1/枯木の王と片耳の黒姫
一週間ほど、晴れの日が続いていた。
畑と花壇に水を撒き、鉢植えの水やりも終えたところで、ひとりのダークエルフが男の元を訪れた。
「貴殿がコノハ・ガーデナー殿――“枯木の王”――で相違ございませんか」
「ああ、俺がコノハ・ガーデナーで間違いないが、君は――」
光を弾く白銀の長髪に透き通った琥珀色の瞳、威厳と高貴さを漂わせる切れ長の目をした褐色の騎士。
完全無欠の美女と呼んでも差し支えないだろう彼女には――ただひとつ、片耳だけが欠けていた。
エルフ族はみな優美な曲線を描く尖った耳を持つ。
しかし目の前の彼女の片耳は、無残にも途中で切断されて血で染まっており、人間族より少し長い程度しか残っていなかった。
「――我が名はシルヴァリエル。我が一族の女王、シルヴァスリルの命を受け、枯木の王にお力添えを賜りたく、参上いたしました」
シルヴァリエルと名乗ったダークエルフは跪き、息も絶え絶えに言った。
その背後では、ここまで乗ってきたのであろう馬が、同じように息を荒げている。
ダークエルフの村からここまで、早馬を飛ばしても数時間はかかる。休みなしで来たのだとしたら、余程切迫した状況だ。
「話を聞かせてくれ。一体どうしたというんだ」
コノハはシルヴァリエルの側に膝をつくとポケットからハンカチを取り出し、未だ血を流し続ける右耳の止血を行う。
「――『死界樹の種子』が奪われました」
ハンカチを結びつける動きが、一瞬、止まる。
「女王からは、貴殿にこう申し上げれば、伝わると――」
「――わかった。すぐに支度をする」
今にもその場に倒れ伏しそうな彼女を置いて、家の中へと駆け出す。
いくつかのポーチが付いたベルトを腰に巻き、フードがついた外套を羽織る。戸棚から液体の入った瓶をふたつ取り出して彼女の元へ急ぐ。
「少し染みるぞ」
地面に両手をついて身体を支えている彼女の右耳に、瓶の蓋を開けて液体をかける。
「つ――あッ」
「ポーションだ。気休め程度だがないよりマシだろう。こっちは鎮痛作用のある水薬だ、飲めるか?」
シルヴァリエルが顔を上げて、小瓶に震える手を伸ばす。しかし、小瓶を取ろうとした手が空を切ってしまう。
「――許せよ」
コノハは小瓶の中身を一気にあおると、シルヴァリエルに口づけた。
「ん――っ、ふ」
彼女の顎にそっと手を添えて口を開かせ、水薬を口移しで流し込む。重なった唇の隙間から、一筋の液体が流れ落ちる。
「は――あっ」
「これで痛みも多少は治まるはずだ。ちゃんとした応急処置をしてやりたいところだが、時間がない」
コノハは手の甲で口元を拭いながら言った。
「これから転移方陣で村まで一気に飛ぶ。慣れないと少し酔うかもしれん。我慢してくれ」
「――は、はい」
左手をシルヴァリエルの背にあて、右手を地面に添える。
コノハが魔力を流すと、地面にいくつもの魔方陣がぼんやりと光を放って浮かび上がる。
「――いくぞ」
その言葉を耳にした瞬間、まるで背骨の神経を一気に引き抜かれるような奇妙な感覚がシルヴァリエルを襲った。
魔術の衝撃で混乱するシルヴァリエルの意識を、傍らの声が現実に引き戻した。
「精霊樹の森が――」
まるで太陽が落ちたかのような光を放ちながら燃えさかる木々。
あちこちから立ち上る白煙が日光を遮り、ここだけが夜になったように暗い。
「あ、あぁ――」
シルヴァリエルの口から、驚きとも悲しみともつかない声がこぼれ落ちる。
手足が壊れたように震えだし、炎の光が思考を焼き尽くす。
「エル!」「エル姉!」
村の入口付近の木陰から、ふたつの影が飛び出してくる。
座り込んだシルヴァリエルの元に飛び込んできたのは、ふたりのダークエルフだった。
「カーラ! ヘリヤ! 無事だったのね!」
「エル! エル! 無事でよかった……!」
「エル姉ぇ~!」
抱きあう三人のダークエルフを横目に、コノハは村へと歩きだして様子を伺う。
火の手は村からではなく、精霊樹の森から上がっている。
倒れ伏した村人の首元に指を当てるが、脈がない。
抱き起こして全身を調べても、どこにも傷が見当たらない。
「――――」
首元に暗く淀んだマナの残滓。
コノハはそれを指先で拭うと、拳で握り潰した。
「王よ! 女王は――」
「――森の奥にある遺跡だな?」
「は、はい!」
村の中へと進んだコノハを追って、シルヴァリエルが駆け寄ってくる。
