60話 一対の音叉
何も無い白い箱型の空間。そこは既に籠の中だった。神谷 鏡という存在は最早看過できない、そういった誰かの意図がある。それを本人へと告げるのは道化の創術者だ。
『ようやく気が付いたようだな神谷、学園祭の間はここで大人しくしといてもらいたいんだが』
「はい分かりましたなんて言うと思うか?――」
異能の篭手が斬撃を飛ばす。電子データに過ぎない檻などその機能を発揮する事は不可能と言える。だが天剣第六星によってその真実は歪みを起こした。切り裂かれたはずの空間の輪郭が激しく揺らめき、世界の裏側を覗く事を拒む。
(空間が切れない?創術じゃないのか?いや……どちらにせよ電子データだ。それを異能神装で切れないはずがない)
『シャドウ研究会がじきに学園に潜伏してくる。あんたに暴れられると予定が狂っちまうんだわ……大人しくしとけよ』
相も変わらず声だけのクラヴィスに神谷は怪訝な顔付きのまま思考した。過去に見た道化の想像からその特質の分析を行う。蜃気楼のように姿を眩ませたその特質を。
(土屋と似たような幻覚か……?いや、何か本質が違う気がする。クラヴィスと長期戦は危険だ……!)
その危機感は強い焦りとなって思考を阻害した。彼にとって初めてだったのだ。敵対しているはずの相手から何も得ることが出来ないことなど。なんの宛もなく力任せに異能の力を振るってもなお、打開策となるきっかけは何も生まれはしなかった。
当然ながら先程と同様に飛来させた斬撃は何かを切り裂いたことは間違いない。だがそれもまた何も意味を生み出さない。籠の壁を破壊する目的で振るわれたにも関わらず、そこは大気の狭間が曖昧に揺らめくだけで元の形を成す。
「……本当にめんどくさい奴だな、お前」
「褒め言葉として受け取っておこうか?」
反応を示したクラヴィスがようやくその姿を現した。純白のブレザーと斜めに取り付けた狐の面、両手をポケットに入れた道化が不敵に笑う。そしてその表情は神谷へと一つの事実を与えた。
「異能相手と接敵経験もあるみたいだな、第六星」
「異能ってなんだよ?全然知らねぇや――」
複数の薬莢をぶちまけたかのような連なった金属音が。それは神谷の異能と揺らめく大気の奏でる音。部屋を壊せないと悟ったが故にクラヴィス本体を狙撃するも、狐の面の頭上にある『蒼天級』の文字が空を舞う。
「無駄だよ。ここは既にお前の土俵じゃない」
「知ったことか……!あの小さい女の子が『収束機』だろ!お前もシャドウ研究会の回し者か!」
「だったらどうする?他人の願いがなければ何も出来ない空っぽのお前が、俺にどう対抗するんだよ」
「っ……」
空っぽのお前。それは当人が最も理解していた。直結命令の全ては例外なく生命の意味に触れ、死と正しく向き合った者にこそ訪れる。そして異能には当人だけの心象が具現化されるのだ。
神谷はシルフィーのように派手な性質を持ち得ていない。龍奈のように曲がりくねる弾丸を撃つこともできない。一人になってしまえば出来ることなどただの武器強化のみ。そして今はそれさえも得体の知れない何かには通用しない。
「ボスは異能を知らなかったから遊べたかもな。直結者と言えど、生憎加速した思考の中で見えるのは自分自身の無様に敗北する姿だけなんだわ――」
「――っ」
腹部に鋭く、冷たい感覚が滑り込んだ。離れた位置で上空に飛び退いたはずのクラヴィスの輪郭が揺れ、突如目の前にその体と手に握られた剣が映る。刀身は腹部にかけて橋をかけ、電創世界から現実の脳へと痛みの逆流データが駆け巡った。
「うぁ……っ!なん……っで……っ」
「創術をただの電子データ、そう思い込んでたのがお前の敗因だよ。選べ、言うことを聞いて大人しくしとくか……物理的に大人しくさせられるか、どっちが良い」
引き抜かれた剣と共に神谷の膝から一瞬だけ力が抜けた。腹部に手をあてがい、苦悶の表情は痛みを耐えようとするものだ。二者択一、それは生と死。殺されて無力化されるのか、はたまた降参して幽閉されるのか――
「どっちもごめんだ……!」
「賢く生きろよ、バカが」
異能を通して振るわれた刃、クラヴィスは手にしていたままの剣でそれを受け止める。響く金属の衝突音、異能をまとった剣撃が両者を中心に大気を揺らす。拮抗した刀身と刀身を間に、クラヴィスと視線が交わる。
「あの女の子をどうするつもりだ……!」
「知ってどうする、いい加減すっこんでろ。お前には関係ないことだろ」
「ヒジリからの指令はいつも同じだ!!誰かの命が失われる……!それを防ぐためのものなんだよ!!簡単に命を見捨てることなんて……っ!」
「偽善だな。さっき言っただろ、神谷……お前は空っぽなんだよ。その綺麗事も全部、フィネアの真似事だ」
「っ……」
「何も無いからフィネアの真似をした、そこにお前という意思はない。錆び付いた願いで他人の想いを踏みにじるな……お前の行動一つで世界は崩壊する。だから大人しく寝てろ――」
その瞬間、神谷は僅かながらにクラヴィスの人間性が垣間見えた気がした。嘘吐き、そう彼の事を評した天剣第一星の言葉も同時に思い出す。既にここは彼の土俵なのだ。
嘘吐きの想像とは何か。嘘とは真実と表裏一体であり、他者に偽りの真実を刷り込む事こそが嘘の本質である。それを成すには決して消えることの無い本当の真実が必要なことも嘘の本質だ。
すなわち、神谷にとって今見聞きしている全てが偽りの真実なのだと。
「神谷!!」
銀色の髪の少女が嘘で構築された空間を切り裂き、歪んだ空間からは世界の裏側を覗かせた。術者の呪縛から開放された神谷は驚きのあまり目を見開く事態に。仲間の登場もさることながら、初めからその空間にクラヴィスなどいなかったのだから。
「シルフィー……?どうしてここに……」
「ヒジリから……っ神谷が危ないって……聞いて…走ってきた……」
心配そうに息を荒げる少女を前に、神谷は自身の腹部に手をあてがった。そこに傷はなく、幻覚と言うにはあまりにリアル過ぎた戦闘光景と痛みを思い出す。
(全部幻覚……?いや違う、そんなちゃちな力じゃなかった。嘘吐きの想像とは一体なんだ?)
