甘やかな罰
草木生い茂り大河流れる大地の上、四方を彼方まで見渡せる小高い丘の頂上を堅牢な石積みの壁で囲み、その城はそびえ立っていた。
辺り一帯を支配する王が住まう城は今日も活気に満ち溢れていた。赤く熱した鉄を打つハンマー、井戸から汲み上げられバケツの中で揺れる水、中庭を軽やかに闊歩する馬、作業をする手と同時に動いて止まらない女達口から流れる言葉達。それらの音や声はリズムが決して揃うことがないながらも絶妙なシンフォニーを生み出し、日常という曲を奏でている。
そんな喧噪に包まれた城の中庭で、塔から持ち出したベンチに腰掛けてチェスに興じる二人の青年がいた。
先手の白の陣を操る黒髪の青年は、眉間に皺を寄せながら盤面を睨みつけている。緩くウェーブがかった髪は柔らかく軽く、風に乗っては気ままに顔を撫でつけるので、そのたびに青年は煩わしそうに髪を払う。盤面からは目を離さないままで。
対して、後手の黒を操るプラチナブロンドの青年は、盤面ではなく白陣の青年の渋い表情を面白そうに眺めていた。黒髪の青年よりも体躯は一回り大きく筋肉質で、余裕綽々の笑みは彼の精悍な印象を深めるものだった。
悩みに悩みを重ねて、黒髪のジェラールは自陣の駒の一つを動かした。
すると、間髪入れずプラチナブロンドのアーネストの手が動いた。
「チェックメイト」
宣言と同時に、長い指に操られた黒のクイーンが白のキングを地へと伏せさせた。
「——また負けた……!!」
唸るような声に、天気の良い庭に広げた小さな対局場の傍らを通りかかった男が一人ちらりと振り向いたが、そのまま忙しそうにいずこかへと駆けていった。
自分の駒が及ばなかった様に、ジェラールは頭を抱える。なにしろ今日はこれまでに三局打って二敗一分け。ここしばらく、チェスでアーネストに勝てた記憶がない。ジェラールが騎士見習いとしてこの城に来た当初はジェラールの方が何でもアーネストより器用にこなしていたが、今や乗馬も狩りの腕前もアーネストの方が上達し、まだ上回っているのは剣の腕くらいだ。
愕然としているジェラールに、アーネストは広い肩を揺らして笑う。
「ジェラールは頭が固いんだ」
「それは多少自覚はあります。ですがアーネスト、頭の固さと俺のチェスとどう関係があるんですか」
共に幼少だった頃から仕えてきた同い年の己が主に、ジェラールは悔しさから上目遣いに睨みつけてしまう。
第三王子であるアーネストは、泰然として怒りの感情を知らないといった体で人当たりがよく、常に浮かべている柔和な笑みは人を惹きつけてやまない。それと反比例するようにジェラールはどうにもアーネストに対して態度がきつくなり、不躾に怒りをぶつけてしまうこともままあった。同年とは思えないほど包容力のあるアーネストに甘えている自覚はあったが、対する彼はいつも笑顔で受け流すばかりだった。
「で、チェスとおまえの頭の固さについてだが」
アーネストはチェスの駒をチェックメイトの直前まで戻し、一つ一つの駒の位置を指し示す。
「キングは要だ。かと言ってジェラールはキングの周りを固めることばかりに気を遣いすぎだ。攻めなければいけない時にも守りに走り、無駄な手数を踏んでいる」
キングの周りを固めること自体は常道だ。それなのにジェラールの場合、周囲を固めているのに、気がつけばどう動いてもチェックメイトされる状態となって負けるのだ。
対してアーネストの陣の最終の形は、キングは背を盤の端に接しているとはいえ、残り五方向にはポーンが二つ添い従っているのみ。どうしてこの隙間に攻め込むまでに至れないのかとジェラールは返す返す悔しくて仕方がない。
親の敵と言わんばかりに盤面を睨みつけているジェラールに、アーネストはまた声を上げて笑った。
「なんですか、王子!」
悩んでいるところを笑われて、ジェラールは反射的に頭に血を上らせた。
その時一瞬、アーネストが人の悪い笑みを浮かべたことに、興奮しているジェラールは気がつかなかった。
「いや。ジェラールのチェスを見ていると安心できるなと」
「安心とは何ですか。この程度の腕に成り下がった俺なんかにはもう負けることがないという余裕ですか」
「そうじゃない。身を挺して主を守ろうとするジェラールの気概を感じるんだ」
「臣下が主を守るのは当然のことでしょう」
「当然か」
アーネストは嬉しそうに目を細めた。
余裕のある態度を見せつけられ、ジェラールの中の負けん気が頭をもたげる。
「それよりアーネストのチェスこそ、キングの周囲を手薄にしてまで勝利を掴もうとする姿勢は恐怖すら覚えます」
「実践では守りも心得るさ」
「そうですよ。アーネストは剣を苦手としていますから。戦場では前線には出ないでください」
「何を言っているんだ。俺も近々騎士となる身だ。名誉にかけてもそんな臆病な真似はできないぞ」
「心に決めた貴婦人もいないのに名誉だなんて」
「それはそうだ。まだ見習いだからな。だが騎士となったなら俺は戦う。騎士の務めを果たすために」
「そうですね。騎士になったなら、その時は」
つい皮肉な口調になってしまったが、苦手は言い過ぎだった。ジェラール以外の騎士見習い相手ならアーネストもそうそうは負けない。それでもアーネストはジェラールの言葉に素直に頷いてくれる。
ジェラールも頷き返しながら、戦場では自分がこの人を守ってみせるという、もう何度繰り返したかわからない誓いを改めて心に刻みつける。
