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7-夜を閉じ込めた声

 医者が帰り、冬馬が部屋に戻っても、あの香りが喉奥にへばりついていた。


遥のヒートは、抑制剤でわずかに鈍らされているだけ。

だが、空気にはっきりと混じっていた。

Ωがαを求めるときだけに生まれる、あの甘く湿った匂い。


「……まだ、耐えられる」


そう言いながらシャツの襟を引きちぎるように外し、冷水を首筋に当てる。

呼吸が浅い。

平常心を装っていたが、遥の身体が自分に反応していたことを、冬馬は肌で感じていた。


ほんの一瞬。

彼の腕を支えたとき――


細い指が、自分の手にそっとすがるように重なった。

それは拒絶でも拒否でもない、どこか、懇願に似た温度だった。


(“抗えないんだ”って、言ってたな)


抗えないのはどっちだ?

彼のほうか、自分のほうか。


ベッドに入っても、目は冴えるばかりだった。

耳の奥に、遥の声がこびりついていた。


「俺の身体は、まだ……お前の匂いに抗えないんだ……!」


そのとき、遥は涙をこぼしそうになっていた。

悔しさか、羞恥か、それとも――


冬馬は天井を見つめた。

視界がぐにゃりと歪む。理性が、皮膚の裏でひび割れている。


(本能なんか、くだらない)


それが政治家としての信条だった。

番制度なんて、制度であって真実じゃない。

けれど――


(もし、俺の香りが、彼の身体を壊してしまったら)


その一文だけが、ぐるぐると回っていた。


この家は契約のために用意された舞台。

だが、ふたりの間にあるのはただの嘘か?


遥の肌に、あの日と同じ香りがした。

それは記憶ではない。本能の記録だ。


冬馬は静かにベッドを出た。

そしてリビングの扉の前で、足を止めた。


ドアの向こうから、呻くような息が聞こえる。


手を伸ばすだけで救えるかもしれない。

だが――


(違う)


それは助けではなく、侵略になる。


手を引っ込め、壁に額を当てる。

冷たい静寂だけが、自分の理性をつなぎとめてくれていた。


夜が明けるまで、

冬馬は一度もベッドに戻らなかった。


ただ、リビングと自室の間の廊下で、

誰のための“抗い”だったのか分からないまま、

痛みを伴う夜を、ひとりで抱えていた。

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