ナイショの話 其の八
一
表参道のカフェで会った嘉一郎君は、数ヶ月前と全く変わっていませんでした。颯爽としていて都会の洗練された空気が服を着ているようなそんな感じ。
唯一新鮮だったのは、スーツ姿で彼が現れたことです。
不覚にも見とれて、不躾な小娘に映ったと思います。
「セーラー服、似合ってますよ」
逆に彼に誉められて、もじもじとうつむくしかできない私でした。
用件を途切れ途切れに切り出すと、彼は乗り気ではないようでした。
「残念ですが、僕は力になれそうになりませんね。受験も僕の不手際がたたったわけですし」
「そんなことはありません!」
喧噪を離れた静かなカフェで、私は声を張り上げました。はしたない真似を恥じてうつむきます。
「……、送っていきましょう」
それが彼の返事の全てだと思いました。
彼はその時、黒い国産車に乗っていて私は助手席に座りました。
嘉一郎君は車に乗り込んですぐ、私の手を握りました。指と指が絡み合うような濃密な接触です。
密室な上、不意打ちで逃げる暇もありません。
そして、会えて嬉しかったことを訥々と私に伝えてきました。さっきは、人前で大っぴらに振る舞うのが恥ずかしかったと言うのです。
可愛いじゃねえか、この野郎。
しおらしいことを言って誘惑するのは、こいつの常套手段でしたが、世間知らずの私は感づく余裕などあるはずもなく有頂天になり、身を委ねてしまいました。
肩を押さえられ、唇を奪われました。
車外では人の往来がありましたが、もう世界はこの車内に限定されたようなものでした。
これが私の欲しかったものだったんだ。
初めてのキスは私の好きなカフェインの味がしました。
二
「西野? おーい」
私は学校の教室で惚けた顔で座っていました。幸彦君に、声をかけられて我に返りました。
「あ、え? 何?」
教室には私と幸彦君しかいません。窓には、米粒のような雨がへばりついています。
「帰ろうよ」
私は、何であんたなんかとと、突っかかりそうになってやめました。
先週、私の家でゲームをする約束をしたのを忘れていました。正直めんどくさい。
でも表情には出さずに、鞄を持ちました。
別々の傘で、校舎を出ました。
幸彦君は、私の家をおのぼりさんのように眺めていました。
そういえば、嘉一郎君以外の男を家に上げるのは初めてでした。
部屋に入ると緊張したのかしばらく所在なさげに突っ立っており、私が座るように促すと正座していました。
部屋でゲームを始めましたが、私はゲームに対する興味を失いつつありました。
何故なら嘉一郎君のことで頭が占められていたからです。
今度の日曜、お父さんに挨拶に伺うからと、彼は言いました。
深い意味はないでしょうけど、私は明後日、彼が訪れるのが待ち遠しくてなりませんでした。
「西野、具合悪いの?」
口数の少ない私を気遣ったのでしょうけど、余計なお世話としか感じませんでした。
何でもないよと笑顔で流して、またゲームを再開しました。
彼は正座に組むのが辛くなったのか足を崩していました。些細な変化でしたが、気が散ります。格闘ゲームをしていましたが、私のストレート負けでした。
「あーん、強ーい」
私はコントローラーを放り投げました。これでお開きになることを期待したのは否定できません。
「西野、あのさ」
「ん? なーに」
私は寝ころんで自分の右手の爪を光にかざしていました。すると幸彦君が私の反対の手をぎゅっと握ってきました。嫌悪より驚きの方が強かったです。
「え、駄目だよ駄目」
「……、ごめん、でも」
でも、って、この期に及んで弱気なので腹が立ちます。私はちょっと困った顔をして、彼に語りかけました。
「未来ちゃんは? どうするの」
「別れる」
無理だと私にはわかります。彼は結局何も自分で決められません。今の展開も流れで押し通せそうだからしてるだけでしょ。馬鹿にすんじゃねえ。
「やめようよ。私、未来ちゃんと幸彦君お似合いだと思うな。二人とは仲良くしたいし。友達でいようよ、ね?」
彼も納得してくれたようで、退いてくれました。
それから幸彦君は、私のことが好きだと言ってくれて、ずっと気になっていたと告げました。
ちょっと夏にからかったことが、ボディーブローみたいに効いてきたみたいです。
それはさておき私は手元にあった美術書を広げ、アルフォンスミュシャの展覧会が近くで開催されていることを思い出しました。今度は自分から誘ってみようと決めたのです。
「ねえ、これから時間ある?」
日曜の午後、私と嘉一郎君は自宅の階段下で密着していました。人目につかないスリルを味わうためです。
彼は紳士然としながらも、私の体を触る手つきは以前と比べて情熱的で、私の魂と体をつなぎ止めるような安心感がありました。
「少しなら時間が取れますが」
「絵を観に行きたいんだ。それならお父さんも文句言わないし」
「僕でよければ」
「ありがとう、先生、大好き」
背伸びして彼の頬に口づけました。もう何も怖くない。この時はそう思っていました。