ワンナイト・アクション1
「先程木梨から報告がありました。十川君に没入の症状がみられると」
「“前回”のように。という事ですか?」
半ば確信を持って尋ね返した私に、彼は静かに頷いた。
「木梨は作戦の中断を具申しています。とりあえず協議の上で検討するとだけしております」
時間稼ぎには十分な答えだろう――恐らくそれは木梨君も分かっているだろうが。
「それにしても、悪い予想ほどよく当たるものですね」
苦笑いする彼――小川さんに私もまた笑って返す。
「全くです」
そうだ。悪い予想だった。
しかし、同時に確度の高い予想でもあった。
それは彼にとっても同じ事だったのだろうという事を、彼が自分のスーツのポケットにしまい込むところだったUSBメモリに目を落としながら考える。
グンローの社内で使用されているパスワードでロックできる専用のUSBメモリと違うそれは彼の私物である。
「……これを使わずに済めばいいのですが」
私の視線に気づいたのかぼそりと呟かれたその声が、エアコンの音だけが聞こえる室内に僅かに響いた。
そしてその呟きに私も同じように独り言のように返す。
「……以前にも申し上げましたが、もし使う事になった時には、全て私がやらせたという事にしてくださって結構です。それだけの事をするのですから」
しかし、それに対する回答は先程と同じ苦笑いと、話を打ち切るような言葉。
「……それはまた、実際に使う段になってから考えましょう。とりあえず今は、想定通りのシナリオで進んでいる訳ですから」
「そうですね……」
想定通りのシナリオ。
正確に言えば全くその通りと言う訳ではないものの、その範囲内での事態の進行。
「十川君には随分気の毒な事をしてしまいましたが」
小川さんの言葉に頷く。
想定していた中でもっとも過激、というより大胆なパターンだ。だがそれだけ、十川君の受けた衝撃は大きいだろう。
「彼には私から連絡しますよ」
そう答えてから、自分のスマートフォンを取り出し、しかしまだ早いと思い直してからそれをしまった。
彼には何も知らせていない。
恐らく今頃、彼も随分混乱してしまっているだろう。
全てを明らかにする時が来たら、私は彼に素直に詫びるしかない。
しかし同時にまた、ただ一つだけの弁明をするつもりだ。
これは全て息子の為だったのだと。
※ ※ ※
目を覚ます。
枕元の時計はまだ早朝と呼べる時間を示していて、厚い遮光カーテンの隙間から差し込む薄水色の光りが、時計が狂っている訳ではない事を示している。
「……」
ベッドから体を起こすと、床に転がっているヴァルター2000が目に留まった。
昨日の夜どうやって寝たのか、それ以前にどうやってゲームを終えたのかは覚えていない。
部屋の照明が消え、ゲームの電源も落ちている事から寝落ちした訳ではないのだろう。
――だが、そんな認識に何の意味がある。
「……」
体を起こし、ベッドに腰掛ける。
足下に転がるヴァルター2000を正面に見る。
「……どうしよう」
カラカラな気がする口から漏れたその声は、自分でも驚くほどに弱々しく震えていて、まるで泣き出してしまう直前だった。
――声が精神状態を表しているという説を俺は今なら実証できる気がする。
俺は狂人だ。
昨日の夜に証明されてしまった。
「……どうしよう」
もう電波本の珍説を、電波本の珍説であると笑う事は出来ない。俺はその電波本なんかよりもいかれているのだ。
何しろ、空想と現実の区別がつかなくなっているのだから。
「……ちくしょう」
鼻水が急に出てくる。
目の奥が重くなる。
視界にモザイクがかかる。
俺は狂ってしまった。
その狂った頭の正常な部分は、精神病院に通うという至極まっとうな答えを導きだし、そしてそれがもたらす周囲への影響を計算し始めている。
周囲への影響:自分の息子が精神に異常をきたしているというその事実を知った親。
最初にイメージしたもの――井出の病室。
流石にああはならない。それは分かっている。だが、それでも。
希望的な意見:精神の病は体の病同様誰でもかかる可能性がある。精神の健康への認識は改まりつつある。
――それがどうした。
何をどう言いつくろった所で、俺が狂人であるという事実は変わらない。
「いや、違う……」
そのまともな思考に反論を試みる。
きっとお疲れなんですよ――掘り起こした昨日の記憶の中で、イオが俺に言った言葉。
そうだ、俺は疲れていただけだ。
ただ記憶の混乱が発生しただけだ。
ファントムがイオの視覚情報上に存在しなかったのは、奴が何らかのトリックを使って姿を消していたからと説明できる。
――ファントムが接触を取ってきたのは全て俺が一人でいる時だ。
必死で組み上げ、縋りついた仮説は蘇ったその記憶によって脆くも崩れ去った。
最初のネットの書き込み以外。即ち古城での伝言や、昼のビノグラットでの会話。そして昨晩の出来事――全て俺以外の目撃者がいない。
イオからすれば、ただ俺がファントムに会ったと言っているだけだ。
俺は狂っている。
いや、狂っていない?
