009 猪口未桜の独白
「……悪いな、弟の為にここまでしてもらって」
電話口から、そんな懺悔が零れる。誰もいない世界で、その声だけが反響している。
「そんなことないですよ、お兄さん。おかげで、楽しくやれますから」
電話の持ち主は明るく答える。
「それに、これは彼の願い。私が手伝わないわけがないですよ」
どこか寂しげな声色を察した電話口の彼は、少しのためらいを帯びつつ、こう告げる。
「頼んだ俺が言うことでもないが、永遠には続かないと思うぞ。いつかバレる。その時、どうするか決めてるのか?」
真っ暗の世界に耳だけが光っている彼女は、「もちろん、してほしくないですけど」と前置きをしたうえで、答える。
「きっと、弟さんは私の事情や、それらすべてを知ったら―思い出したら、また死のうとするでしょう。前回はただの『退屈』でしたけど、今回は『贖罪』として、死のうとするでしょうね」
少女は回想する。
彼が失った時のことを。
あの日。よりも、もっと昔。
初めて失った日を。
少女は想像する。
彼が再び手に入れた時を。
1回目に失ったもの、2回目に失ったもの。
そのすべてを手に入れた時を。
「最悪の場合は、心中ですかね」
それでも彼女は笑ってみせた。
「もちろん、そうはさせないつもりですよ。大好きな十哉君を、失うわけにはいきませんから」
電話口の彼は、その逞しい宣言を聞いて「ならいいんだ」と安堵する。
「本当に君は頼りになるな。あいつもここまで想ってくれる人がいて、幸せだろうな。本当にありがとう」
その言葉を残して、彼は電話を切った。
「……ふぅ」
電話を終えた彼女の頬には、涙が優しくゆっくりと伝っていった。
「……違うんです、本当は」
少女は後悔する。
あの日のことを。
名乗り出たあの日を。
「……私は、そんな人間じゃないのです。優しくて、信頼できるような、聖人みたいな人間ではないのです。もっとずるくて、もっと悪い人間なのです」
少女は懺悔する。
「確かに、苦しむ弟君を助けたいという思いはありました。その思いに間違いはありません。しかし、私は」
涙は留まることなく流れ落ちる。
響き渡る孤独世界。
生き辛く、世知辛い世界。
「他に、思いがあったのです。忘れられない、曲げられない、たった一つの思いが。もう演技するのにも限界が来ています」
逡巡する。
1回目の事件の、その昔のことを。
「私は、あの時間が、空間が大好きでした」
その昔、彼女らは部活動を共に行っていた。
『芸術同好会』。
音楽、美術、映像など、活動内容は多岐にわたるが、そのほとんどは先生たちの雑用係みたいなものだった。
時に学校のポスター作り。時に学校の紹介動画制作。他にも、文化祭盛り上げ担当、校庭の草取り、荷物運びなど。
それらを彼らは進んで行っていた。もはや慈善活動部と名称を変えようとしたこともあったが、うてなの「人助けも、ある種芸術みたいなものじゃないですか」という熱い要望でこのままにしていた。
「後輩のうてなちゃん、明奈ちゃん。まどか先生、同級生の十哉君、そして、先輩のあなたがいた」
その日、十哉と彼女は同じ帰り道を歩いていた。頭上に広がるオレンジ色の空を見上げながら、途方もない道を、ゆっくりと歩いていた。
テストの結果や、友達の話。うざい先生や、新しく出来たケーキ屋の話。
盛り上がる話は尽きず、永遠に続くものだと思っていた。
そんな時、足元に何かが転がっていた。結局それが何なのか、彼女は分からないままだった。
形状は注射器のような代物で、透明なプラスチックでできており、ピストン部分と視認できるかどうか暗いの細い針がついていた。
それを拾うと、彼はすかさず彼女の手からそれを奪い取った。
その拍子、彼の指にそれは刺さった。
それが、悪夢の始まりだった。
「どうしたらいいか、私にはわかりませんでした。だから、彼の願いを叶えるしかなかった。たとえそれが、自分の心とは全く逆のところにあったとしても。それが、償いだと思いました」
全能を失い。
全知を失う前に、彼は彼女にお願いをした。
『僕の彼女になってくれませんか?』
全てを手に入れた彼の、それが唯一の願いだった。
彼は、意中の女性を射止めることができなかったのだ。それは、彼女も全知を手に入れて知った。
「本当に、わからないのです。あなたに何をしたら、私はおそばにいられるのでしょうか」
彼女は葛藤する。苦悶する。苦悩する。考えて、悩んで、迷って、泣いて。その先に何も見えないことに、絶望する。
「見つけたっ!」
世界が破けるおと共に、彼の声が聞こえた。
望んでいたとは言い難い、彼の声が。
「心配したんですよ?」
元同級生の、丁寧語。
複雑な思いを抱えて、彼女は立ち上がる。
「ごめんごめん。ちょっと、はしゃぎすぎて倒れちゃった」
繕い、隠す。
「みんなで、鍋パーティーすることになったんです。よかったら、一緒にどうですか?」
彼女は笑う。
それはあの人に見せる笑顔と、全く同じだった。
「行こう」
少し歩いて、彼は唐突に問いかける。
「そういえば、殺界を見ましたか?」
「いいや、見てない」
殺界を誘い出したのは、確実にバトル展開になると予想した彼女自身である。
『孤独世界』『直感世界』『反響世界』『水賊世界』。これ以上出て来れば、ブレーカーが落ちてしまう。
それを伝えるのは、また今度にしよう。
それどころじゃない、猪口未桜であった。




