最終話 不可能を信じない少女
あと二、三話などと言ってすみませんでした。
この話で完結です。
あとがきは一応活動報告にのせておきます(愚痴っぽいので注意)
読了本当にありがとうございました。
自分が眠りから覚めたなと自覚したとき、人は必ず目をひらくものである。目覚めとともに時計を探す習慣からなのか、眠りはじめと周囲の環境が違っていないか確認したいだけなのか。とにかく、意識が眠りから覚醒してもそのまま瞳を閉じ続ける人間は珍しいものである。
それについてはソフィーも例外ではなかった。
ふとした瞬間、ソフィーは自分が目覚めていることを悟った。
瞳を開ける。
(知らない天井だ……)
何度もまばたきをして、ぼやける視界をクリアにしようとする。だが、なかなか視界は晴れない。
(どこだろう、ここ)
ソフィーの身体はベッドに横たえられていた。厚めの掛け布団を上からかぶせられている。
とりあえず首だけを起こしてあたりを眺めてみる。
屋内の一室であることは明らかである。日の光がさんさんと窓から差し込んでいて、磨き上げられた床板に反射して時折まぶしく感じる。室内は広々としていたが家具などは置かれておらず、無駄にあまったスペースを眺めていると少々寂しさがつのるようだ。
ソフィーは室内の静謐な雰囲気に既視感を覚えていた。ソフィーが記憶を探っていると、部屋の外からカラカラカラ、と聞き覚えのある音が耳に届いた。
(あ、病院だ)
今の音はナースが点滴などを積んだ荷台を運ぶ音であろう。
(そうだ、私、世界間転移の最中にイレギュラーに巻き込まれて……なんで病院にいるんだろう。ひょっとして身体のどこかが失くなってたりするのかしら)
ソフィーは布団の下で身体をごそごそと動かしてみたが、幸運なことに五体満足のままだった。
ソフィーは布団をはいで上体を起こして……びっくりして思わず身体が硬直する。
今さらながら、ベッドの真横に人間が座していることに気づいたのだ。
その人物は木製の丸椅子に腰掛けて、こっくろこっくりと船をこいでいた。うなだれた頭部がぐわんぐわんとメトロノームのように前後している。暇つぶしのつもりだったのか太ももの上には書物が開かれていたが、無論読まれることはなく、今は股の間に背表紙が沈み込んでしまっている。
ソフィーは彼女をまじまじと見つめた。
(あらやだ、ミュウじゃないの……)
ミュウは居眠りを続けていて、ソフィーが起きたことに気づく様子もない。ソフィーは起こそうかとも思ったが、ミュウが「むにゃにゃ、うへへ……」などと気味の悪い声を出しながら笑っているのを見て、楽しい夢の邪魔をするのは悪いかとためらいを覚えたその瞬間、
ミュウの身体がついにぐらりと傾いた。バランスを崩して床にびたーんと身体を打ちつけた。
「むにゃあ、痛いんだよ……ソフィー……うへへ……」起きる気配は微塵もなかった。
(ええ……なんでよ)
痛がって喜ぶ友人にソフィーが軽くひいていると、
「ん……? あれ、私、なんで床に寝ているの……?」
寝ぼけ眼を手でこすりつつ、ミュウが起き上がって不思議そうにあたりを見渡している。
そこで、ソフィーと目が合った。
ミュウはバネ仕掛けのように跳ね起きると、ずずいっとソフィーに顔を近づけてきた。茶色い瞳を充血させて、疑心に満ちた表情がソフィーの目の前に広がる。
「体調は大丈夫? 目まいする? 痛いところとかはない? なんか一緒に食べる?」
言葉を一つ言う度にミュウの顔がどんどん接近してくる。ソフィーの身体のすみずみを点検せんとばかりだ。ソフィーはさすがにうっとうしくなって友人の肩を押し返した。そうしなければ彼女はベッドの反対側から転げ落ちてしまっていただろう。
「あ……ご、ごめ……」
ミュウは慌ててソフィーから距離をとった。
「でもよかった……。ソフィーってばまるまる二日目を覚まさなかったんだよ。こっちもいろいろ大変だったんだから!」
ミュウは少し泣きそうな顔をしていた。
ソフィーはミュウの顔を見つめた。06世界を訪れる以前に比べて少し痩せただろうか。彼女の目の下には黒くクマが出来ていた。目が充血していたのは、興奮したためではなく単に寝不足であったためだろう。そういえば、ミュウがふりまいているいつもの甘い匂いも今日は感じられない。
(心配してくれたんだなあ……)
なんとなくミュウの苦労が分かってしまうソフィーであった。
ソフィーは手話でミュウに尋ねた。
--ミュウ、ベルは?
