第078話:学び舎の鐘
黒楡商会の本命は、石切り場ではなかった。
狙われたのは白霧境の学び舎。
吉継不在の夜、エルネたちは子供たちを守れるのか。
白霧境の夜に、鐘が鳴った。
一度ではない。
二度、三度。
火事でも、朝の祈りでもない。白蝶城で決めた、夜間の急報を知らせる鳴らし方だった。
エルネ・フォリオは、礼拝堂の机から顔を上げた。
板の上には、名前を書き終えたばかりの子供たちの木札が並んでいる。字は歪んでいる。だが、どれも自分の手で書いた名だった。
「全員、筆を置いて」
声が少し震えた。
それでも、叫ばなかった。
叫べば、子供たちの足が乱れる。
「リーネ。数えて。今ここにいる人数」
「は、はい!」
リーネは木札を抱え、顔を青くしながらも一枚ずつ指で押さえた。
「十人。私を入れて十一人です」
「よし。裏の倉へ移動します。走らない。転ばない。荷物は捨てて」
小さな男の子が、書きかけの木札を握りしめたまま動けずにいた。
エルネは膝をつき、その手を包む。
「それは持っていていい。あなたの名前だから」
男の子の目に涙が浮かぶ。
「でも、紙は?」
「紙より足。足より命。大谷様なら、そう言います」
その一言で、子供たちが動いた。
礼拝堂の外では、ロウエンが兵を集めていた。商人相手に口を回す時より、ずっと顔が硬い。
「門を閉めろ! 灯りを増やすな。相手に中の数を読ませるな!」
「ロウエンさん、表門に荷車が二台!」
「商隊か?」
「見えません。だが、速いです!」
ロウエンは唇を噛んだ。
普通なら、領主の帰りを待つ。
だが今は、その領主がいない。
代わりに残っているのは、帳面と、訓練途中の兵と、まだ字を覚え始めた子供たちだけだ。
「情けない顔をするな、俺」
ロウエンは自分の頬を叩いた。
「領主様が作った城で、領主様の留守に攫われましたなんて、商人仲間に笑われてたまるか!」
その時、門前へ若者が転がり込んだ。
息も絶え絶えで、油紙を差し出す。
「ケイブ、アッシュから……黒楡商会、今夜……学び舎を」
ロウエンは油紙を奪い、開いた。
短い文。
だが、足りる。
「エルネに見せろ! 兵は礼拝堂へ寄せるな。敵が欲しいのは中の子らだ。なら、中を餌場にするな!」
油紙は、裏口からエルネへ届いた。
エルネは文を読むなり、顔色を変えた。
「来ます。黒楡商会です」
リーネが息を呑む。
「また、契約書ですか」
「いいえ。今夜はもっと雑です。紙で失敗したから、手で取りに来ます」
エルネは倉の戸板を押さえた。
「みんな、覚えていますね。知らない人に名前を呼ばれても、返事をしない。親切な顔で手を出されても、ついていかない。契約書を読めない時は、判を押さない」
「はい」
「今夜は、最後が変わります。判を押さない前に、戸を開けない」
子供たちは震えながら頷いた。
頭上の梁で、小さな影が揺れる。
「ふん」
チヨネだった。
寝ていたはずの少女は、いつの間にか梁の上に座り、影で小さな木札をくるくる回していた。
遊んでいるようで、目だけは戸口を見ている。
「チヨネさん」
「ふんふん」
大丈夫、と言っている。
たぶん。
エルネは少しだけ息を吐いた。
「あなたがいるなら、少しだけ寿命が延びました」
チヨネは胸を張った。
「でも、無茶はしないで。大谷様に怒られるのは私です」
「ふん……」
それは少し不満らしい。
表門で、荷車が止まった。
「夜分に失礼! 王都行きの商隊です! 道中で賊を見たので、子供たちを一時避難させたい!」
声は丁寧だった。
丁寧すぎた。
ロウエンは門の内側で笑った。
「そうか。親切な商隊だな」
「早く開けてください! 危険です!」