「神谷……?」
「あ、あぁ……大丈夫だ。助かったよシルフィー、ありがとう」
「ん……」
微笑混じりに微笑むシルフィーへと微笑み返し、この空間へと押し込んだクラヴィスの意図を探る。そしてこれまでの行動を一貫し、どこからが本当でどこから嘘を混ぜられていたのかを。
(リリシアと名乗る学者は本物だろうか)
「神谷……学園祭に乗じて…シャドウ研究会が……紛れ込んでるって……」
「あぁ……シルフィーはリリシアっていう学者を知っているか?」
「……施設にいた頃に…そんな名札を付けた人を見たことがある気がする」
「黒いロングの色っぽい女なんだが」
「多分、いた……と思う。それがどうしたの?」
「そうか……ついさっきそいつと顔を合わしてな、ただの事実確認だ。少し混乱してるから……整理したら話すよ」
そう言った神谷だったが心の中は穏やかではなかった。得体の知れない力を前に踊らされた事、そして何よりもその空間の中で心中を見透かされた事に雑念が混じる。
皮肉なことにクラヴィスから言われたことによって思い出してしまったのだ。過去から自分は何も変わっていないと、今も昔も自身の中は何もない空っぽのままだったと。
(異能には心象が宿る……そんなことはシルフィーとの一件で分かりきっている事だ。だが俺の異能には俺だけの特質となるものが存在しない)
触れた相手の異能、その特質を返す。他者の異能を複製する。武具の性能強化。どれを取っても他力本願であり、無力な自分自身を現しているようだと神谷は感じていた。フィネアと出会った頃となんら変わりない。空虚だった過去の自分が蘇る。
『あんたに何が分かるんだよ!!強さも……!人望も…!権力も……!全部持ってるあんたに俺の何が分かる!!俺には何もない……!でもあんたに少しでも追いつきたくて……!努力した結果がこれだ!!』
彼は無力だった。
『何やってんだよ……?フィネア……?フィネア!!なんで……なんで創術が使えない……っ!なんで!!早くしないと……!フィネアが……!』
当時の少年は戦うことでしか存在価値の証明を出来なかった。両親の顔など覚えておらず、残っていたものはとある部隊の使い捨ての戦闘兵としての記憶だけ。
『離せよ!!終!早く行かないと……!このままじゃフィネアが!!』
過去の少年が走っていれば神の死を否定出来ただろうか。自らの命を鑑みてそれを静止する親友の手を振り払えば未来を変えたことは出来たのだろうか。
否、答えは同じだ。少年は無力であり、異能に目覚めてもなお、そこには何もありはしなかったのだから。他者を見ることしかできない無力な傍観者、それこそが神谷本人が決めつけた己の価値だった。
(蒼白の篭手を手にしてから勘違いしていた……俺には何かを変える力なんてないんだ。俺の正義感も結局はフィネアの借り物に過ぎない……一体なんのために戦って――)
借り物の正義感と贋作の力、そこに神谷本人が己の矜恃を、戦う理由を見失いそうになっていた。なぜ人助けをするのか、なぜ失う命に固執するのか、クラヴィスの言うようにそんなものはただの偽善ではないのかと。
どれほど自らの心を客観視しようとそこには何も無い。あるのはただ他者を映し出す鏡のような心象だけ。答えのない砂漠のような心へと一粒の祈りが手を差し伸べる。
「神谷」
「っ……」
どこか緊張した様子のシルフィーが神谷の篭手を握った。神装は例外を除いて触れた者へと拒絶反応を示す。だが神谷のそれはシルフィーにとっては背中を押してくれるものであり、危険を犯しても手を取る価値がある行いでもあった。
「何を考えているのか分からないけど……神谷は優しい人だよ。私はここにいるって教えてくれる……生きてていいんだって背中を押してくれる……そんな神谷だから今度は私を頼って欲しい。何があったのかなんて分からないけど、辛いことがあったなら話して欲しい……一人じゃ太刀打ち出来ないことがあったなら私を頼って欲しい。神谷になら……私は私を預けたって良いよ」
己の空虚な心を埋めるように蒼白の篭手が白く光る。ほんのりと暖かな白光と共に熱い感情が流れ込んだ。両者で共に握るように二本目の音叉が形を成し、それを見た神谷が笑う。
「……今度は俺が慰められるとはな。やろうシルフィー、二人でシャドウ研究会の尻尾を掴むぞ」
「うん……」
学園祭の開始と共にその舞台の裏側の物語も幕を上げた。世界最高峰の学び舎、その祭りに隠された真実を目指して二人は動く。白い檻を切り裂き、電創世界の裏側へと身を乗り出して。




