ビノグラットの恋人2
巨大な城壁。
その周囲に広がる田園の緑と、歪な水玉模様のような大きな白い雲がゆっくりと流れていく青い空の中間にそびえ立つそれは、ここから見るとまるで一枚の絵画だ。
傍から見ると美しい、かつてのこの国の首都はしかし、日光を受けて山のような威容を見せつけるその城壁の向こうに永遠に終わらない戦争を抱えている。
その戦場に向かい、俺達は歩き出した。
先程と並び順は同じだが、ペースが幾らか早くなっているのは、そしてその理由がそれまでより早足になったイコルにあると思うのは、俺の気のせいだろうか。
まあ、行くしかないのだ。ここで時間をかけても仕方がない――自分にそう言い聞かせながらも、俺は後ろに流れていく左右の風景を眺めていた。
今歩いている舗装はされていない街道は、先程までの、砂漠の中を突っ切ってきたそれと比べれば少しは広いものの、馬車が通れば斜面になっている道の端ギリギリに避けなければならないだろう。
どうして端が斜面になっているかといえば、まさしく今後ろに流れていっている広大な湿地帯にある。
砂漠とは打って変わってこの辺り一帯は沼や湿地が多く、この街道はその真ん中に堤防のように、或いは橋のように目的地であるビノグラットまで伸びている。
干拓や埋め立て、街道の舗装や幅員増大が行われないのは防衛上の理由と言われているが詳細は不明だ。
だが、そう考えても不思議ではない程に、先程越えてきた要塞からこの街道は丸見えで、周りに遮蔽物も逃げ場もない。
そしてその湿地と乾いて固まったこの街道の土とを区切るように、斜面の下に生えた大量の葦や蒲が、時折吹き抜ける風にさわさわと音を立てて揺れている。
何とも平和で呑気な夏の雰囲気――暑さも調整されていて言う事なし。
そのまましばらくその景色が流れていくのを脇目にして進む。
道は何度かカーブし、目的地に接近と迂回を繰り返すようなコースを辿るが、少しずつ少しずつ城壁がこちらに近づいてきている。
いつの頃からか、左右の湿地帯や沼地は緑の田園に替わっていた。
しっかりと育っている背の高い稲。それがどこまでも続いていく広大な水田。
遠くに案山子と、それによく似たシルエットの農夫がぽつぽつと見える。
のどかで平和な夏の水田。
俺に田舎はないが、ゲームの中なのにも拘らずこの光景を見るとどこか懐かしいような気がするのはどういう事だろうか。
その平和な稲は、先程の葦や蒲と同じく風にさわさわと揺れ、水田に張られた水は日の光を受けてキラキラと光っている。
きっと、これから向かう戦いなど全く関係なく、これらの稲は秋には金色になって刈り取られるのだろう――現実であれば。
「平和だな……」
思わず口を突いた呟きは、イオにだけは聞こえていたらしい。
「そうですねぇ……」
俺と同じ方を見て、同じく呑気な声を出す。
これから向かう先を考えれば、あまりにも不釣り合いな程ののどかな風景。だがそれが妙に強烈に目を引き付けている。
――子供の頃の記憶が不意に蘇ってくる。
まだ小学生の時だ。俺は友達とふざけていた。そしてその時に、勢い余って教室の窓ガラスを割ってしまった。
幸い誰も怪我はしなかったし、割れた部分も小さくて済んだ。
当然、担任には散々怒られたし、放課後に残されて反省文も書かなければならなかった。
だが、問題はそこではない。
担任は母親にそれを伝えるつもりだったし、実際に伝えられた。
今の小学生がどうかは分からないが、俺の通っていた小学校には連絡帳という物があった。
朝のホームルームの際に担任がクラス全員から回収し、帰りのホームルームの際に明日の宿題や連絡事項を板書したものをそれに写す。
そして、別途連絡事項やプリントがある場合はそれを書いたり挟んだりして持ち帰り、保護者に毎日見せるのが決まりとなっていた。
連絡帳を出しなさい――反省文を提出した俺に担任が言ったその一言がどういう意味なのかは、当時子供の俺にも嫌という程よく分かった。
そしてそれから数分後、返された連絡帳をランドセルに入れての帰り道は、いつもより色々とよく見えたのを覚えている。
公園で遊んでいる下級生や、スーパーから出てくる近所のおばちゃん達。
傾きかけた夕日に照らされた公園の遊具の長い影。細い道を走っていく軽トラックと、その後ろを何か話しながら追いかけていく中学生二人の自転車。
無尽蔵に湧いてくるのではないかとさえ思えた落ち葉が、通学路を進む重い足取りの下でサクサクと音を立てていた。
冬の始まり頃の事だった。
天高く馬肥ゆる秋――その言葉をしっかり表したような青空は、半分くらい紫に、もう半分はオレンジ色になっていた。
平和でのどかで、変わらない日常。
今の自分には絶対に手に入らない、しかしどうしても欲しいもの。