その背後に隠れて、カーラとヘリヤと呼ばれたふたりのダークエルフが、強い警戒のまなざしをこちらへ向けていた。
「――シルヴァリエル、君はここでふたりを守っていてくれ」
「承知いたしました」
それだけ言い残すと、コノハは精霊樹の森へと全力で駆けだした。
◆
精霊樹の森の奥深くに向かう道中で、何人ものダークエルフの姿を見た。
みな一様に倒れ伏し、争った形跡がない。血が流れていないのに、死んでいる。
底なし沼に沈んだように重く淀んだマナの気配が、奥に進むほど濃くなっていく。
「――呪殺か」
呪殺の魔術を行使すると、標的に呪殺特有のマナの気配が残る。
精霊樹の森を包むマナは、その特有の気配を色濃く残していた。
遺跡の入口にたどり着いたコノハは、思わず眉間にしわを寄せた。
――ここが淀んだマナの中心だ。
鎧を身につけたダークエルフたちが何人も地に伏している。
「リル!」
その姿を目にした瞬間、自然と声が飛びだしていた。
上質なドレスを身に纏ったダークエルフの女王を抱きかかえ、全身全霊の力を以て、燃えさかる精霊樹の森の中を駆け抜ける。
「――コノハ?」
枯葉が落ちるような声色で、女王は枯木の王の名を呼んだ。
「リル! もう大丈夫だ!」
「御免なさい。こんな形で再会することになるなんて……」
女王の手が、そっと枯木の王の頬に触れる。
「――あなたはずっと、あの頃のままね」
そう言ってやさしく微笑む女王に、枯木の王は黙って奥歯を噛みしめることしかできなかった。
――そうしないと、胸の奥から溢れだしそうになる言葉を堪えることができなかった。
森を抜けて村へたどり着くと、コノハに抱かれた女王の姿を確認したシルヴァリエルたちが、急いで駆け寄ってくる。
「俺の外套を剥いで、地面に敷いてくれ」
コノハは火災の熱が届かない村の中央まで女王を運ぶと、駆け寄ってきたシルヴァリエルにそう言った。
彼女は黙って頷き、コノハの外套を脱がせて地面に敷く。
枯木の王は、まるで赤子をベッドに寝かせるようにゆっくりと、女王を外套の上に下ろした。
「――エル、エルはおりますね?」
「陛下! シルヴァリエルはここに!」
なにかを探すように持ち上げられた女王の手を、シルヴァリエルが両手で包み込む。
「枯木の王への伝令、大義でありました」
「はい、ありがとうございます。陛下」
「私の命はもう長くありません。あなたを正式に、我が一族の女王に任命します」
「そんな! お待ちください陛下!」
「本当に、よく枯木の王を呼んできてくれました……」
目を閉じたまま、一息つくように女王が微笑む。
「そこにいるのは……カーラとヘリヤかしら?」
「陛下!」「母さま!」
女王に呼ばれたふたりが、もう片方の手を取る。
「シルヴァリエルのことを、支えてあげてくださいね」
「……もちろんでございます」
「陛下! やだ! やだよ!」
ヘリヤは女王のドレスに顔をうずめて叫んだ。
「――枯木の王よ」
枯木の王はシルヴァリエルの隣に膝をつき、女王の言葉を待った。
「後のことを、任せてもいいかしら?」
「――“枯木の王”の名にかけて、確かに承った」
その言葉を聞いた女王が、目を開いて枯木の王を見つめる。
燃えさかる炎の光が、枯木の王を照らす。
「――私、貴方よりもずっとおばあちゃんになってしまったわ」
「そんなことないさ。リルはあの頃のまま、ずっと綺麗だよ」
「ふふ、お世辞でも嬉しいわ」
「昔みたいに、子守唄を歌ってあげようか」
「もう、そうやって貴方はいつも私のことを子供扱いして」
「俺の中では、リルはいつまでもあの頃のおてんば少女のままさ」
「――貴方を残してしまって、御免なさい」
「気にすることはないよ。君の好きな冒険話をたくさんお土産に持って、すぐにそっちへ行くから」
「ふふ、また夜更かしして怒られちゃうわ」
「――おやすみ、リル」
「おやすみなさい、コノハお兄ちゃん」
女王としての責務を果たした彼女は――
――ひとりの少女として、長い眠りについた。
◆
女王を見送った枯木の王は立ち上がると、燃えさかる精霊樹の森へと歩きだした。
呆然とその背中を眺めていたシルヴァリエルが、慌てて立ち上がる。
未だ精霊樹の森の火は消えず、多くの同胞が炎の中に取り残されているはず。
まだやるべきことが残っている。
「王よ――」
「――シルヴァリエル」
枯木の王は振り向かずに言った。