「ところで……ジェラール。さっき、自分が何を口走っていたかわかるか?」
アーネストが不意に真面目な顔になり、とても重要な話をするかのように囁いた。
口走っていたと言われてジェラールは首を傾げた。極々普通のことを口にした記憶しかない。
頭の中で今の会話を辿ろうとして、ジェラールはハッとした。そして、隙を突いて今にも引かれそうになっていた右手を慌てて引っ込めた。
「だ、ダメです。……アーネスト。外じゃまずいですから」
「呼び直しても一回は一回だぞ」
「わかってます。でも、後で」
右手を左腕で抱えてガードし、更に上半身を捻ってできる限り距離を取る。
逃げの姿勢を見せるジェラールに、アーネストはにっこりと笑う。
「躾はその場でしなければいけないものだと、先輩騎士達も言っているじゃないか」
「でもっ……というか、躾ってなんですか。そういうものじゃないでしょう、これは」
「いいや。俺にとっては、おまえができるようにすることだから躾だ。まあ、人前ではまずいことには変わりないな」
その一言にほっとしたのは一瞬のこと。
「場所を変えるか」
立ち上がったアーネストは返事を待たずに歩き出した。
だから、ジェラールは慌てて後を追うしかなかった。
「すぐに戻ってくるから、あのベンチはそのままにしておいてくれ」
近くで作業している男達にかけた声は心なしか弾んでいる。
「アーネスト……せめてあなたの部屋で」
「遠いじゃないか。手っ取り早く人目のつかない場所へ行こう。……ちょうど、今は空いているようだ」
アーネストが流した視線の先には一本の木が立っており、その枝に目立つ赤色の長い布が結びつけられて風に揺れていた。
あの布が示す意味は、城内に住む年頃の者なら誰でも知っている。
「ちゃんと来るんだぞ」
立ち止まってしまったジェラールを置いてアーネストはさっさと歩いていくと、枝から赤い布を外した。そして更に歩き、城壁の角の向こうへ姿を消した。
強引なアーネストに戸惑っていたジェラールも、少し時間を置いて後を追う。
数百年前に建てられ、後々増築された城は歪んだ8の字を描き、城壁と塔が迫り合う中心部分は狭く複雑に曲がり、見通しが悪くなっている。
その細い隙間を覗くと、先の空間には小さな家々が並び、女性の姿ばかりが見える。
向こう側は魔女の居住区となっている。
世の中には特殊な能力を持った女性が稀に見つかる。領内では彼女らは王宮に召集され、王に仕えることになっている。そしてその力は王以外のために使うことは禁止され、彼女らが具体的にどのような力を使えるのかは広く知らされていない。たまに訪れる旅人が言うには、魔女は空を飛んだり猛獣を侍らせたり、はたまた怪しげな薬を作って死人を生き返らせたりするらしいが、どこまでが本当のことかはわからない。
魔女の居住区は原則、魔女以外は立ち入り禁止になっている。見張りの兵士も近づかない。だから、ここの境目は見通しが悪い上に人が途切れがちだった。
少しでも目立たないように壁沿いに進んでいたジェラールは、伸びてきた腕によって城壁と塔の間の物陰に引き込まれた。
「アーネスト……」
薄暗い奥へ追いやられ、逃げ場はなくなる。嘆願をこめた眼差しは無視され、すぐ足元で跪かれて真っ直ぐに見上げられると、泣きたくなった。
「ほら」
大きな手を差し出される。
ジェラールがおずおずと片手を伸ばせば、アーネストはその手をしっかりと握った。
「ジェラール」
体を強張らせて目を閉じていると、名前を呼ばれた。
見下ろせば、アーネストは握った手に顔を近づけていて。ジェラールに向ける目は意識すら逃げることを許さないと言っていた。
「しっかり見ているんだぞ」
「わかりました。だから、誰かに見られる間に早く」
「ここなら誰も見られない。それに、さっさと済ませたら躾にならないだろう」
「わかりましたから、もう……」
アーネストが喋ると指先に息がかかる。それだけで耐えられない。
待ち構えているジェラールの必死な顔をしばらく見つめてから、アーネストは視線を落とした。そして震える手にさらに顔を近づけると、その指先に唇で触れた。
息が詰まる。
一度唇が離れ、またすぐに指先に触れる。
腕が強張った。
「……どうして、いつも何回もするんですか……っ」
「すぐに終わったら、躾の効果も薄いだろう」
「一回でも十分です……!」
指先に吹きかかる吐息だけでも背筋が震える。
三度目の唇は少し開き、軽く指先を食んだ。
ジェラールは唇を噛み締めて声が漏れそうになるのを耐えた。
長く長く感じたほんの短い時間が終わり、アーネストは立ち上がってジェラールの手を離した。
笑みを浮かべた表情はとても満足そうで。
喉が詰まり喋れないでいるジェラールは、熱い目尻から涙が零れないように堪えるのに精一杯だった。
「では、戻ってもう一局やるか」
すっかりすっきりしているアーネストに言われるままに頷きながら、ジェラールの心臓はバクバクと暴れていた。
背徳感でいつも胸が痛む。こんなことを王子にさせてはいけないのに、とても許してはいけないことなのに、ジェラールは拒否できない。
そこには、アーネストのしたいことは結局どんなことも許してしまう甘さと、先程の行為そのものを拒絶できない、むしろしたくないと願う気持ちの問題があった。




