第1話:義は滅びず
風が、血の匂いを運んでいた。
慶長五年、九月十五日。
関ヶ原。
夜明け前から降り続いた霧は、昼を過ぎてもなお戦場の低い場所にまとわりついている。
その霧の向こうで、鬨の声が砕け、鉄砲の音が乾き、槍と槍がぶつかる鈍い響きが何度も重なっていた。
勝敗は、もう傾いている。
大谷吉継には、それが分かっていた。
彼は輿の上にいた。
病に蝕まれた身体は、もはや馬上で長く戦えるものではない。
顔は白い布で覆われ、皮膚は焼けるように痛み、指先の感覚は遠い。
それでも、目だけは死んでいなかった。
陣の動き、敵味方の旗、兵の呼吸、そして裏切りの兆し。
戦場に流れるもののひとつひとつを、吉継は白布の奥から拾っていた。
「殿」
近習の声が震えている。
「小早川勢、動きました……味方ではありません」
「……そうか。ついに、動いたか」
吉継は、静かに答えた。
分かっていた。
そうなることは、ずっと前から分かっていた。
それでも、人は分かっている罠に足を取られることがある。
勝つためではない。
義のために。
「三成殿は。まだ本陣におられるか」
「なお本陣にて、諸隊へ下知を」
「あの男らしい。最後まで、退くより先に命じる男だ」
吉継は、かすかに笑った。
石田三成。
あまりにも不器用で、あまりにも正しく、あまりにも人の心を扱うことが下手な男。
誰よりも豊臣の世を思い。
誰よりも政の理を知り。
それゆえに、誰よりも嫌われた男。
吉継は、その男に言ったことがある。
お前は人望がない。
戦になれば、必ず崩れる。
それでもやるのか、と。
三成は答えた。
やらねば、義が死ぬ。
愚かだと思った。
だが、嫌いではなかった。
いや。
だからこそ、吉継はここにいる。
「殿、敵が迫ります」
近習が叫んだ。
霧の向こうから、裏切った兵が雪崩のように押し寄せてくる。
旗が乱れ、味方の声が悲鳴に変わる。
吉継は軍配を握った。
「陣を畳むな。まだ我らの背に、三成殿の道が残っている」
「しかし」
「畳むな。三成殿の退路を作る。あの男を、ここで孤立させるな」
近習が息を呑む。
「殿、それでは我らが」
「分かっている。分かった上で命じている」
吉継は言った。
「ここで死ぬ。だが、無駄死ににはせぬ」
言葉にすれば、奇妙なほど軽かった。
死は、すでに何年も前から隣にいた。
病という形で。
痛みという形で。
人の視線という形で。
ならば今さら、恐れることはない。
ただ一つ。
守れぬことだけが、恐ろしかった。
「三成殿へ伝えよ。泣き言ではなく、約束をだ」
吉継は、側に控える若い兵へ視線を向けた。
「大谷は約束を違えぬ。たとえ首だけになっても、義は捨てぬとな」
「はっ」
「そして」
吉継は、一度だけ言葉を切った。
霧の向こうに、三成の本陣がある。
そこに届くはずもない声を、彼は胸の内で探した。
友よ。
主よ。
お前は正しかった。
だが、正しさだけでは人は救えぬ。
それを知っていながら、私はお前を止められなかった。
お前のそばに立つと決めながら、お前を勝たせられなかった。
「……いや。よい。あの男には、言わずとも伝わる」
「殿?」
「伝える言葉ではない。これは、俺が背負って死ぬ未練だ」
吉継は軍配を上げた。
風が鳴る。
「ここを死地とする。恐れる者は下がれ。残る者は、俺と地獄まで付き合え」
残った兵たちが、顔を上げた。
誰もが疲れ、傷つき、目の奥に絶望を抱いている。
それでも、吉継の声を聞いた瞬間、兵たちは背筋を伸ばした。
「我らが一刻持てば、三成殿は退ける。あの頑固者にも、まだ生きる道ができる」
吉継は続けた。
「半刻なら、兵を逃がせる。ここで全てを呑まれるよりはましだ」
そして、白布の奥で目を細めた。
「一瞬なら、義は死なぬ。誰か一人でも覚えていれば、それでよい」
兵たちが槍を構える。
裏切りの軍勢が迫る。
吉継は軍配を振り下ろした。
「進め。大谷の旗を、まだ倒すな」
それが、大谷吉継の最後の采配だった。
戦は崩れた。
兵は倒れた。
旗は折れた。
声は泥に沈んだ。
吉継の身体にも、いくつもの刃が届いた。
痛みはあった。
だが、遠かった。
それよりもなお、胸の奥を焼くものがある。
三成殿。
すまぬ。
私は、また間に合わぬ。
輿が傾いた。
視界が空へ向く。
関ヶ原の空は、ひどく白かった。
血と泥と裏切りに塗れた地の上にあるとは思えぬほど、ただ白かった。
吉継は、震える指で軍配を握り直す。
誰かが叫んでいる。
味方か、敵か、もう分からない。
けれど、最後に聞こえたのは、別の声だった。
どこか遠く。
人ではないものの声。
義は、滅びたか。
吉継は答えなかった。
答えるだけの息が、もう残っていなかった。
だが、心だけは言った。
滅びぬ。
義は、人が裏切ろうと、国が滅ぼうと、名が汚されようと、滅びぬ。
ただ、守れなかっただけだ。
私が。
私だけが。
守れなかった。
ならば。
もし次があるのなら。
今度こそ。
今度こそ、あの人を。
視界が途切れた。
音が消えた。
痛みが消えた。
そして、闇だけが残った。
その闇の中で、吉継は落ちていた。
どこまでも。
どこまでも。
身体はない。
