第一部 第七章 こころ
肉眼では見えないヒスイ色の小さな粒子が東京湾一帯の空気を埋め尽くしていた。 特に木から北東部、つまり千葉県側の方がその密度は濃いようだった。 風向きがそっちの方だったこともあるが、本来なら青いはずの空がほんのり緑色のカスミがかかっているように見えた。
そのヒスイ色の粒子はその巨大な木の枝枝にあるふっくらとした花のつぼみの先からちょろちょろとこぼれだしていた。 それが風に乗り、東京湾の中の空気を埋め尽くし、その時は北東の風に乗ってその方角にある都市に届いていた。 もっともそれがそこに住んでいる人間に直接影響を与えていたわけでない。 第一人間の目にも見えないのだから誰もその存在に気が付いていなかった。
それでもその粒子の届いている地域の海岸線には何人もの人々が着のみ着ままで続々と集まってきていた。 どの人も何かにとりつかれたような雰囲気をしていたが、そうではなかった。 何かに憧れているか強い思いを抱いていると言った方がいいだろう。 彼らの目は何かを欲してリンリンと輝いていた。 加えて口の中にたまり続ける唾液を皆しきりに飲み込んでいた。 それと同時に鼻を時折ひくひくさせ、大きく息を何度も吸い込んだ。 どうやら息を吸い込むたびに唾液がもっと出るようだった。 中には口元からよだれが流しだしているものも何人もいたが、それをわざわざふき取るようなこともせず、そのまま垂れ流しのままにしていた。
お昼近く太陽が木のちょうど真上に来る頃には木々のつぼみはその膨らみをさらに増し、そこからこぼれだす粒子の量もそれに応じて増えていた。 風向きは相変わらず北東だったが、風に乗った粒子は都市の上空につくと上昇し、そしていたるところに散り去った。 そのうちに東京湾中の空気は粒子で満ちて、そして湾沿いのどの場所にも粒子が届きだした。
日の光の中でその粒子は分裂を繰り返し、その数は二倍、三倍と永遠に分裂を続けていった。 一つ一つがぽっとはじけるように分裂し、そしてはじけて分裂した粒子は日の光を受け腫れあがるように膨れ、そしてシャボン玉のようにポンと割れ、はじけた。 そして割れるたびにヒスイ色の光を放った。 それはやはり人間の目には映らないレベルであったが、もしそれが見えたなら人々はその美しさに心を奪われたであろう。 実際、空全体の緑色の濃さが変わるまでにそう時間はかからなかった。
昼過ぎには誰の目にもわかるほど東京湾上空とその近郊の空の色がはっきりと変わっていた。
ただし、その色が人々を引き付けているわけではなかった。
例の人々が集まっている公園にはリスが数匹ちょろちょろしていた。 人慣れたリスたちは雪崩のように集まってくる人たちの群れにも構わず、鼻をひくひくさせ、そこらじゅうを嗅ぎまわり、木に登ったり下りたりを繰り返していた。
ところが時折そのリスたちも立ち止まってはなぜか木の方向を向き、鼻をひくひくさせ、コンクリートで固められた公園の水際まで行くとそこをどうやって下りたらいいのか、試行錯誤し、あきらめてはまた木の方まで登り、公園の木のてっぺんまで上り詰め、なんとか東京湾の中心にそびえたつ木の方へいけないものかあらゆる努力をしていた。
リスたちはしばらく水際と公園の木を行ったり来たりしていたが、どうにも近づけないことがわかると、こんどは海岸線に沿って走り始めた。 少し走っては止まって、立ち上がり、木の方向を向いて鼻をひくひくさせ、また少し走る。 そして止まる、匂いを嗅ぐ。 それをなんども繰り返して、いつの間にか公園からはリスの姿は見えないほどだった。
そこで待っている人々はそういったことはせず、ただただその巨大な木を羨望の目で眺めていた。
ただし、それも長くは続かなかった。