。


     ◇


「……お目覚めですか、聖女様」


 知らない声がした。


 女の声だ。しかも、やたらと上品な喋り方をする。


 俺はゆっくり目を開けた。


 天井が高い。


 白い石造りの部屋に、金色の装飾が施された柱。壁には猫の彫像が並び、窓からは柔らかな朝日が差し込んでいた。


 ベッドの天蓋には、これまた猫の刺繍が入っている。


 どんだけ猫が好きなんだ、ここの住人は。


「聖女様?」


 声の主は、メイド服を着た若い女性だった。


 黒髪をきっちりまとめた、いかにも仕事ができそうな美人である。


「お加減はいかがでしょうか?」


「あ、いや……」


 返事をしようとして、俺は固まった。


 声が高い。


 びっくりするほど高い。


 寝起きの男の声というより、アニメのヒロインが寝起きに出す、ちょっと掠れた可愛い声だった。


「……え?」


「聖女様?」


「え、ちょっと待って」


 もう一度喋る。


 やっぱり高い。


 俺は布団を跳ね除けた。


 白い寝間着。


 細い腕。


 華奢な肩。


 そして、胸元にある、明らかに昨日までは存在しなかった二つの膨らみ。


「…………」


 俺は黙って布団を戻した。


「聖女様?」


「鏡」


「はい?」


「鏡、あります?」


「もちろんでございます」


 メイドが姿見を運んできた。


 そこに映っていたのは、金色の長い髪と、宝石みたいな青い瞳を持つ美少女だった。


 年齢は二十歳そこそこだろうか。


 肌は白く、手足は細く、顔立ちは整っている。どこか儚げな雰囲気があって、男だった頃の俺なら間違いなく可愛いと思ったであろう容姿だった。


 実際、可愛い。


 めちゃくちゃ可愛い。


 だが、問題はそこじゃない。


「……リリア?」


 口から名前が漏れた。


 知っている。


 俺はこの女を知っている。


 リリア・ベルフォード。


 来月発売予定だった、十八歳未満購入禁止の女性向け恋愛ゲーム。


『聖猫神の花嫁と五つの誓い』


 その主人公だ。


 俺が勤めていたゲーム会社が、制作と販売を手がける最新作である。


 俺は広報担当として、こいつの顔を何百回も見ていた。


 公式サイトのトップ画像、宣伝ポスター、店舗用の販促素材、予約特典のイラスト。


 全部、俺が確認した。


 そして今、鏡の中にいる。


 俺が。


「…………嘘だろ」


 メイドが心配そうに首を傾げた。


「リリア様?」


 リリア。


 俺の名前が、リリア。


 男として二十九年間生きてきた俺が、リリア。


「ちょっと、一人にしてもらっていいですか?」


「ですが、本日は王立学院へのご入学の日でございます」


「五分でいいから!」


 メイドは困惑した顔で、それでも礼儀正しく頭を下げて部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 俺はベッドの上で頭を抱えた。


「なんでだよおおおおおお!」


 声が可愛い。


 絶叫しても可愛い。


 くそっ、腹立つ!


