失意の底に沈む
「おい、君」
誰かが呼びかけている。わかっていても頭も体も反応しない。
「——待て。待てと言っているんだ」
アーネストに肩を掴まれて足が止まった時には、訓練所を後にしていた。
ガタガタと車輪の音を響かせながら台車が通り過ぎていく。台車には角を落とされ、力なく目を閉じた鹿が括りつけられていた。その後に続く男達は、矢筒を背に今日の収穫について愉快そうに談笑している。
訓練所を後にして何も考えずに歩いているうちに、荷や馬の出し入れに利用される裏門の近くに来ていた。
アーネストに止められなかったら、どこまで行ってしまっただろう。
「俺はミランダから君を任されているんだ。一人でふらふらとどこかへ行かれては困る」
呆れたような声はジェラールの耳を素通りする。
ぼんやりとした少女に、アーネストは尋ねた。
「……案内の続きはどうする?」
ジェラールは俯き加減に目を逸らした。何を言われたか認識できないままに、ただ、声をかけられたという事実に反応して。
アーネストに合わせる顔がない。彼と共にいたいのにいられない。それはまだ先の話なのに、今すぐ離れなければいけないかのような思いに囚われていた。
思い悩むあまり、ジェラールは今の自分の姿を忘れていた。
「今日はここまでにするか? 一人で戻れるか?」
重ねて尋ねても、積極的な意思表示がなくなってしまった少女は立ち尽くすばかりで答えを返さない。アーネストは肩をすくめると、少女の肩を軽く叩いた。
「ほら、送っていってやろう」
「……っ!」
思わず身を捩ってその手を逃れ、ハッとしてアーネストを振り返った。
呆れを含んだ視線と出会う。
絶望的な気分になったジェラールの所へ、台車に続いていた列を抜けて赤毛の男が近づいてきた。その手には立派な鹿の角が握られていた。
「おう! どうしたアーネスト、こんな所に一人で。その子は? 迷子か何かか?」
「ああ、ヒューゴー。まあ……そんなもんだ」
「へーえ……? ところでさ、見たか? 立派な鹿だっただろ?」
「ああ。なかなかだったな。おまえが仕留めたのか」
「おうよ! 俺は騎士より狩人の方が向いているかもな、ハッハ!」
ヒューゴーは大きな角を高く掲げて豪快な笑い声を上げる。
「今日はマガモも五羽ばかり穫れたらしいぞ。後でジェラールに伝えておいてくれよ。喜ぶだろうからな」
「マガモか! だが五羽ではどのくらい分けられるかな」
「気になるならおまえが配膳に口を添えておくんだな。それでもジェラールが物足りなそうにしていたらおまえの分を分けてやれ」
「それは悩むところだな。俺もマガモは好きだ」
アーネストが苦笑した。
二人の会話を聞いてジェラールは愕然とした。
狩りでは様々な獲物がその時々に獲れるが、中ではジェラールは鴨肉を好んでいた。しかし誰かに好物を伝えたことはない。アーネストにもだ。にも関わらず、二人は当たり前に知っている様子だ。
いつかヒューゴーが言っていた、おまえはわかりやすいという言葉を思い出す。
ジェラールが戸惑っていると、ヒューゴーが肩を竦めた。
「俺は鹿で腹いっぱいになれば満足だが、おまえはなあ。ジェラールに甘いからな」
まただ。
アーネストはジェラールに甘いという。ヒューゴーもそう考えている。
(やはりアーネストは俺に甘いのか……?)
晩飯が楽しみだと笑顔で話す二人を見ていることに耐えられなくなり、ジェラールは身を翻して駆け出した。
突然去っていった少女に、二人は呆気に取られた。
「どうしたんだ、あの子。まさか、マガモが魔女の分まで回らないことに悲観したか?」
「それはないと思うが……」
事情がまったくわからないヒューゴーに、訓練所での出来事を知っているアーネストはただ言葉を濁した。
そんなアーネストも、本当のことがわかっているわけではなく。
城内を駆けながら、ジェラールはずっと同じことを考えていた。
アランが言っていたことは本当だった。
守るべき相手に甘やかされていただけだった。
(こんな俺では、アーネストを守れない……!)
