598.にぃ、ないない
ヘンリック様は翌朝、ご機嫌で王宮へ向かった。私は……そうね、多少あちこち痛いけれど我慢できる範囲よ。できるなら窓辺でのんびりと過ごしたい気分だった。動きたくないの。
ローズは綺麗に髪を洗ってもらい、私そっくりな金髪に戻った。ややくすんでいるのが、シュミット伯爵家らしいの。きらきらさは足りない。
「お母様、アイ、みてくる」
「ラルフと一緒に行くのよ。行ってらっしゃい」
レオンの言葉に微笑んで送り出す。以前なら絶対についていくし、万が一嚙まれたり引っ掻かれたりする事態を想像して、あれこれ対策していた。猫の脱走防止もあるし、あれこれ気を回していたの。今はランドルフと二人なら大丈夫、と信じてあげられるわ。
侍女や侍従は心得た様子でサポートに回る。彼らの働きも安心材料の一つね。レオン自身が無茶をしなくなったこと、ランドルフが上手に補佐してくれること。すべてがありがたかった。
いつも母親が一緒だと何をするにも顔色を窺うようになるでしょう? そろそろ自分で判断できる年齢だもの。してみたいことがあれば、教えてねと頼んでいた。私も一緒についてきてほしい場合は、そう口にするはず。見送る姿勢で手を振れば、笑顔で振り返した。
ランドルフと手を繋いで、また廊下から手を振る。笑顔でひらひらと手を動かせば、何か話をして二人で仲良く歩いていった。私がケンプフェルト公爵家に来てから、エルヴィンやユリアン、ユリアーナと年上に囲まれて過ごしたレオン。上手に甘えられるようになった。
家族を呼んだことがいい方向へ働いてくれてよかった。公爵夫人としての仕事も多少あるので、窓辺の長椅子に小さなサイドテーブルを置いて、書類に目を通す。領地のガラス工房を大きくする? これはヘンリック様に相談しましょう。新しい橋を造る? これ、公爵夫人の仕事かしらね。
フランクに返却する書類を積んで、残りは目を通してから別の山を作った。と言っても、旦那様であるヘンリック様の量に比べたら低い。全部集めても、絵本二冊分くらいだった。
「少し休むわ」
「うあぁああ! にぃ、ない」
お兄ちゃんがいないと泣きだしたローズが、部屋に飛び込んでくる。夜の団欒は絨毯の部屋だけれど、昼間は隣の部屋を使っていた。長椅子やソファーがあり……やっぱり土足厳禁よ。そこへ駆け込んだローズが、長椅子の上の私に飛び掛かった。
あれよ、猫がジャンプして腹の上に着地する芸? 同じように、腹部へ上半身を投げ出す形で、どすっと重さがかかった。ぐっと変な声が漏れる。慌てたリリーがローズを抱き上げたけれど、だいぶ遅かったわ。朝食が口や鼻から噴き出すかと思った。
「ローズ……いまのはダメよ」
ヘンリック様の腹筋なら鍛えているから平気かもしれないけれど、レオンやランドルフにやったら大事件だわ。危険だからと言い聞かせ、身を起こして隣に座らせた。
「それで、どうしたの?」
「にぃ、ないない」
懐かしい言葉だわ。ないないはレオンも使ったわね。まだ痛む腹部を撫でながら、丁寧に話を聞いて居場所を説明した。笑顔で侍女と手を繋いで出ていく娘を見送り……はっとする。あの子には猫に関する注意を毎回しないと! 危ない!! 立ち上がって追いかけた。