     ◇


 落ち着こう。


 まずは状況を整理するんだ。


 俺はゲーム会社の広報部員だった。


 発売予定の乙女ゲームの世界に転生した。


 しかも主人公に。


 ここまではいい。


 いや、全然よくないんだが、ひとまず受け入れるしかない。


 問題は、このゲームの内容だ。


『聖猫神の花嫁と五つの誓い』。


 猫の主神ミャルティアを信仰する王国を舞台に、特別な加護を受けた聖女リリアが、五人の美男子と恋に落ちる恋愛アドベンチャー。


 キャッチコピーは、こうだ。


『あなたの運命を、五人の愛が奪い合う』


 もう少し具体的に説明すると、王子様、騎士団長、宮廷魔導師、大神官、公爵家の御曹司という、いかにも乙女ゲームらしい男たちに囲まれる作品である。


 そして、最大の売りがある。


 五人全員との恋愛が同時進行する、ハーレムルートの存在だ。


 しかも十八禁。


 十八禁である。


 大事なことなので二回言った。


 俺は広報担当だから、当然ながら宣伝用のイベントシーンも見ている。


 壁際に追い詰められる主人公。


 耳元で甘い言葉を囁く王子。


 ベッドの上で主人公を見つめる騎士。


 手首を掴み、逃がさないと宣言する魔導師。


 あんな場面を何枚も見た。


 もちろん、仕事としてだ。


 実際のゲームは未発売だったし、俺が触れたのは宣伝用の資料と体験版くらいだった。


 それでも、ひとつだけ断言できる。


「俺の貞操、危なくない?」


 男が男を好きになるのは自由だ。


 恋愛対象なんて人それぞれだし、それを否定するつもりもない。


 ただし俺自身は、少なくとも昨日まで、男と恋愛する人生を想定していなかった。


 それが今や、世界中のイケメンから全力で求愛される予定の女の子である。


 なんてこった。


 ゲームの主人公に転生するなら、せめて男性向けのハーレムゲームにしてくれよ。


 いや、そもそも転生させるな。


 俺はまだ積みゲーを消化してないんだぞ。


 そんなことを考えていると、不意に目の前に青白い光が現れた。


『キャラクター設定を開始します』


「……は?」


 空中に文字が浮かんでいる。


 ゲームのユーザーインターフェースそのものだった。


『主人公名:リリア・ベルフォード』


『性別:女性』


『年齢:二十二歳』


『職業:王立学院新入生』


『現在の設定を引き継ぎますか?』


 その下に、『はい』『いいえ』の選択肢がある。


「いや、いいえに決まって……」


 俺は『いいえ』に触れた。


『主人公の基本設定は変更できません』


「じゃあ聞くなよ!」


 思わず突っ込んだ。


 続いて新しい画面が表示された。


『誕生日を入力してください』


「ああ、これか」


 思い出した。


 このゲームには、ちょっと変わった初期設定がある。


 プレイヤーが誕生日を入力すると、その日付に対応する初期スキルが付与される仕組みだ。


 十二星座をモチーフにした能力や、誕生月の守護精霊による加護などがあり、恋愛イベントの成功率や能力値に影響を与える。


 スキルは全部で百種類以上。


 恋愛ゲームにしては凝った仕様で、広報部でも売り文句として採用していた。


 ちなみに俺は、具体的なスキルの一覧を知らない。


 そこは開発チームの管轄だったし、宣伝でも詳細を伏せていたからだ。


「誕生日か……」


 どうせなら強い能力がほしい。


 体力強化とか、魔法無効とか。


 そういうのがあれば、攻略対象から逃げるのにも便利だろう。


 俺は自分の誕生日を入力した。


 二月二十二日。


 昔から猫の日だと、友人たちに散々いじられてきた日付である。


『二月二十二日で登録しますか?』


「はい」


 画面が金色に輝いた。


 おおっ。


 これは当たり演出じゃないか?


 広報担当の勘が告げている。


 金色のエフェクトは、だいたいレアリティが高い。


『祝福を確認しました』


『聖猫神ミャルティアの特別加護が付与されます』


「よっしゃ!」


 猫の日、最高!


 昨日の猫には感謝しなくちゃな!


『獲得スキル』


 俺は息を呑んだ。


 そして画面に、でかでかと文字が表示された。

獲得スキル

《ハズレスキル》


分類:特殊系統


レアリティ:測定不能


効果:運命によって定められた結果を、一度だけ「外す」ことができる。


備考:外された運命は消滅せず、別の結果へと変換される。


「…………」


 ハズレスキル。


 俺は画面を見つめた。


 ハズレスキル。


「いや、名前!」


 思わず叫んだ。


「ハズレスキルって、そういう意味じゃねえだろ!」


 世の中にはハズレスキルという言葉がある。


 役に立たない能力。


 使い道のない能力。


 異世界転生ものでは、主人公が授かって馬鹿にされ、あとで実は最強だったと判明する、あの手のやつだ。


 だが、これは違う。


 正式名称が《ハズレスキル》なのだ。


 どういうネーミングセンスだよ!


 誰だ、これ考えた開発スタッフ!


 帰ったら企画書を突き返してやる!


