第48話:火弾の前で
槍と隊列だけでは、魔法の恐怖には勝てない。
吉継は、火弾を前にした民兵たちへ「最後まで見極めること」を教えます。
火弾。
その名が出た瞬間、訓練場の空気が変わった。
槍を握る男たちの肩が強張る。
先ほどまで槍衾を作っていた者でさえ、火という言葉の前では喉を鳴らした。
無理もない。
この世界の民にとって、魔法は抗うものではなく、降ってくる災いに近い。
剣なら見える。
槍なら間合いが分かる。
だが、火は違う。
離れた場所から飛び、盾も布も焼き、当たれば肉を焦がす。
吉継は兵たちを見渡した。
「人には必ず恐怖の感情がある。それは人として、なくてはならないものだ」
兵たちが一斉に顔を上げる。
「だが、そなたが逃げれば次の仲間が犠牲になり、周りも巻き添えになる。その死んだ仲間の妻や子も、そなたらの勝手な行動で不幸にさせる」
訓練場から、呼吸の音が消えた。
吉継は軍配を下ろさない。
「戦乱とは、数の引き算に過ぎぬ。大魔導師が一人で千人を葬るというなら、我らは二千人の首を差し出し、呪文の合間のその一瞬に、奴の喉笛に刀を突き立てるまで」
ミセリアの筆が動いた。
「恐怖を否定しない」
「否定しても、火は飛んでくる。怖くないふりをする暇があるなら、伏せ方を覚えろ」
吉継は軍配で土塁の下を指した。
そこには、低い土の盛り上がりが三つ作られていた。
胸の高さではない。
膝をつき、身を低くすれば隠れられる程度の土盛りだ。
その前に、木板へ濡れた布を巻いた盾が置かれている。
泥を塗った藁束も並んでいた。
アリスティがそれを見て、少し目を細める。
「魔法障壁ではないのですね」
「そんなものは民兵にはない」
「では、あれで火弾を防ぐと?」
「防ぎきるとは言っていない。だが、これがあれば最小限の軽傷で食い止められる」
吉継は濡れ布を軍配の先で軽く叩いた。
「火は乾いたものを喜ぶ。濡れた布と泥は、火の勢いを鈍らせる。使えるものは惜しみなく使う。それが俺なりの戦い方だ」
兵たちが顔を見合わせる。
魔法を魔法で受けるのではない。
土と水と布で受ける。
聞き慣れぬ戦い方だったのだろう。
吉継自身も、この世界の魔法をすべて知っているわけではない。
だが、火の性質なら見てきた。
山を焼く火。
油に移る火。
火縄の火。
鉄砲が放つ音と煙。
人は火そのものだけで崩れるのではない。
音に驚き、煙に目を奪われ、次に何が来るか分からぬから崩れる。
「一度、見せろ」
吉継が言うと、アリスティは部下の魔術師へ頷いた。
若い男が前へ出る。
両手の間に赤い光が集まった。
訓練兵の一人が、思わず半歩下がる。
チヨネの影が足元を軽くつついた。
止めるというより、気づかせる動きだった。
男は歯を食いしばり、足を戻す。
「撃て」
アリスティが命じた。
火弾が走る。
赤い尾を引き、濡れ布を巻いた木盾へぶつかった。
鈍い音。
白い蒸気。
焦げた匂い。
木盾は焼けたが、すぐには燃え広がらなかった。
背後に伏せていた藁人形は焦げていない。
兵たちから、低い息が漏れた。
「見たか」
吉継は尋ねる。
「火は所詮ただの脅しに過ぎない。大事なのは最後まで見極めることだ。どこへ落ちるかを見ろ」
組頭の男が、まだ青い顔で頷いた。
吉継は続ける。
「もう一度だ」
アリスティの部下の魔術師が、もう一度両手を構える。
その横で、チヨネがいつの間にか小さな濡れ布を頭からかぶっていた。
白い布の上に、さらに濡れ布。
小柄な体が、即席の盾を背負った小さな塊のようになる。
「チヨネ」
「ふん」
任せろ、と言っているらしい。
兵たちの緊張が、ほんの少しだけ崩れた。
アリスティが口元を押さえる。
「それは、盾というより荷物ですね」
チヨネは不満げに濡れ布の端を持ち上げた。
「ふん……」
「よい。濡れているだけ、何もないより役に立つ」
吉継がそう言うと、チヨネは少しだけ胸を張った。
二射目の火弾が放たれる。
今度は木盾の端へ当たり、白い蒸気が横へ流れた。
魔術師の髪先が、反動の熱で少し焦げる。
「熱っ」
魔術師が慌てて自分の前髪を払った。
兵の一人が、思わず吹き出す。
すぐに口を押さえたが、遅かった。
チヨネが濡れ布の下から、得意げに「ふん」と鳴る。
吉継は叱らなかった。
「笑えるなら、まだ動ける。恐怖で手足が死んでいない証だ。なら、次はもっと早く動ける」
太鼓が一つ鳴った。
五人一組の兵が前へ出る。
槍は持たない。
濡れ布を巻いた木盾を二枚。
水桶を一つ。
泥を塗った藁束を一つ。
彼らは土盛りの後ろへ伏せた。
前の二人が盾を斜めに立てる。
後ろの一人が水桶を持つ。
残り二人は、次に交代するために半歩後ろで膝をついた。
魔術師の手に、また赤い光が集まる。
先ほどより、兵たちの呼吸が荒い。
それでも逃げない。
