10、湟中近くにて追われること
羌族始まりの地、湟中。
ティナが羌族におけるシャーマン的存在である許になるために最も重要な教えを受けることができる地である。
零晶から出発して三ヶ月あまり、ようやくシーエイとティナはその地を望むところまで来ていた。
異変に気付いたのはティナの方が先だった。
キッと北の方を睨むと弓を取る。
シーエイも北の方から何かの圧力のようなものを感じていた。
「これは」
「わからん。だが羌人でもないし、漢人でもない」
そんな会話をした直後。
ブォーという重低音が響いた。
これは戦の合図だとシーエイは気付いた。
漢人も銅鑼や鏑矢といった音のでるもので合図をする。
このような何も起きていない時の合図は、大抵の場合“進軍”のものだとシーエイは知っていた。
「北の方!」
ティナの声に目をやると、街道脇の丘の上に騎乗した者が百人ほど姿を現した。
「あれは!」
「まさか……しかし、あれは」
これほどまでに動揺したティナをシーエイは初めて見た。
零晶を盗賊が襲ってきた時でもここまで恐れを見せなかった。
見た限り、騎馬武者は羌人ではない。
もちろん漢人でもない。
それはティナの見立てが正しかったことになる。
おそらくは革鎧。
それに毛皮を縫い付けて、軽さと耐寒性を高めている。
それはつまり、ここより北方の部族であることの証。
「奴らに心当たりがあるのか?」
「族長は十年と言っていた。どう考えても早すぎる」
その言葉は、ティナが旅にでる理由となったとある部族の伸長を示した言葉だ。
十年で、その部族は版図を拡げ、中華にも侵攻しうる勢力となる、と零晶の族長は言っていた。
「鮮卑族か」
「おそらく……」
騎馬武者の一人が何か骨のようなものを口に当てた。
それは再び、腹の底に響くような重低音を響かせる。
骨で作った笛の一種だろう。
そして、その音は突撃の合図だった。
堰を切ったように鮮卑の騎馬武者たちは駆け出した。
力強い体躯の馬は背に人を乗せていることなど関係なく、轟々と突っ込んでくる。
「ティナ!応戦するな、逃げるぞ」
「逃げのびられると思うか!?」
「やってみねばわからん!」
ティナとシーエイは馬首を湟中へ向けて並んで駆け出した。
ティナの馬も、シーエイの烏騅も羌の名馬である。
その馬力は、鮮卑のものにもひけはとらない。
だが、追う者と追われる者、どちらが体力と気力を削られるか。
街道の側の草木が流れるように後ろへと消えていく。
それだけの速度で駆けているにも関わらず、後ろの鮮卑たちの圧が減ることはない。
なぜ、俺たちを追っている?
懸命に手綱を繰りながらも、シーエイはそんな違和感を考察する。
どう見ても、湟中を尋ねてきた羌人の若者二人だ。
金や資産があるようには見えないだろうし、捕らえてなぶりものにするには追ってくる数が多すぎる。
その答えとなるような言葉を、追ってくる鮮卑たちが話している。
「男は殺せ。女はおそらく焼当の娘だ。生かして捕まえろ!」
俺は問答無用に殺されるらしい。
と、シーエイは口の端に笑みを浮かべる。
これは簡単には捕まるわけにはいかなくなった、と。
そして、焼当の娘とはティナのことなのだろうか。
焼当は、確か羌族の始祖である無弋爰剣の直系の子孫の一族のはずだ。
だがティナからはそんな話を聞いたことがない。
ならばなぜ、この鮮卑たちはティナをその焼当の氏族だと勘違いしているのか。
また、もしティナがその血を引いているとしても、彼女を狙う意味がわからない。
並走するティナの顔は多少青ざめてはいるものの、冷静に打開策を考えているようだ。
「シーエイ、何か策はあるか?」
訂正。
何も考えてなかったようだ。
「……湟中には、駐屯している漢の軍がいるはず。彼らに鮮卑を撃退してもらう……とか?」
「ここから湟中までは半日はかかるぞ」
馬は……もたないだろうな。
シーエイは自分自身で、今言ったことを否定することになる。
手はないのだ。
だが、窮地に陥るほど己の天運が助けてくれると、シーエイは信じていた。
言い換えれば、己が死ぬことなど無いと確信している。
シーエイは騎首を返して、襲い来る鮮卑の騎手たちの前に止まった。
「シーエイ!?」
方向転換し損ねたティナが、慌てたように、もしくはこのバカとでも言うようにシーエイの名を呼ぶ。
「鮮卑の者に告ぐ。この先に進まば、鉄の矛にてつらぬかれるぞ」
鮮卑の言葉でかけられたセリフに、勇猛な、あるいは獰猛な騎手たちが足を止めた。
漢人あるいは羌人にも見えるこの男が、自分達の言葉を話したことに驚いたのだろう。
そして、その男のどこから来るのかわからない余裕さを不気味に思ったのかもしれない。
「怯むな!相手は二人、それにここで焼当の娘を手に入れねば我らが死ぬのだぞ!」
鮮卑の頭目らしき壮年の男が叫ぶ。
騎手たちはハッとしたように顔を上げた。
そうか。
こいつらも命がかかっているのか。
だからといってむざむざとこちらの命をくれてやるわけにはいかない。
シーエイは素早く弓に矢をつがえ、引き絞る。
そして、それを天に向けて放った。
俺はまた天意を試そうとしている。
己が生きるべきか死ぬべきか。
この羌の地に来てからずっと、天に向けて問い質している。
あまりにしつこく、もしそれが人間相手なら呆れてしまうほどに。
だが、俺の運命がまだ終わりでないのなら。
これに応えて見せろ!
ピイイイイイイイイイイ!
と甲高い笛を鳴らすような音があたりに響いた。
驚いた鳥たちがバサバサと逃げ去っていく。
「何をした!?シーエイ」
ティナがシーエイの側によってきて問う。
鮮卑の騎手はともかく、彼らの乗る馬たちが驚いて使い物にならないため、攻撃の手が緩んでいるのだ。
「これは嚆矢だ」
中華では戦国時代に荘子にその存在が記され、また異民族の中でも匈奴の冒頓単于が運用したことで知られる。
音の出る矢、鏑矢と言われるものである。
「お前が夜営の見張りでこそこそ彫っていたやつか?」
「ん、まあな」
二人で野営したときに、一人一人交代で見張りをしていた。
その時に手慰みで彫っていた矢じりである。
シーエイ自身は笛を彫っていたつもりだったが、うまくいかずに鏑矢の矢じりにしてしまえ、と矢にくくりつけたものだ。
こういう事態があると予測していたわけではないが、何かに使えるだろうとは思っていた。
そして。
嚆矢とは漢民族にとって、戦いの始まりを意味する。
目の前の、混乱がおさまりつつある鮮卑たちにとって、骨笛の響きがそうであるように。
この湟中には、羌の地で唯一。
漢の軍隊が存在する。
「第一射!射てい!」
ババッと一斉に放たれた矢が雨のように鮮卑たちに降り注いだ。
突然の攻撃に、沈静化寸前とはいえ混乱していた騎手たちはろくに守ることもできず、バタバタと倒れていく。
「な!」
「来た!」
「突撃!」
街道を駆け抜けてきた鉄鎧の騎馬武者たちが、シーエイとティナの横を通りすぎて、鮮卑の騎手に突っ込んでいった。
その部隊が掲げる旗には“李”の一文字が記されていた。