 ……帰れないんだった。


「落ち着け。効果を読もう」


 運命によって定められた結果を、一度だけ外す。


 つまり、強制イベントを回避できるということだろうか。


 これは使える。


 使えるぞ。


 乙女ゲームには、一定の条件を満たすと必ず発生するイベントがある。


 出会いイベント。


 好感度上昇イベント。


 恋愛イベント。


 この世界がゲームのシナリオに従って動いているなら、それらを回避できる能力はとんでもなく強力だ。


「よし、俺の方針は決まった」


 恋愛イベントを全力で回避する。


 攻略対象に近づかない。


 好感度を上げない。


 そして平和に暮らす。


 できれば、猫でも飼って。


「完璧じゃないか」


 俺は笑った。


 そのとき、扉がノックされた。


「リリア様。お支度のお時間でございます」


 メイドの声だ。


 俺は深呼吸して立ち上がった。


「よし。とりあえず学院に行くか」


 そう呟いた瞬間、画面が切り替わった。


『メインシナリオを開始します』


『第一章:運命の出会い』


『攻略対象:第一王子レオンハルト』


『発生イベント:王子様との初めての抱擁』


「待て待て待て待て!」


 早い!


 まだゲーム開始から十分くらいしか経ってないぞ!


     ◇


 王立学院は、想像以上に立派だった。


 白亜の建物がいくつも並び、中央には巨大な噴水。その周囲には庭園が広がり、猫の彫像が至るところに置かれていた。


 この国では猫が神聖な動物とされている。


 聖猫神ミャルティア。


 世界を創造したとされる主神であり、太陽と月を前脚で転がして昼夜を作ったという、とんでもなく自由な神様だ。


 その神が、気まぐれに選んだ人間へ加護を与えることがある。


 俺が転生したリリアも、その一人だった。


 しかも千年に一人の特別な聖女。


 とんだ迷惑である。


 ちなみに王立学院は、貴族や有力者が高度な専門教育を受けるための施設で、入学資格は二十歳以上。


 攻略対象も全員成人済みだ。


 さすが十八禁ゲーム、そこは抜かりがない。


「さて……」


 俺は学院の正門で立ち止まった。


 目の前には三つの道がある。


 右は庭園。


 左は図書館。


 中央は大講堂。


 ゲームの体験版では、ここで最初の選択肢が出たはずだ。


 たしか、庭園に向かうと王子様と出会う。


 なら、庭園には行かなければいい。


「図書館だな」


 俺は迷わず左へ進んだ。


 すると。


『イベント発生地点から離脱しました』


「よし!」


『シナリオ補正を実行します』


「……ん?」


 突然、足元で何かが鳴いた。


「にゃあ」


 白い猫だった。


 小さくて、ふわふわしていて、金色の目をしている。


 俺は思わず立ち止まった。


「お前……」


 どこかで見たような気がする。


 もしかして、事故のときの猫か?


 そんなわけないよな。


 俺はしゃがみ込んだ。


「おいで」


「にゃ」


 猫が近づいてきた。


 可愛い。


 めちゃくちゃ可愛い。


 俺は手を伸ばした。


 すると猫は、するりと俺の手を避けて走り出した。


「あ、こら!」


 思わず追いかける。


 猫は植え込みを抜け、石畳の小道を走り、噴水のある庭園へ飛び込んだ。


「待てって!」


 俺も続いて庭園に入った。


 そこで、気づいた。


「……あれ?」


 庭園?


 今、庭園って言った?


 その瞬間、足元の石畳に靴先が引っかかった。


「うわっ!」


 身体が前に傾く。


 まずい。


 転ぶ。


 そう思ったときだった。


「危ない!」


 低く、よく通る声が響いた。


 そして俺の身体が、誰かの腕に抱き留められた。


 ふわりと浮くような感覚。


 見上げると、そこには金髪碧眼の美男子がいた。


 整った顔立ち。


 高貴な雰囲気。


 金糸の刺繍が施された白い礼装。


 そして、優しく微笑む口元。


「大丈夫かい、お嬢さん」


 知っている。


 俺はこいつを知っている。


 第一王子。


 レオンハルト・フォン・アルフェリス。


 年齢二十五歳。


 このゲームのメイン攻略対象である。


 ちなみにキャッチコピーは、


『君を抱きしめるためなら、僕は王冠さえ捨ててみせる』


 だった。


 馬鹿野郎。


 王冠は捨てるな。


 国民に迷惑だ。


 そんなことより。


「…………」


 俺は現在、王子様にお姫様抱っこされている。


 いや、正確には片腕で背中を支えられ、もう片方の腕で腰を抱かれている。


 顔が近い。


 近すぎる。


 王子様は俺の瞳を覗き込んだ。


「怪我はないかい?」


 待て。


 この場面、知っているぞ。


 ゲームのイベントCGだ。


 公式サイトのトップページで使用した、あの抱擁シーン!


