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君に贈る最後の物語、最後の一輪に愛を込めて  作者: R×Y (Yazid)
第一章 出会いを紡ぐ物語
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最後の一輪

その日、彼は一輪の赤い薔薇を持って、ある場所を訪れていた。


 秋の風が、木々の葉を静かに揺らしている。


 空はよく晴れていた。雲ひとつない青空は、まるで何事もなかったかのように広がっている。


 彼はその空を見上げ、少しだけ目を細めた。


「……いい天気だね」


 返事はない。


 それでも彼は、困ったように微笑んだ。


「こういう日は、君ならきっと、どこかへ出かけたがったんだろうな」


 手にした薔薇を、そっと供える。


 赤い花弁は、秋の柔らかな光を受けていた。


 彼はその場にしゃがみ込み、しばらく何も言わずに花を眺めていた。


 かつての彼なら、この沈黙に耐えられなかったかもしれない。


 何かを話さなければ。

 何かを伝えなければ。

 そうしなければ、大切なものが本当に失われてしまうような気がして。


 けれど、今は違った。


 言葉にできない気持ちがあることを、彼は知っていた。


 どれほど言葉を尽くしても届かない想いがあることも。


 そして、言葉にできなかった想いでさえ、誰かの心に残り続けることがあるのだということも。


「今日はね、新しい話を持ってきたんだ」


 彼は鞄から一冊のノートを取り出した。


 何度も書き直された跡のある、使い古されたノートだった。


 その表紙には、まだタイトルが書かれていない。


「まだ誰にも読ませていないんだ。編集者にも、友達にもね」


 彼はノートを開き、最初のページを見つめた。


 そこには、一人の少年と、一人の少女の物語が記されていた。


 少年は、悲しい物語を書くことが得意だった。


 誰かの涙を想像することができた。

 誰かの孤独に寄り添うこともできた。

 物語の登場人物が抱える痛みを、自分自身のことのように感じることさえできた。


 けれど、彼自身の幸せについては、何も知らなかった。


 幸せとは何なのか。


 誰かを好きになるとは、どういうことなのか。


 大切な人が隣にいるということが、どれほどかけがえのないことなのか。


 少年は、それをまだ知らなかった。


「……不思議だよね」


 彼は小さく笑った。


「昔の僕は、幸せな結末を書くのが苦手だったんだ。登場人物が幸せになる理由を、どうしても見つけられなかった」


 ページの端を、風がそっとめくった。


 彼はそれを押さえながら、懐かしそうに目を伏せた。


「でも、今は少しだけ分かる気がする」


 幸せは、必ずしも大きな出来事から生まれるわけではない。


 誰かと並んで歩くこと。


 くだらないことで笑い合うこと。


 喧嘩をして、仲直りをすること。


 何気ない言葉に傷つき、それでも相手のことを理解しようとすること。


 明日も会えると、当たり前のように信じられること。


 そんな、誰もが見過ごしてしまいそうな日々の中にこそ、失いたくないものが隠れている。


 彼は、それを知った。


 知ってしまったのだ。


 だからこそ、今でも思い出すことがある。


 初めて誰かの言葉に腹を立てた日のこと。


 初めて、自分の書いた物語を否定された日のこと。


 誰かの前では平気なふりをして、ひとりになった途端、涙をこぼした日のこと。


 そして、自分の書く物語を変えてしまった、一人の少女のことを。


「ねえ」


 彼は顔を上げた。


「もし、あのときの僕が、もう少しだけ素直だったら……何か変わっていたのかな」


 問いかけた声は、風に溶けていった。


 答えは分からない。


 過去に戻ることはできないし、失われた時間を取り戻すこともできない。


 どれだけ後悔しても、あの日々をもう一度やり直すことはできないのだ。


 それでも。


 彼はノートを閉じなかった。


 物語を書くことを、やめなかった。


 悲しい結末しか知らなかった少年は、いつしか、幸せな結末を願うようになった。


 そして今も、誰かの心に届くことを信じて、言葉を紡いでいる。


「今度の主人公は、ちゃんと幸せになるんだ」


 彼は、少し照れくさそうに笑った。


「もちろん、簡単にはいかないけどね。たくさん悩むし、きっと何度も間違える。でも……最後には、自分の幸せを諦めないでほしいんだ」


 彼は再び、供えられた赤い薔薇に目を向けた。


 その花を見つめる瞳は、穏やかだった。


 悲しみが消えたわけではない。


 寂しさを忘れたわけでもない。


 ただ、それらと共に生きる方法を、彼は少しずつ覚えてきたのだ。


 悲しいことがあったからといって、その後の人生まで悲しみだけで満たす必要はない。


 失ったものがあるからといって、これから出会うものまで手放す必要はない。


 そんな当たり前のことを、彼は長い時間をかけて知った。


「また来るよ」


 彼は立ち上がり、ノートを鞄にしまった。


「次は、もう少し面白い話を持ってくる。君が笑ってくれるような話をね」


 そう言ってから、彼は少しだけ言葉を止めた。


 そして、誰にも聞こえないほど静かな声で付け加えた。


「……だから、もう少しだけ待っていて」


 秋風が吹き抜ける。


 赤い薔薇が、かすかに揺れた。


 彼は最後にもう一度だけ振り返り、そこに向かって微笑んだ。


 かつての彼は、悲しみを知らなければ物語を書けないと思っていた。


 けれど、今なら分かる。


 悲しみを知ることと、悲しみだけを描くことは違う。


 誰かを失う痛みを知ったからこそ、誰かと過ごせる時間の尊さを描くことができる。


 涙を流したことがあるからこそ、笑顔の意味を知ることができる。


 そして、たとえ物語が終わったとしても、そこで生まれた想いまで消えてしまうわけではないのだ。


 彼は歩き始めた。


 背中に差す陽の光は、思っていたよりも暖かかった。


 これは、一人の少年が書いた物語。


 悲しみばかりを書いていた少年が、一人の少女と出会い、恋を知り、幸せを知り、そして自分自身の人生を歩いていく物語。


 いつか訪れる別れを、まだ知らなかった頃の物語。


 たった一輪の赤い薔薇に、言葉にできなかった愛を込めるまでの物語。


 ――すべては、彼がまだ高校三年生だった、あの春から始まった。

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