火弾が放たれた。
盾に当たる。
火が跳ねた。
前列の一人が小さく悲鳴を上げる。
だが、その場を離れなかった。
「水」
組頭が叫ぶ。
後ろの男が水をかけた。
蒸気が上がる。
泥の藁束が、落ちた火を押さえつける。
火は広がらなかった。
吉継は軍配を下ろした。
「交代」
前の二人が下がる。
後ろの二人が前へ出る。
焦げた盾は、そのまま後ろへ運ばれた。
負傷者役の少年が、焦げた布を剥がし、新しい濡れ布を巻く。
ミセリアの筆が止まらない。
「魔法防御ではなく、消火と交代」
「防げぬなら、受けた後を決める」
「受ける前ではなく、受けた後」
「火弾一発で隊が崩れるのが最も悪い」
吉継は兵たちへ向き直った。
「火を見ても、動揺するな。自然と身につくよう何度も繰り返せ。それが後に多くの仲間を救うことになる」
組頭が声を張った。
「伏せる、盾、水、交代!」
五人が繰り返す。
「伏せる、盾、水、交代!」
太鼓が二つ鳴った。
別の組が前へ出る。
今度は、火弾が土盛りの横へ落ちた。
火が地面を舐める。
前列の男が反射的に立ち上がりかけた。
チヨネが小石を影で弾いた。
小石が男の膝に当たる。
男は我に返り、もう一度伏せた。
「ふん」
チヨネが短く鳴いた。
叱っている。
だが、男が持ち場を守ると、すぐに小さく「ふんふん」と鳴った。
今度は褒めているらしい。
兵たちの緊張が、ほんの少しだけ緩んだ。
アリスティが腕を組み直す。
「火を怖がるな、ではなく、体に覚え込ませるのですね」
「考えてから動くのでは遅い。火は待ってくれぬ」
「考える前に動かす」
「そうだ。火を見た瞬間に伏せる。熱を見た瞬間に水をかける。隣が下がれば穴を埋める。身につくまで繰り返せば、恐怖より先に体が動く。生き残るための癖を作る」
アリスティは少しだけ笑った。
「やはり嫌な訓練です」
「褒め言葉として受け取る」
ミセリアは土盛り、盾、水桶、藁束、太鼓、組頭の順に視線を動かした。
「火弾への対処。障壁ではない。低姿勢、遮蔽、消火、交代、復帰。継続可能」
「厳しい評価だな」
「まだ一発ずつ。実戦では複数飛ぶ」
「その通りだ」
吉継は静かに頷いた。
ミセリアは事実しか言わない。
だからこそ、役に立つ。
アリスティが顎で訓練場の外を示した。
「では、火弾が三つ同時に来たら?」
兵たちの顔が、また強張る。
吉継は白い頭巾の奥で目を細めた。
「撃たせる場所を、こちらが決める」
「どうやって」
吉継は白蝶城の空堀を見た。
折れ、曲がり、狭まり、また開く土の道。
敵がまっすぐ走れぬ城。
火もまた、まっすぐにしか飛べぬなら。
「火が飛ぶ道を、先に曲げる」
ミセリアの筆が止まった。
アリスティの目が、わずかに熱を帯びる。
チヨネが、よく分からないまま誇らしげに胸を張った。
「ふん」
白蝶城の兵たちは、焦げた盾の匂いの中で立っていた。
誰も、もう火弾という名だけでは列を離れなかった。
◆
訓練が終わると、兵たちは組頭の指示で盾と水桶を片づけ始めた。
焦げた濡れ布の匂いが、まだ土塁の内側に残っている。
チヨネは頭からかぶっていた濡れ布を両手で持ち、少し名残惜しそうに畳んでいた。
アリスティは部下の魔術師の焦げた前髪を見て、何か言いかけ、やめた。
兵たちの笑い声が遠ざかる。
ミセリアだけが、土塁の上に残った。
吉継も軍配を閉じ、彼女の隣に立つ。
「二千人の首を差し出す」
ミセリアが言った。
問いではない。
記録した言葉を、もう一度確かめる声だった。
「酷い言い方だ」
「事実」
「そうだ」
泥のついた盾を運ぶ者。
水桶を洗う者。
焦げた布を広げる者。
誰も、英雄ではない。
「ああ。二千人の首を差し出してでも討ち取る価値がある敵なら、俺は躊躇わぬ」
吉継は訓練場を見下ろした。
「だが、人の価値は固定ではない。磨けば磨くほど、天秤の重さは変わる。今日震えていた兵も、明日には仲間を救う盾になるかもしれぬ」
白い軍配が、焦げた盾を運ぶ兵たちへ向く。
「俺は、ここにいる者たちをただの数で終わらせるつもりはない」
ミセリアの筆が止まった。
「……記録が難しい」
「なら、削れ。言葉が長ければ、兵は聞き落とす」
「削らない。貴殿の言葉は、削ると危険な部分が残る」
ミセリアは記録板を抱え直した。
「白蝶城兵。火弾に対し、恐怖あり。逃走なし。反復訓練により、損耗低下の見込みあり」
「十分だ」
「まだ足りない」
ミセリアは吉継を見た。
「貴殿自身の損耗も、記録対象に入れる」
吉継は返事をしなかった。
白い頭巾の奥で、ただ静かに目を細める。
遠くで、チヨネが「ふん」と鳴いた。
今のは、おそらく賛成だった。
今回は魔法対策の訓練回でした。
火弾は脅しであり、死ぬのは目を逸らした時。
吉継らしい、かなり厳しめの兵の作り方です。