 俺が画像のトリミング位置を修正したやつ!


 なんで俺が画像の中にいるんだよ!


『運命イベント進行中』


『レオンハルト好感度上昇条件達成』


『抱擁イベント確定』


 目の前に文字が浮かんだ。


 くそっ。


 もう遅いのか。


 いや。


 待てよ。


 俺にはスキルがある。


 《ハズレスキル》。


 運命によって定められた結果を外す能力。


 これだ!


「スキル発動!」


「……スキル?」


 王子様が不思議そうに首を傾げた。


 俺は構わず念じた。


 この抱擁を外せ!


『《ハズレスキル》発動』


『対象:王子様との初めての抱擁』


『確定結果を変更します』


 よし!


 俺は勝利を確信した。


 次の瞬間、王子様の足元に例の白猫が飛び込んできた。


「にゃあ!」


「おっと!」


 王子様が猫を踏まないように身体を捻る。


 その拍子に俺の身体が腕から滑り落ちた。


「うわあああ!」


 助かった!


 いや、落ちてる!


 地面に激突する!


 そう思った瞬間、背後から別の腕が伸びてきた。


「失礼!」


 がっしりとした腕が、俺の身体を受け止めた。


 今度は後ろから。


 背中に硬い胸板が当たる。


 見上げる。


 そこには黒髪の青年がいた。


 短く切り揃えた髪。


 鋭い灰色の瞳。


 騎士団の制服。


 俺は一瞬で理解した。


 第二攻略対象。


 王立騎士団長。


 カイル・ヴァン・グレイフォード。


 二十七歳。


『この剣は王国に。この命は、君だけに』


 っていうキャッチコピーの男だ。


「お怪我は?」


 カイルが俺を見下ろす。


 顔が近い。


 ものすごく近い。


『王子様との初めての抱擁:回避成功』


『代替イベント発生』


『騎士団長との運命の抱擁』


『カイル好感度+15』


「なんでだよおおおおお!」


 俺の叫び声が庭園に響いた。


 カイルは驚いた顔をした。


「ど、どうされました?」


「いや、違うんです!」


「何がでしょうか」


「その、俺は……じゃなくて、私は……!」


 言葉が出てこない。


 俺は慌ててカイルの腕から抜け出した。


 ところが、その動作がまずかった。


 勢い余って彼の胸元を押してしまったのだ。


「っ!」


 カイルが後ろへ一歩下がる。


 俺もバランスを崩す。


 結果。


 今度は俺のほうが、彼の胸元に飛び込む格好になった。


「…………」


「…………」


 静寂。


 そして。


『カイル好感度+5』


 やめろ。


 加算するな。


「ずいぶん積極的な方ですね」


 カイルが微笑んだ。


 普段は寡黙で冷徹な騎士団長が、主人公にだけ見せる優しい笑顔。


 宣伝素材で何度も見た。


 いわゆるギャップ萌えってやつだ。


 知っている。


 知っているが。


 俺に向けるな!


「ちょっと待ってくれないか、カイル」


 王子様が近づいてきた。


 笑っている。


 笑っているが、目が笑っていない。


「その方は、僕が先にお助けしたんだけど?」


「殿下が落としかけたところを、私が救ったのです」


「落としたわけじゃないよ。少し手が滑っただけさ」


「でしたら、今度は滑らないようお気をつけください」


「……君、今日は随分と口が達者だね」


「恐れ入ります」


 なんだ、この空気。


 男二人が火花を散らしている。


 俺を挟んで。


 いやいや。


 勘弁してくれ。


 早くも修羅場か?


 開始十分で?


 攻略対象二人と同時に遭遇しただけでこれなのか?