己の不甲斐なさに視界が滲む。
まとまらない頭のまま走り続け、見たことのない風景が目の前に現れたところで立ち止まった。
なだらかに下るこじんまりとした家がいくつも建っている。魔女の居住区。一生足を踏み入れることはないはずだった場所。
折よくミランダは入ってすぐの場所におり、ヴァネッサと一緒だった。
彼女のことは王の傍らにいるところはよく見かけるが、直接言葉を交わしたことは数えるほどしかない。
「あら、どなたかしら」
息せき切って外から現れた少女を振り返り、ヴァネッサが尋ねた。
目が合い、ジェラールは呼吸を忘れた。
声音は優しい。しかし向けられた黒い瞳は何物も見通す光を宿し、腰より長い黒髪は風に揺れて広がり、四方のすべてを覆い包んでしまうかのような空気を放っていた。
筆頭魔女ヴェネッサ。百年近い時を若い姿を保ちながら王家に仕えているという魔法の使い手。
「新しく来た子ですよ、先生」
答えられないジェラールの代わりに、ミランダが涼しい顔で嘘を吐く。
「受け入れがあるなんて、王から伺っていないけど……」
ヴァネッサは言いかけて、いたずらっぽい笑みを浮かべたミランダと強張ったジェラールの表情を見比べた。
「……もしかして、ジェラール様?」
名前を呼ばれた途端、ジェラールは覚えのある眩暈に襲われた。
体がぐらつきそうになるのを堪えて数秒後。目眩が治まって目を開けると、ミランダ達の背が自分よりも低くなっていた。
「——ありがとうございました!」
考えるよりも先に叫び、本来の体に戻ったジェラールは急いで来た道へ戻った。
「さっすが、先生。素晴らしい観察眼です」
ミランダが手を叩く。
ジェラールの後ろ姿が居住区を後にするのを見届けてから、ヴァネッサは振り返った。
黒い瞳に睨まれ、ミランダは笑顔のまま首を竦める。
「名前を呼んだだけで解けたわよ、ミランダ。随分不安定な魔法ね」
「先生の魔法で解いたんじゃなかったんですか? うーん……声も出なくなってたし、人をまるごと変化させるのは難しいですねえ」
「あなたが彼を気に入っているのは知っているけど、人で遊ぶものではないわ。まして不完全な魔法をかけるなんて危険よ。戻れなくなったらどうするの」
「はあい、先生」
「それから、さっきも言ったけどこれから視察に出立する王に同行するから。私が留守の間は城をお願いよ」
「また王様と一緒に行っちゃうんですね」
「あなたに留守を任せても大丈夫でしょう?」
「先生がいないと不安ですねえ」
「私はあなたに期待してるの。お遊戯のような魔法ばかり生み出すけど、あなたは本当は私と変わらないくらい魔力を秘めている。それを感じるの。相性のいい水晶が見つかれば、きっと花開くわ」
話しながら、ヴァネッサは手にした杖の頭を撫でる。そこにはめこまれた水晶玉は彼女の力を最大限に引き出すものだ。
「相性のいい水晶が見つかれば、ジェラールを完璧な女の子にできるでしょうか?」
ミランダは滑らかに揺れる指先をうっとりと見つめながら尋ねる。
返事にも表情にもやっぱり真剣さの欠片もない。
ヴァネッサは軽く息を吐いた。
「もう……しょうがない子。とにかく、お願いね」
「はあい」
無邪気な態度は、まるでただの少女のよう。
それでも、ミランダはヴァネッサの一番弟子。魔女を召し抱えている城があると噂を聞きつけたヴァネッサが他所の領土からやってくる途中で出会い、共につれてきた魔女。それから百年近い時を魔法と若さの両方を保ちながら共にあり続けてこられた魔女は、ミランダしかいなかった。
だからヴァネッサはミランダを強く信頼していた。
魔女の居住区から戻ったジェラールは、周囲がいつもと同じ高さで見えることで元の体に戻れたことを実感し、安堵を覚えた。
けれど、胸の奥に沈み込んだ苦しさは拭えない。
「……これから、皆にどんな顔を向ければいいんだ」
額に手を当てて呻く。