「君は、シルヴァスリルの傍にいてやってくれ。あいつはあれで――さみしがりだから」
シルヴァリエルには、炎に照らされた枯木の王の影しか見えない。
「……頼む」
その一言を発した一瞬だけ、王の背中がひどく小さなものに見えた気がした。
「――かしこまりました、王よ」
気づいたときには、跪いて頭を垂れていた。
「ありがとう」
枯木の王は消え入るような声で礼を述べると、燃えさかる森を前にして、両手を大地へとつけた。
爆ぜる木々の音や、火の粉を舞い上げる風の音が、次第に遠くへ消えていく。
大地が大きな地響きを立てながら揺れはじめ、シルヴァリエルたちは互いを支えるように身体を寄せ合った。
「エル! 一体なにが起こってるの!?」
「わからない、わからないけど――」
シルヴァリエルの言葉をかき消す轟音と共に大地が割れ、幾本もの木々が地中から勢いよく飛びだして燃えさかる森の木々を呑み込んでいく。
目の前で悲鳴を上げるカーラの声すらかき消す轟音を浴びながら、シルヴァリエルはじっと枯木の王の背中を見据えていた。
勢いよく地面から飛びだし続ける木々の隙間を縫って、蛇のようにうごめく木の枝がなにかを運んでくる。枯木の王はそれを受け取ると、そっと地面に寝かせていく。
それは、森の奥から運ばれてきたダークエルフたちの亡骸だった。
次々と運ばれてくる亡骸を、枯木の王はひとつひとつ丁寧に地面へと寝かせていく。その姿は“枯木の王”の異名とはほど遠いが、目の前で起きている天変地異のような魔術も、この男が引き起こしたものだ。
この男は、数百年を生きたダークエルフの女王をまるで少女のように呼び、女王はこの男を『お兄ちゃん』と呼んだ。
枯木の王と呼ばれたこの男は、間違いなく人間だ。
――それなのに、どうしても人間だとは思えなかった。
「――貴方は一体、何者なのです」
その問いは、炎の中に消えていった。
◆
精霊樹の森を襲った炎は完全に消し止められ、幾筋かの煙が立ち上るばかりであった。
森の奥から運び出された同胞たちの亡骸は、どれも傷一つなく、まるで眠っているだけのようだった。
「これから俺の魔術で、焼け焦げた精霊樹の樹皮を剥いで亡骸を納める棺を作る。シルヴァリエルたちには花を摘んできてほしい」
棺に亡骸だけじゃさみしいから、と枯木の王は言った。
「この村から真っ直ぐエルヴァン川に向かって、少し上流へ歩くとリコルっていう小さな白い花の群生地があったはずだ」
枯木の王はその異名とは裏腹に、花についても詳しかった。
カーラとヘリヤが焼け残った家の中から籠を見つけてきて、三人は村の近くを流れるエルヴァン川のほとりに向かった。
「――ねえ、エル」
「なあに、カーラ」
カーラがぽつりと疑問をこぼした。
「あの人は、一体誰なの?」
「陛下は“枯木の王”と呼んでらしたわ」
「……あの人、人間よね?」
「たぶん、そうね」
「どうして人間が魔界に住んでいるの?」
「わからないわ」
「あんなすごい魔術、初めて見たわ」
「そうね、私もよ」
「……ごめんなさい。助けてもらったのはわかってるんだけど、少し、怖いの」
「謝らなくてもいいのよ、カーラ」
言葉を交わすうちに、リコルの群生地にたどり着いた。
たくさんの小さな白い花が、風に揺れていた。
幼い頃、リコルの花を集めて陛下に花冠を作ってもらったことがあったっけ。
「――エル?」
「ごめんなさい、なんでもないわ」
いけない、私がしっかりしないと。
「さあ、日が暮れないうちに摘んでしまいましょう」
シルヴァリエルはカーラとヘリヤに声をかけると、地面にしゃがみ込んで思い出の欠片を摘みはじめた。
◆
シルヴァリエルたちが花を摘んで戻ってくると、村の西にある小高い丘から枯木の王が手を振っていた。
三人が王の下へ向かうと、そこにはたくさんの棺が整然と並べられていた。
シルヴァリエルたちは自然と三人寄り添って、ひとつずつゆっくりと、花を棺に納めてまわる。
棺に納めた花と一緒に、涙が一粒こぼれ落ちる。
シルヴァリエルが隣を見ると、カーラも、ヘリヤも、決して声は上げずにただ大粒の涙だけをぽろぽろとこぼしていた。
ふたりを抱きしめて泣き出したい気持ちを必死に抑え、三人は最後の棺に向かう。
女王の棺には、既に何輪かの花が納められていた。
シルヴァリエルたちが花を摘んでいる間に、枯木の王も花を探してきたのだろう。
女王はとても穏やかな顔で眠っていた。