 俺はそっと後ずさった。


 今のうちに逃げよう。


 王子と騎士団長が睨み合っている。


 俺は気配を消すように足を動かした。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


『特殊イベント発生』


「……は?」


『攻略対象二名との同時遭遇を確認』


『隠しルート解放条件を一部達成しました』


『ハーレムルート進行度:5%』


「おい」


 俺は画面を睨んだ。


「待てよ」


『ハーレムルート進行度:6%』


「なんで増えた?」


『攻略対象二名が同時に主人公へ関心を示しています』


「知らねえよ!」


 俺は全力で走り出した。


     ◇


 その日の昼休み。


 俺は学院の図書館に隠れていた。


 王子様からは昼食の誘いが来た。


 騎士団長からは護衛の申し出が来た。


 両方断った。


 完璧だ。


 少なくとも、これ以上の好感度上昇は防げるはずだ。


「……疲れた」


 俺は図書館の机に突っ伏した。


 まったく。


 どうしてこんなことになったんだ。


 異世界転生っていうのは、もっと自由なものじゃないのか?


 チート能力で無双したり。


 美少女に囲まれたり。


 スローライフを楽しんだり。


 なんで俺だけ、男に囲まれる危険な生活を強要されているんだよ。


「はあ……」


「随分と大きなため息ですね」


「うわっ!」


 突然、耳元で声がした。


 顔を上げると、そこには銀髪の美青年が立っていた。


 長い髪を後ろで束ね、片眼鏡をかけている。


 黒いローブには銀色の刺繍。


 知的で、どこか冷たい雰囲気。


 俺は顔を見た瞬間、嫌な予感がした。


「……どちら様ですか?」


「これは失礼。私はエリオット・ヴェルナー。王宮魔導師団に所属しています」


 ほら来た!


 第三攻略対象!


 天才宮廷魔導師!


 年齢二十四歳!


『あなたという謎を、私は生涯かけて解き明かしたい』


 って、そんなキャッチコピーを俺が考えたんだよ!


 くそっ!


 なんでこいつまで出てくるんだ!


「リリア・ベルフォード様ですね?」


「ち、違います」


「……違う?」


「人違いです」


「ですが、その金髪と青い瞳は……」


「よくいる顔です」


「聖女の紋章が首元に見えますが」


「タトゥーです」


「聖女の紋章を?」


「最近、流行ってるんです」


 苦しい。


 自分でも苦しいと思う。


 しかし、エリオットは怒るどころか、なぜか楽しそうに微笑んだ。


「なるほど。面白い方ですね」


『エリオット好感度+5』


「お前ら、面白がるな!」


「お前ら?」


「あ、いえ、こちらの話です!」


 俺は立ち上がった。


 逃げよう。


 もう図書館も危険だ。


 しかし、エリオットが俺の手首を掴んだ。


「少々お待ちください」


「ひっ!」


「あなたから、とても珍しい魔力を感じます」


「いえ、普通です!」


「普通の魔力ではありません。これほど複雑な波長は初めてです」


 エリオットの瞳が輝いている。


 研究者の目だ。


 まずい。


 これは非常にまずい。


 確かエリオットルートでは、主人公の特殊な魔力を調査するという名目で、二人きりの研究室に招かれるイベントがあった。


 そこから恋愛に発展するのだ。


 知っている。


 宣伝素材にあった。


 薄暗い研究室で、エリオットが主人公を机に押しつけるようにして見つめるCG。


 俺が『研究室で二人きり、秘密の距離』という煽り文句をつけたやつだ。


 誰だ、あんな文章を考えたの。


 俺だよ!


「ぜひ、私の研究室へ来ていただけませんか?」


 来た!


 予定通りの台詞!


「嫌です!」


 即答した。


 エリオットが瞬きをする。


「……理由をお聞きしても?」


「忙しいので!」


「五分でも構いません」


「忙しいので!」


「でしたら、明日は?」


「明日も忙しいので!」


「明後日は?」


「一生忙しいので!」


 俺は手を振りほどこうとした。


 だが、意外と力が強い。


 まずい。


 このままでは強制イベントに突入してしまう。


 仕方ない。


 使うか。


 あの能力を!


「《ハズレスキル》!」


 俺は心の中で叫んだ。


 研究室への誘いを外せ!


『《ハズレスキル》発動』


『対象:魔導師の研究室への招待』


『確定結果を変更します』


 よし。


 今度こそ。


 そう思った瞬間、エリオットの片眼鏡が光った。


「……ん?」


 彼が眉を寄せた。


「これは……」


 次の瞬間、エリオットの手から魔法陣が展開した。


 青い光が広がる。


 床が輝く。


「え、ちょっと?」


「申し訳ありません! 私の魔力が……!」


「はあ?」


「暴走している!?」


 光が弾けた。


 景色が変わった。


 俺は見知らぬ部屋に立っていた。


 書棚。


 魔導具。


 巨大な机。


 そして、壁際に置かれたベッド。


 ……ベッド?