そのスーパーも今は駐車場になってしまっていて、公園の遊具も撤去されてしまっているが、その時の光景は今でもしっかりと思い出すことができる。
結局、そういう事なのかもしれない。
「……いや、いけないな」
「え?どうしました?」
再びの呟き。反応はやはりイオだけ。
「いや、しっかり気合を入れないとと思ってさ」
「そうですか……」
少しの沈黙。数秒間のそれの後、イオは――穏やかに笑みを浮かべて――俺の方を見上げて口を開いた。
「ビノグラットに着いたら、今日はこれまでにしましょうか」
その提案に思わず沈黙したまま彼女の顔を見返す。
それから、自分が失言をしてしまったのではないかと思い至るまでは決して時間はかからなかった。
「あっ、いや、済まない。大丈夫だ俺は。そういうつもりでは……」
「いえ。あの、私の言ったのはそういう意味ではなくて――」
そしてその答えが来るのは予想していたのだろう。イオはすっぱりとそう否定した。
「ビノグラットの事は私も知っています。……正直な所、私も出来れば首を突っ込みたくないところです」
流石に前に二人に聞かれるとまずい。イオはそう考えたのか声を潜める。
――正直意外だ。イオがこの世界で行きたくないところがあるとは。彼女の立場から考えても、なんとなくこのゲームの世界に嫌いな所や避けておきたい所などないとか言いそうだと思っていた。
或いはこれも、没入阻止プログラムの一環なのだろうか。
確かに今日は昼休みを除けば朝から続けている。メニューを開いていないので正確には分からないが、今は恐らく午後四時過ぎか、もうすぐ五時かその辺りだろう。
流石にこれだけ一日中没頭すれば十分といわれてもおかしくはない。
「ですが行くのなら、しっかりと万全の状態で挑みたい。今日は色々ありましたから、デンチもお疲れでしょう?」
イオは更にだめ押す。まあ、確かにそうだろう。
ビノグラットで発生する戦闘はほとんどがPvP=プレーヤー同士の戦闘だ。となれば何をしてくるのか分からない以上無理は出来ない。
――だが、あそこで手に入るかもしれない情報はどうする?
「あの、ギュンターさん!」
「はい?なんすか?」
俺の考えを先読みしたのか、イオは前を行くギュンターを呼び止める。
「お会いする予定のファントムという人、いつもビノグラットにいるのですか?」
ギュンターは少しスピードを落とし、考え込むように僅かに上を見ながら腕を組む。
「うーん……、自分が聞いた話ではそのはずっス。あっ、でも夜にしか出てこないとかいう話も聞いたことあるッスね」
夜にしか……ね。
厄介な点が増えた。ビノグラットの戦闘が最も激化するのは=最もアクセスが増えるのは夜だ。
まあ、人が一番いる時間帯に現れるのは理に適ってはいる。或いはファントム自身、普段はその時間にしかアクセスできないのかもしれない。
「そうですか。なら、会いに行かれるのはやはり夜を待ちますよね?」
「まあ、そうッスね」
このやり取りでイオの考えが決まった。
その見立てが正しい事はすぐに証明された。
イオが再び俺を見上げ、先程同様の小声に戻す。
「――という事ですから、今日は到着したらお休みください。……彼らには、私から何とか言っておきますから」
外堀は埋まった。
まあいいか。そもそもこれが没入阻止プログラムなのだとしたら、従わない訳にもいかない。
自身の健康もそうだが、プログラムを実行しているイオに――或いはプログラムを組んだのだろう木梨さんに――迷惑をかけてしまうかもしれない。
それなら仕方がないか。そう思った所で、ギュンターが――今度はこちらから呼んだわけではないが――再度振り向いた。
「あっ、とりあえず着いたらッスけど、自分らはイコルの弟の所に行くッス。お二人は?」
まあ、そうなるだろうな。
こいつにしたら多分ファントムよりもそっちが本命だろう。
問いかけに俺達はもう一度顔を見合わせ、それから俺が答えを返した。
「なら、自分らも付いていっていいですか?どうせ昼間はすることもありませんし」
「ああ。それなら勿論ッス!来てくれるなら心強いッス!」
声を弾ませるギュンターから三度イオへ。
声も彼女がそうした位にまた落とす。
「良いだろう?」
「まあ、デンチの負担にならないのなら」
そんなやり取りをしながら、俺達は田園を抜け、満々と水を満たした広い堀を渡る。
川のような幅のそれを渡れば、これまで遠くに見ていた壁は、もう目の前だ。
ビノグラット=旧ウルカン公国首都。
その北側の入り口である巨大な鉄の門は俺達を飲み込むように奥に向けて開いている。
(つづく)
また間が空いてしまいました。
次でようやく市街地に入ります。
次回は恐らく11/2(金)頃になるかと