明日の朝も訓練があるが、自分に実力はないと知った今、これ以上は指導を続けられない。皆の成長を阻害してしまう。
「怖い……」
これからどう振る舞えばいいのかわからない。
なにより、アーネストと顔を合わせるのが怖い。
「ジェラール!」
深く悩んでいると、名を呼ぶ者があり、ジェラールは大きく体を震わせた。
混乱している頭では声の主がアーネストではないということしか判別がつかず、ゆっくりと顔を上げると、心配そうな表情で駆け寄ってくるのは訓練所にいるはずのテレンスだった。
「ジェラール。今までどこへ行っていたんだ? ずっとアーネストが探していたぞ」
「少し……具合が悪くて」
「少しという顔じゃないな。動けるのか? そこへ座ったらいいんじゃないか」
「大丈夫だ」
「ジェラール、無理はしなくていい。ところで訓練のことで話が」
「……明日からの訓練は、先輩に指導してもらう」
本来は皆と同じ見習いの身。元から指導する立場じゃなかった。剣の訓練はジェラールに任せられるという先輩騎士の言葉を真に受けないで、指導を頼んでいればよかった。
「朝の指導をやめるのかい?」
悩み、先ほど出した結論をテレンスに伝えると、不思議そうな顔をされた。
(そうだ、テレンスは朝の訓練には参加していないんだ)
ならば彼がいう訓練とはと考えて、先ほどの訓練所での出来事を思い出した。
アランの言い分をテレンスが激しくたしなめていた。自分はただそれを黙って聞いていることしかできず。
「……気にしていない」
テレンスの顔を正視していられず、ジェラールは顔を逸らした。
胸が苦しくて仕方ない。
「——ジェラール!」
遠くから大声で呼ぶ声に、胸を刃で貫かれたかのような衝撃を受けた。驚愕のあまりに体は震えすら忘れた。
あっという間に近くまで来た足音と乱れた息に、ジェラールはまたゆっくりと振り返り、安堵と怒りがないまぜになったアーネストの顔を見た。
「アー……ネスト……」
「やっと見つけた、ジェラール。おまえ、ミランダに魔女の居住区に連れて行かれてたのか? さっきようやく目撃した者を見つけられたと思えば、そんなこと言ってたぞ!?」
「ええ、まあ……」
「素知らぬ顔で魔女以外禁止の区域に連れ込むなんてなに考えているんだあの女は! 大丈夫か? なにかされなかったか?」
アーネストが伸ばした手を、ジェラールは思わず払いのけた。
「ジェラール?」
アーネストが目を丸くする。
しまったと思ったが、今のジェラールに取り繕う気力はなかった。
「どうした?」
「なんでもないです……」
「なんでもないということはないだろう。まだ顔色が悪いじゃないか。そんなに具合が悪いのにミランダは手当もしなかったのか」
「本当に……なんでもないんです。ただ少し……今日だけ、もう休ませてもらえますか」
「いい、いい。ゆっくり休め。部屋まで送っていくぞ」
優しい声と共に腕が肩に回されようとして、ジェラールは触れる寸前で身を離すと声の限り叫んだ。
「これ以上、俺のことを甘やかさないでください!」
いつもほどには声が出ていなかった。
それでも、それだけで体力をすべて使い切ってしまったかのように、がくりと力が抜けた。
「もう……放っておいてください……」
弱々しく震える声はまるで泣き声のようで、ジェラールは己が情けなくて仕方がなかった。
「……なんだあれは」
一人で去っていく後ろ姿を呆気に取られて見送っていたアーネストは、その姿が完全に見えなくなった頃にようやく口を開いた。
「アーネスト」
「ジェラールに叱られたことは何度もあるが、拒絶されたのは初めてだぞ! ——テレンス! 俺が来る前にジェラールとは話をしたのか? 何を話した?」
「少しだけ。明日から朝の訓練の指導は辞めると」
「ジェラールが指導を辞める!? 何故だ!」
「理由は聞けなかったです。……それから……」