 なんで研究室にベッドがあるんだよ!


 エリオットが俺の目の前に現れた。


「……転移魔法が暴発したようですね」


「ここ、どこですか?」


「私の研究室です」


「結局来てるじゃねえか!」


 叫んだ。


 エリオットが困った顔をした。


『研究室への招待:回避成功』


『代替イベント発生』


『魔導師の研究室に二人きりで転移』


『エリオット好感度+20』


「回避成功ってなんだよ!」


 成功してない!


 全然成功してない!


 むしろ悪化してる!


 エリオットが興味深そうに俺を見つめた。


「あなたは、本当に不思議な方ですね」


「ほっといてください!」


「ぜひ、詳しく調べさせていただきたい」


「嫌です!」


「安心してください。痛いことはしません」


「そういう問題じゃない!」


 俺は研究室の扉へ走った。


 だが、ノブを回しても開かない。


「……あれ?」


「ああ。申し訳ありません」


 エリオットが微笑んだ。


「この部屋には外部からの侵入を防ぐ結界が施されています。私の魔力が不安定な間は、扉が開かないのです」


「…………」


「少し、ここでお待ちいただけますか?」


 閉じ込められた。


 イケメンと。


 二人きりで。


 しかもベッドのある部屋に。


『特殊イベント条件達成』


『密室イベント発生』


『ハーレムルート進行度:12%』


 俺は天井を仰いだ。


「神様……」


 頼む。


 誰でもいい。


 助けてくれ。


「俺、男なんですけど……」


 その呟きは、誰にも届かなかった。


 いや。


 一匹だけ、聞いていた。


     ◇


 その日の夜。


 なんとか研究室から脱出した俺は、寮の自室へ戻っていた。


 結局、エリオットの魔力は十分ほどで安定した。


 だが、その十分間で彼は俺の魔力を調べようとしたり、紅茶を淹れてくれたり、なぜか自分の好きな花の話を始めたりした。


 そして最後には、


『また、二人でお会いできることを楽しみにしています』


 などと言い出した。


 何が楽しいんだ。


 俺は一秒たりとも楽しくなかったぞ。


 それにしても。


「……おかしい」


 俺はベッドに腰かけて考え込んだ。


 《ハズレスキル》。


 運命によって定められた結果を外す能力。


 説明通りなら、確かに結果を変えることはできている。


 王子様との抱擁は回避できた。


 魔導師の研究室への招待も断れた。


 だが、その代わりに別のイベントが発生する。


 しかも、元のイベントより厄介な結果になっている。


「まるで、わざと恋愛イベントが増えるように……」


 そこまで考えたとき、窓の外で声がした。


「にゃあ」


 顔を上げる。


 窓辺に白い猫が座っていた。


 昼間の猫だ。


 いや。


 事故のときの猫にも、そっくりだった。


「……お前か」


「にゃあ」


 猫は尻尾を揺らした。


「なあ、お前、何か知ってるんじゃないか?」


「にゃ」


「俺がこの世界に来た理由とか」


「にゃあ」


「このスキルのこととか」


「にゃ」


「……喋れねえよな、そりゃ」


 俺はため息をついた。


 すると。


「いや、喋れるぞ」


「…………」


 俺は猫を見た。


 猫も俺を見た。


「今、喋った?」


「喋ったぞ」


「…………」


「驚いたか?」


「まあ、そりゃ……」


「ふふん。人間とは実に愉快な生き物よ」


 猫は得意げに胸を張った。


 そして、金色の瞳を輝かせた。


「喜ぶがよい。我こそは、この世界を創りし主神、ミャルティアである!」


「…………」


「どうした? 感動で声も出ぬか?」


「いや」


 俺は猫を指さした。


「お前、あのときの猫だろ」


「む?」


「俺が車で避けた、白い猫」


「……さて、何のことやら」


「とぼけんな!」


 猫が尻尾を振った。


「まあよい。ともかく、お前は我を助けた。その礼として、この世界で新たな人生を授けたのだ」


「勝手に?」


「うむ!」


「しかも女に?」


「うむ!」


「しかも十八禁乙女ゲームの主人公に?」


「うむ!」


 俺は猫の首根っこを掴んだ。


「ふざけんなあああああ!」


「にゃああああ! 神を雑に扱うでない!」


「なんでヒロインなんだよ! 他にいくらでも転生先あっただろ!」


「だって、お前、猫が好きであろう?」


「好きだよ!」


「この世界は猫を崇めておる!」


「だからってヒロインにする必要ねえだろ!」


「しかも美少女だぞ?」


「俺は男だ!」


「心はそのままであろう?」


「そういう問題じゃねえ!」


 猫神は俺の手から逃れると、ベッドの上に飛び乗った。


「まったく、贅沢な人間よ。せっかく千年に一人の聖女にしてやったというのに」


「俺は普通の男として暮らしたかったんだよ!」


「ふむ。ならば、なぜ男に戻らぬ?」


「……は?」


 俺は固まった。


「戻れるの?」


「うむ。条件を満たせばな」


「マジで!?」


 希望の光が見えた。


 俺は猫に詰め寄った。


「どうすればいい!?」


「それはもちろん、この世界に用意された運命を乗り越えることだ」


「運命?」


「お前の持つ《ハズレスキル》は、本来の運命を外す力。しかし、外された運命は別の結果に変わる。これは世界の理である」


「それで?」


「お前が本来の運命から完全に解放されれば、望む姿に戻る道も開かれよう」


「つまり、ゲームをクリアすればいいのか?」


「そういうことになるな」


 俺は考えた。


 ゲームをクリアする。


 なら、恋愛ルートを進めればいいのか?