理性は前者。感情は後者を支持。
しかし納得がいくのは、いってしまうのはどうしても前者だ。
「病院か……」
精神病院に行けば治療は出来るだろう。
だがそれは同時に、自分が狂人であるという事を自分自身で認めてしまう事を意味する。
自分の息子が狂人だと知ったら?それもかつて没頭して引きこもってまで続けたゲームを再開してそうなったと知ったら?その失望は、嘆きは、いったいどれ程のものだろう。
精神病院に通院する事は何も特別な事ではない。体のどこかが悪くなったらそれぞれの医者に行くように、心の具合が悪くなったから見てもらうだけだ。
誰かが何かでそんな事を言っていたような気がする。
だが、そんな事が何の慰めになる。なんの足しになる。
――いっそのことなかったことにするか?
昨日の事は悪い夢だったと忘れてしまえば俺の心の中の事だけで済む。
そうすればいつもと変わらない平凡な日常に帰ってこられる。こんな風にベッドの上ですすり泣きながら自分を呪う事のない日々に。
そちらに転びかけた心を反対側から引っ張る声がする――そんな事をしていたら悪化するぞ。
だがそれに更に反駁が湧きあがる――だがそれで作戦を中止してもらうのか?自分は狂ってしまったのでこれ以上無理ですと言って?貴方の息子も多分狂っていると言って?
「どうしよう」
もう一度絞り出したそれを正確に聞き取れるのは多分世界で俺だけだった。それは最早嗚咽でしかなかった。
ベッドにもう一度転がる。
膝を抱くように体を丸め、胎児のような姿勢を取る。
歪んだ視界に映った世界=慣れ親しんだ自分の部屋。
しかしそれが今では知らないものに思えてきた。ここは自分の家、自分の部屋。それが事実であるとは到底思えなくなっていた。
この世のどこにも俺のいるべき場所はない。
ここはどこか誰かの別の家で、俺の本来いるべき場所ではない。
その疎外感が全てに広がっていた。
それから逃げるように俺はよりしっかりと胎児の姿勢を取る。
ただ自分の影が作り出す暗闇だけが、己のいるべき場所のように思えた。
その暗闇が自分を包んでくれればよい。
そのまま飲み込んでくれればよい。
狂った自分と、それが故に拒絶されてしまった世界を全て消してしまえばよい。
――この世からいなくなってしまえば、きっと一番楽なのだ。
一体どれぐらいそうしていたのか。或いはそのまま寝入ってしまっていたのだろうか。
枕元に置いていたスマートフォンが着信を告げる。
だが出る気にならない。
それに出てしまえば、外の世界に引き出されてしまう。狂っている自分自身を誰かに晒してしまう。それによって自分が狂っていると認めざるを得なくなってしまう。
だが出なければいけない。
己に何も異常がないと伝えるために。それを示すために。
普段なら何も気にせず出るのだから。
それをしないでいるという事が既に、自分に異常が起きていると認めてしまう事なのだから。
しばしの葛藤。それから俺はスマートフォンのカバーを開け、その呼び出し画面を見る。
既に時間は九時を過ぎている。
表示されている名前:井出お父さん。
「……はい」
何とか最大限声を作る。
「おはようございます。すいません朝早く。今よろしいですか?」
「あ、ああ。はい。おはようございます。は、はい。……大丈夫です」
平常心を装わなければいけない。
さも自然であるかのように振る舞わなければいけない。
だがその思いとは裏腹に、電話の応対は非常にぎこちなかった。
「昨夜は大丈夫でしたか?木梨さんから話は伺いました」
びくりと、心臓を鷲掴みにされたような錯覚が全身を駆け抜けた。
「あ、あ、あの……」
何か言わなければ。
何とか取り繕わなければ。
脳みそだけが虚しく空転する。
「安心してください。君は狂ってなどいません」
「え……?」
続いた言葉はあまりにも予想外なものだった。気の抜けた声が思わず漏れてしまうような。
そしてそれが聞き違いではないと証明するように、井出父の言葉は続く。
「詳しくはまだ言えませんが、昨日の一件、全てファントムの仕組んだトリックです」
(つづく)
心折れたところから新章開始します。
続きは明日。