シルヴァリエルたちはひとり一輪ずつ女王の棺に花を納め、最期の別れを告げる。
枯木の王は三人が棺に花を納めている間中ずっと、離れた位置で静かに見守っていた。
シルヴァリエルは遠くで見守る枯木の王に視線を送ると、なにも言わず頷いた。
それを受け取った枯木の王はゆっくりと女王の棺に近寄ると、棺を挟むようにシルヴァリエルたちの向かいに立った。
枯木の王は女王がつけていたティアラを外すと、その中央にある大きな宝石を取り外して中からなにかを取りだした。
そして宝石を元通りに戻すと、そのティアラをシルヴァリエルの頭上に被せる。
「――いと気高きスヴァルトアールヴの祖よ。これより“暗夜の女王”の座はシルヴァスリルからシルヴァリエルへと受け継がれる。彼の者に祝福を与え給え」
枯木の王は厳かにそう言うと、両手を胸の前で合わせて祈るような姿勢を取る。
すると手の隙間から淡い光が溢れ出し、王が両手を離すとその間には光の粒が浮かんでいた。
「これは――」
疑問を浮かべるよりも早く、光が形を変えていく。
上下に伸びる光から、小さなマナの脈動が聞こえる。
「嘘、そんな――」
――ダークエルフの一族は、精霊樹より産まれる。
それ故に精霊樹を一族の同胞と同じように大切にし、信仰の中心としてきた。
精霊樹はヒトの心臓に似たマナの脈動があり、精霊樹より産まれるダークエルフ族のみがその鼓動を聞くことができるという特徴があった。
――故に、その脈動を聞き間違えるはずがない。
「なんで――」
「エル姉、これ……」
シルヴァリエルだけでなく、カーラもヘリヤも、目の前の光景に驚きを隠せないでいた。
彼女たちの疑問に答えるように、光がゆっくりと収まる。
枯木の王は産まれたばかりの赤子を抱くように、精霊樹の苗木を支えていた。
「ダークエルフ族は新しい女王が即位すると、それを記念して精霊樹の苗木を植えるという風習があるんだ。本来は苗木を生みだすのは古い女王の役目だが――」
思いを込めるように、言葉を句切る。
「――暗夜の女王との盟約に従い、枯木の王が代行する」
枯木の王はゆっくりと丘の上へ向かう。
「さあ、シルヴァリエル。精霊樹の苗木を植えるのは、新しい女王の仕事だ」
シルヴァリエルが丘の上へ向かうと、既にそこには苗木を植えるための穴が掘られていた。
「――新たな女王の誕生を祝して」
枯木の王から苗木を受け取り、穴に植えて土を被せる。
「リルは、この丘から精霊樹の森を眺めるのが好きだったんだ――」
枯木の王がぽつりとこぼしたその小さな呟きを、シルヴァリエルだけが耳にすることができた。
「――枯木の王より古き暗夜の女王へ。一族の魂が迷わずスヴァルトアールヴヘイムへたどり着けるよう、どうかその魂の輝きで導き給え」
その言葉に導かれるように、生き残ったダークエルフたちが祈りを捧げる。
長く静かな祈りを終えて目を開いた彼女たちを迎えたのは、あたり一面に咲き乱れるたくさんの光の花たちだった。
「これは――」
「――リルはこの術がお気に入りでね」
一仕事終えたとばかりに、ざっくばらんな口調で枯木の王だった男は言った。
「なにかあるたびに呼び出されては花を咲かせたもんだよ。これだけ明るければスヴァルトアールヴヘイムへも迷わず行けるだろ」
そう言って男は丘の上に寝転んだ。
よく見ると棺の中にも光の花びらがいっぱいに詰まっていて、すっかり日は沈んでしまったというのに丘のあたりはまるで真昼のように明るかった。
「エル! すごいの、光の花が……!」
「エル姉! ぴっかぴかだよ!」
カーラとヘリヤがそれぞれに声を上げる。
まるでいつもと変わらぬかのようなその一瞬に、思わず涙がこぼれそうになる。
シルヴァリエルの目尻に浮かんだ涙を拭い去るように強い風が吹き、光の花弁が宵闇の中を舞い踊る。風に舞う光の欠片が、夜空の中へ溶けるように飛び去っていく。
さよなら、と言われたような気がした。
だが不思議と、さみしい、とは思わなかった。
シルヴァリエルは光が舞う丘を駆け下りてカーラとヘリヤに飛びつくと、思いっきり抱きしめた。
カーラとヘリヤもそれに応えるようにシルヴァリエルの背に手を回し、きつく抱きしめ返す。
光の花が舞う丘で、三人は産まれたばかりの赤子のように、たくさんの涙をこぼした。
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