 いやいや。


 それでは本末転倒だ。


「恋愛しないでクリアする方法は?」


「あるぞ」


「あるのか!」


「うむ」


 猫神は誇らしげに胸を張った。


「誰とも結ばれず、すべての恋愛イベントを回避するのだ」


「……なるほど」


 いわゆるノーマルエンド。


 乙女ゲームにはよくある。


 攻略対象の誰とも恋人にならず、主人公が自分の道を歩む結末だ。


 それならいける。


 俺の目的とも一致している。


「よし! それだ!」


 俺は拳を握った。


「全員の好感度をゼロにして、ノーマルエンドを目指す!」


「……ん?」


 猫神が首を傾げた。


「なんだ?」


「いや、お前の現在の進行状況だが……」


「何?」


 猫神が前脚を振った。


 すると、空中に半透明の画面が出現した。


『現在の攻略状況』

第一王子 レオンハルト


好感度 32 / 100




騎士団長 カイル


好感度 41 / 100




宮廷魔導師 エリオット


好感度 58 / 100




大神官 セシル


好感度 0 / 100



公爵令息 ユリウス


好感度 0 / 100




ハーレムルート進行度

12%



「…………」


 俺は画面を見つめた。


「……なあ」


「なんだ?」


「なんでエリオットが五十八もあるんだ?」


「研究者としての興味と恋愛感情が混ざっておるようだな」


「俺、あいつに何もしてないぞ!」


「むしろ拒絶されたことで、興味が深まったらしい」


「面倒くさい男だな!」


「ちなみにカイルは、お前が抱きついてきたと思っておる」


「事故だよ!」


「レオンハルトは、お前がカイルに奪われたと思っておる」


「奪われてねえよ!」


「ふむ。実に順調だ」


「何が!?」


 俺は頭を抱えた。


 ゲーム開始一日目。


 攻略対象五人のうち三人と遭遇。


 ハーレムルート進行度十二パーセント。


 この調子では一週間後にどうなっているかわからない。


「なあ、ミャルティア」


「神と呼べ」


「猫」


「せめて猫神と呼べ!」


「俺のスキル、もっと使いやすくならない?」


「ならぬ」


「即答かよ」


「そもそも《ハズレスキル》は、運命を外すだけの能力ではない」


「……え?」


 猫神は、妙に意味ありげな顔をした。


「お前はまだ気づいておらぬようだが、その能力にはもうひとつ、重要な性質がある」


「重要な性質?」


「うむ」


 猫神はゆっくりと告げた。


「外した運命は、必ず別の運命に当たるのだ」


「……つまり?」


「王子との抱擁を外せば、騎士との抱擁に当たる。魔導師の誘いを外せば、魔導師との密室に当たる」


「…………」


「お前が逃げれば逃げるほど、運命は別の形で追いかけてくるというわけだ」


「…………」


「しかも、この世界では恋愛が最も強い運命として設定されておる」


「…………」


「つまり、お前が恋愛イベントを外すたび、より強力な恋愛イベントが発生する可能性がある」


 俺は震える声で尋ねた。


「……それ、ハズレスキルじゃなくて、呪いじゃね?」


「ふふん」


「ふふん、じゃねえ!」


 猫神は満足そうに尻尾を揺らした。


「心配するな。強い運命を外し続ければ、いずれ自由になれる」


「それまでに俺の貞操がなくなるだろうが!」


「にゃはははは!」


「笑うなあああああ!」


 俺の絶叫が寮に響いた。


 そのときだった。


 扉がノックされた。


「リリア様。お手紙が届いております」


「……手紙?」


 嫌な予感しかしない。


 俺が扉を開けると、メイドが銀色の盆に三通の封筒を載せて立っていた。