「危険なら、そっちが逃げろ。ここは白蝶城の管理地だ」
門外の声が、低くなった。
「開けろ。手間をかけさせるな」
「やっと本音が出たな」
次の瞬間、荷車の布が跳ね上がった。
中から短弓を持った男たちが立つ。
矢が放たれた。
だが、門の上から石が落ちる方が早い。
訓練途中の兵たちが、震える手で石籠を倒したのだ。狙いは甘い。だが荷車の前輪を砕くには足りた。
「今だ、下がれ! 門に張りつくな!」
ロウエンが叫ぶ。
兵たちは転がるように下がった。
その退き方は不格好だったが、背を向けて散りはしない。白蝶城で何度も叩き込まれた、下がる順番が体に残っていた。
礼拝堂の裏戸が揺れた。
外から、細い刃が差し込まれる。
鍵を探る音。
エルネは子供たちを背に押しやり、息を止めた。
チヨネの影が、床を這う。
差し込まれた刃の影へ、小さな黒い針が刺さった。
「ぐっ」
外の男が呻く。
影縫。
戸の向こうで足音が乱れた。
しかし、敵は一人ではない。
窓の板が割れた。
腕が入る。
エルネは近くのインク壺を掴み、その腕へ叩きつけた。
「痛っ!」
「高いんですよ、それ!」
怒る場所が違う。
自分でもそう思ったが、言葉が出てしまった。
リーネが、震えながら笑いそうになり、すぐ口を押さえた。
その小さな笑いが、倉の中の空気を少しだけ戻した。
外で男が怒鳴る。
「火を入れろ! 煙で出せ!」
エルネの背筋が冷える。
チヨネの影が梁から落ち、戸口へ広がった。
だが、火は影の苦手なものだ。
「チヨネさん、駄目です。全部は受けないで」
「ふん……!」
抗議。
それでも、チヨネは戸から半歩引いた。
その時、礼拝堂の外で馬が大きく鳴いた。
続いて、男の悲鳴。
重いものが地面に叩きつけられる音がした。
「何だ、あの女は!」
別の声が叫ぶ。
「首が、首があるぞ!」
「あるに決まっているだろう! 取り戻したからな!」
やけに明るい女の声が、夜を裂いた。
エルネは目を瞬かせた。
何だ。
今の台詞は。
戸の外から、低い男の声が続く。
「白蝶城に小さな借りがある冒険者だ。戸は開けなくていい。中にいる者を数えて、誰も外へ出すな」
ケイブ・アッシュ。
油紙の名と同じ男。
エルネは戸板に額を近づけた。
「大谷様の知り合いですか」
「知り合いと言えば知り合いだ。嫌な借り方をした」
言い方は軽い。
だが、次に響いた声は冷えていた。
「黒楡商会。今夜の相手を間違えたな」
外で、短い戦闘音が重なった。
チヨネが梁の上で、鼻を鳴らす。
「ふん……?」
不思議そうな声だった。
エルネも同じ気持ちだった。
あの男の声は、どこかで聞いたような気がする。
だが考える間もなく、外からケイブの声が飛んだ。
「中の書き屋! 聞こえるか! 中にいる人数を言え!」
エルネは反射で答えた。
「十一人! 怪我人なし! ただしインク壺一つ損壊!」
「それは後で請求しろ!」
その返事が妙に自然で、エルネは一瞬だけ固まった。
次の瞬間、礼拝堂の正面で黒い甲冑が跳ねた。
カドゥが男を一人、肩から地面へ落とす。
「よいぞ、ケイブ! 守る戦も悪くない!」
「喜んでる暇があるなら右を止めろ!」
「右だな!」
黒騎士が笑い、剣の腹で敵を叩き伏せる。
白霧境の鐘は、まだ鳴っていた。
だがもう、ただの警鐘ではない。
学び舎を守る者たちが、夜に踏みとどまっている音だった。
今回は学び舎防衛回です。
エルネ、ロウエン、チヨネ、そして学び始めた子供たちが、ただ守られるだけではなく、それぞれの形で踏みとどまります。
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