声もない。
だが、記憶だけが燃えている。
関ヶ原。
三成。
裏切り。
約束。
白い空。
そのすべてが、魂に焼きついて離れない。
やがて、闇の底に光が見えた。
眩い光ではない。
神々しい救いでもない。
腐った月のような、青白い光だった。
その光の中に、誰かが立っている。
顔は見えない。
声も男か女か分からない。
ただ、その存在は吉継に問いかけた。
お前は、なお義を望むか。
吉継は答えた。
望む。
お前は、なお守ることを望むか。
望む。
たとえ、その身が病に焼かれても。
構わぬ。
たとえ、その力が忌まれ、穢れと呼ばれても。
構わぬ。
たとえ、守る相手がお前を知らず、お前の悔いを知らず、お前の名を必要としなくても。
それでも。
吉継の魂が、静かに震えた。
それでも、守る。
青白い光が、笑ったような気がした。
ならば、行け。
次の瞬間、闇が割れた。
光が流れ込む。
いや、光ではない。
毒だ。
瘴気だ。
腐敗と病毒と、死に近い魔力の奔流。
それらが吉継の魂へ絡みつき、焼きつき、刻み込まれていく。
痛みはない。
痛みを感じる前に、魂そのものが変わっていく。
現世で患った業病。
血肉を蝕んだ苦しみ。
人に避けられた白布の記憶。
それらすべてが、呪痕となって魂に沈む。
病毒魔法。
その名を、吉継はまだ知らない。
ただ、分かった。
この力は、人に忌まれる。
この力は、光に嫌われる。
この力は、使うたびに自分を蝕む。
だが、この力は守るために使える。
ならば、十分だった。
次に流れ込んできたのは、無数の戦の記憶だった。
孫子。
六韜。
三略。
司馬法。
兵法三十六計。
諸葛亮の兵法。
唐の問答。
武田の陣法。
鉄砲の理。
書物として読んだもの。
戦場で学んだもの。
前世では届かなかったもの。
それらが魔力の形を得て、吉継の内側に座を作る。
軍師魔法。
情報を読む力。
空間を制する力。
連携を束ねる力。
兵を活かし、敵を迷わせ、地形を味方に変える力。
剣ではない。
炎でもない。
雷でもない。
戦場そのものを読むための魔法。
吉継は、その座を受け入れた。
そのとき、遠くで声がした。
「生きてる!」
知らない声だった。
次いで、冷たい空気が肺に入り込む。
吉継は咳き込んだ。
喉が焼ける。
身体が重い。
皮膚の下で、何か黒いものが脈打っている。
目を開けると、石造りの天井が見えた。
見慣れぬ紋章。
見慣れぬ魔導灯。
見慣れぬ衣服をまとった人々。
そして、自分の手。
若い。
だが、包帯が巻かれている。
皮膚の一部は、すでに死の色を帯びていた。
「ここは」
声が出た。
前世の声より少し若い。
だが、確かに自分の声だった。
「サンクトゥス・レガリア王国の辺境施療院だ。あんた、森の瘴気溜まりで倒れてたんだよ」
知らない男が答えた。
言葉は違う。
違うはずなのに、意味が分かる。
吉継はゆっくりと身体を起こそうとした。
その瞬間、施療師らしき女が慌てて手をかざす。
「動かないで。今、光の回復を」
白い光が手のひらに灯った。
吉継の身体が、本能で拒んだ。
「やめろ。善意でも、それは俺を焼く」
遅かった。
柔らかな光が、吉継の腕に触れる。
次の瞬間、包帯の下で肉が焼けた。
「っ」
激痛が走る。
だが、吉継は声を殺した。
施療師は目を見開く。
「な、なんで……回復魔法なのに。私、助けたかっただけなのに」
吉継は腕を押さえた。
光が触れた場所から、壊死が広がろうとしている。
なるほど。
この身は、光に癒やされぬ。
むしろ、光に殺される。
「すまない。貴殿の手を責めているのではない」
吉継は言った。
「善意を拒んだ。だが、受ければこの身が壊れる」
施療師は怯えた顔で後ずさる。
「あんた……何者なの。人なのに、光を怖がるなんて」
吉継は答えなかった。
答えられなかった。
自分でもまだ、分からない。
大谷吉継。
関ヶ原で死んだはずの男。
なのに、記憶はある。
名もある。
兵法もある。
病もある。
そして、この世界には魔法がある。
吉継は、窓の外を見た。
見知らぬ空。
見知らぬ国。
見知らぬ神。
だが、胸の奥に焼きついた誓いだけは、何一つ変わっていない。
もし、この世界に三成がいるのなら。
姿が違っても。
名が違っても。
記憶がなくても。
今度こそ守る。
そのために、自分はここへ来た。
そう思った瞬間、吉継の右手に黒い瘴気が滲んだ。
同時に、左手の指先に小さな水の雫が浮かび、火の粉が揺れ、土の粒が震えた。
魔法。
この世界の理。
吉継は、それを見つめた。
光だけが、なかった。
当然だ、と思った。
自分はもう、光に祝福される者ではない。
それでもいい。
義を守るためなら、闇の病でも使う。
泥を啜ってもいい。
病毒に焼かれてもいい。
人に忌まれてもいい。
ただ、次は。
次こそは。
「三成殿」
吉継は、誰にも聞こえぬほど小さく呟いた。
「今度こそ、守り抜く。もう二度と、約束の前で膝は折らぬ」
窓の外で、異世界の風が吹いた。
関ヶ原の血の匂いは、もうしない。
だが、あの日折れたはずの義だけは、吉継の中でまだ燃えていた。
滅びず。
再び、剣を取るために。




