8-自分だけの記憶
朝が来たことに遥が気づいたのは、カーテン越しの光ではなく、身体の奥の痛みだった。
ヒートのピークは過ぎたらしい。
それでも熱の名残は残り、身体が重く、頭がぼんやりしている。
「……夢、じゃなかったか」
昨夜、自分の声は確かに震えていた。
冬馬に手を取られて、その温度に、すがるように力が入ってしまった。
本能が、勝手に“彼を番と認識している”だけ。
それは分かっている。
なのに、あのとき――
「行かないで」と、喉まで出かけた言葉を、どうしても飲み込めなかった。
遥は、ゆっくりとベッドから身を起こす。
身体は汗で湿っていて、冷たい空気に触れた途端、肌がひりついた。
ふらつく足取りでリビングへ出ると、そこに冬馬の姿はなかった。
(……部屋にもいない)
廊下を歩いた形跡だけが、わずかに残っている。
床の冷たさに、足裏がぴくりと反応した。
「――そうだよね。来るわけ、ないよな」
自嘲のように呟いて、キッチンへ向かう。
コップに水を注ぎ、ぬるくなったそれを一息に飲み干す。
喉の奥にまだ、彼の香りの残像がへばりついていた。
欲しかったのは、ぬくもりじゃない。
ただ、思い出されたかっただけだ。
あの夜のことを。
自分だけの記憶じゃないと、知りたかった。
だが冬馬の目には、何も宿っていなかった。
優しさも、戸惑いも、あった。
でも――懐かしさだけが、なかった。
遥は、テーブルにあったメモに気づく。
「朝食は無理しなくていい。薬が足りなければ言ってくれ。柏木」
無機質な文面。丁寧で、気遣っていて、でも心には触れてこない文字。
(やっぱり覚えてないんだ)
カップを手に取った指が、少しだけ震えた。
「俺だけが……記憶してるんだな」
その朝、遥はコーヒーに口をつけることなく、
冷えたカップのまま、ソファに背を預けて目を閉じた。
そしてもう一度、あの夜の夢を見る。
今度は、自分から彼に触れた夢だった。
本当にはなり得ない、それでも温かい、あり得たかもしれない過去の夢。