「第一王子レオンハルト殿下より、明日の晩餐会へのご招待です」


「断って」


「騎士団長カイル様より、明朝の乗馬のお誘いです」


「断って!」


「宮廷魔導師エリオット様より、個人的なお茶会のお誘いです」


「全部断って!」


 メイドが困った顔をした。


「ですが……」


「ですが?」


「いずれも、すでにリリア様のご承諾をいただいたと伺っております」


「…………は?」


 俺は固まった。


「誰が?」


「リリア様が、でございます」


「いつ?」


「本日の午後に、それぞれのお使者が参られまして……」


 俺は猫神を見た。


 猫神がそっと目を逸らした。


「おい」


「……にゃ?」


「お前、何した?」


「いや、その……」


「何した!?」


 猫神は小さく咳払いした。


「お前が三人の運命を外したため、少々因果の調整が必要になってな」


「因果の調整?」


「世界が、お前の選択を補完したのだ」


「……つまり?」


「三人からの誘いを、すべて承諾したことになっておる」


「…………」


『シナリオ更新』


『第二章:三人の紳士と三つの約束』


『強制イベント発生条件を達成しました』


『翌日の予定を確認してください』

午前七時


騎士団長との早朝乗馬



午後二時


宮廷魔導師との秘密のお茶会



午後七時


第一王子との月夜の晩餐



 俺は画面を見た。


 猫を見た。


 もう一度画面を見た。


 そして、静かに呟いた。


「……有給休暇、取りたい」


「聖女に有給休暇はないぞ」


「労働基準法は!?」


「この世界にはないな」


「ブラック企業よりひでえ!」


 猫神が楽しそうに笑った。


 俺は天井を仰いだ。


 神様。


 いや、神様はそこにいるけど。


 どうかお願いします。


 俺はただ、普通に生きたいだけなんです。


 恋愛も結婚も、今は望んでいません。


 ましてや、イケメン五人に囲まれるハーレムなんて、全力でお断りです。


 どうか。


 どうか、俺に平穏な人生を!


『新たな称号を獲得しました』


「……ん?」


『称号:《逃げる花嫁》』


『効果:攻略対象から逃走した際、相手の独占欲が上昇する』


「…………」


 俺は深呼吸した。


 そして。


「このゲーム作ったやつ、出てこいやあああああ!」


 異世界の夜空に、俺の絶叫が響き渡った。


 ちなみに、このゲームの広報担当だったのは俺である。


 発売前にこんな理不尽な仕様があると知っていたら、絶対に宣伝文句を変えていた。


『あなたの運命を、五人の愛が奪い合う』


 違う。


 正しくは、こうだ。


『逃げても逃げても、五人の愛が追いかけてくる』


 ……いや、そっちのほうが売れそうだな。


 くそっ。


 広報の職業病まで治ってねえ!


     ◇


 なお、このときの俺は、まだ知らなかった。


 このゲームには、隠された六人目の攻略対象がいることを。


 そして《ハズレスキル》によって外れた運命が、いずれその人物のもとへ集まっていくことを。


 もっとも、それを知るのは、もう少し先の話である。


 今の俺にできるのは、ただひとつ。


 明日の三連続デートを、どうやって回避するか考えることだけだった。


 俺は枕を抱きしめ、決意した。


「絶対に、誰とも恋愛しないからな……!」


 窓辺の猫神が、小さく笑った。


「さて、どうなることやら」


『ハーレムルート進行度:13%』


「寝てるだけで増えるなあああああ!」

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