「ああ、ベル……」
ミュウは近くにあった台座に歩み寄る。台座の上には白い仮面が置かれていた。仮面は目を閉じており、どうやら眠りこけているようだった。
「ベル、起きなさい。早く起きなさいったら」
なかなか目を覚まさない仮面に業を煮やして、ミュウは手をグーの形に握りしめると、テーブルの上のお煎餅でも割るような調子で仮面の中央に拳を振り下ろした。
「おうふっ」
「起きた? ベル。今ね、ソフィーが目を覚ましたの」
「起こし方ってものがあるでしょうに……え、ていうか、え? ソフィーが?」
「うん。あの通り」
ベルはソフィーを一目見るなり「はあ、よかった……」と安堵のため息をついた。
ソフィーはミュウから仮面を手渡される。
(もしかしてあなたにも心配かけちゃったのかしら)
「そりゃもう、多分に。でもよかったです。こうして二人で無事に帰ってこられて。一時はどうなるかと思いました」
「あ、またそうやって二人だけで会話する~っ」
ミュウは口をとがらせて不満をあらわにした。
仮面がミュウの気持ちをくみ取って、ソフィーにある情報を伝えた。
「ソフィー、世界封鎖を外部から妨害していたのはミュウだったみたいですよ。カテリーナの助力を得ながらも徹夜で魔法陣にはりついていたって、ユーマーから聞きました」
ソフィーはミュウに視線を移した。
ミュウはしばらくもじもじしていたが、意を決してソフィーにあるお願いをした。
「あの、いや、その……抱きついても、いい?」
ソフィーは目をぱちくりとしていたが、くすりと笑うと、
「いいよ」
その言葉を聞いた瞬間、ミュウはソフィーに向かって飛び込んでいた。胴回りに腕を回すと、ミュウはソフィーのお腹に顔を埋めてそのまま動かなくなった。
ソフィーはミュウの肩が震えていることに気づいていた。ミュウはわざと下を向いているので分からないが、きっと涙も流しているのだろう。ソフィーは少しからかってやろうかと、ちょっぴり悪戯心がわき上がったが、それはやっぱり止めて、ミュウの背中をぽんぽんとやさしい手つきで触ってあげた。
「ソフィー、どこもおかしくないよね? ちゃんとソフィーだよね?」
下からくぐもった声が聞こえてくる。
「おかしいって、何が? 身体に異常はないと思うけど」
「頭のこと。最近、呪害のせいで精神障害を引き起こす人が増えているから……記憶をなくしたり、幼児退行化したりするの」
「大丈夫よ。私はミュウのことちゃんと覚えているわ。ミュウとの思い出、全部」
「嘘ついてない?」
「うん」
「心配したんだから」
ソフィーを抱く腕の力が強くなる。
「……ミュウ、ありがとね」
ソフィーはミュウの頭をゆっくりなでた。
ミュウは泣きながら笑っていた。大きかった不安が急に反転して安堵に変わったためか、ミュウの中で何かが決壊していた。止めどなくあふれ出るのは、胸の奥までじんじんするような、ぽかぽかした温かい感情。
「えへへ。もっと頭をなでておくれ~」
茶化すような言葉を話しながらも、ミュウはしばらくソフィーを抱きしめたまま放そうとはしなかった。
☆ ☆ ☆
ソフィーは再びベッドに横になっていた。
あれからいろいろ大変だった。
まずお見舞いにクォームがやってきて、ソフィーが目覚めていると知って病室ではしゃぎ回って、巡回のナースにこっぴどく怒られた。「病室ではお静かに!」とのことだ。続いて、ソフィーがいつもの黒服ではなく病院から貸し出された青色のパジャマを着せられていたのに気づいて、クォームとミュウが団結してソフィーをおちょくり始め、ソフィーが不機嫌になって言い合いになり、また巡回のナースにこっぴどく叱られた。
そして、ソフィーの左足が呪害のせいで動かない事実が明るみに出てからは、もう手のつけようがなかった。顔面を蒼白にした友人二人。クォームは声こそ上げなかったもののなぜか涙をボロボロ流して、普段からその程度のことは覚悟していたソフィーに逆に慰められる始末。ミュウは自分の頭を壁にゴンゴンと叩きつけながら「何か忘れてる、何か忘れてる」とつぶやいてソフィーの話など聞かない。
「ミュウの話、眉唾物ですけどね。呪害を治す魔草なんて……」
(そうでもないわ。実は噂だけは聞いたことがあったの。ローザンヌ学院を卒業したら東に赴いてみようと考えていたくらいよ)
ミュウが例の魔草の話を思い出すと、薬屋のレギーにソフィーの話をするべく転移魔法の使用できる時刻を調べ始めた。ソフィー、ミュウ両者の見立てによれば、廃棄マナが定着してずいぶんたつ声帯は治せなくても、呪害になって日が浅い左足なら治癒の可能性はあるだろう、とのこと。それを聞いたクォームが少し安堵して泣き止んだのだが、ミュウが薬屋レギーへと転移する間際に「ただあの魔草の需要を考えると、百本の相場はかなり上がっているかもねえ……」と余計なことを口走り、それを聞いたクォームが何故なのか「私出稼ぎに出るっ」と言い始めて聞かなかったり……
(クォームには困っちゃうわ。お金を稼ぎたいって気持ちは嬉しいけど、何で出稼ぎなのよ。そりゃあ都市部には仕事の一つくらい転がっているでしょうけど、労働者の生活ほど過酷なものはないわ。クォームにつとまる仕事なんてあるわけないし)
第一、クォームは魔法使いであった。一般人として都市部で労働に精を出すよりも、魔法使いといての仕事をした方が実入りがいいにきまっているのだった。
(いくら説明しても聞かないし……出会った頃はあんなに強情な子じゃなかったのに。もっと内気な少女のはずだったわ。人って変わるものね)
「いやあ、愉快なものを見ました」
(ベルもベルよ。いひいひ笑うだけで私の通訳してくれないんだもん。最悪。結局クォーム追い出されちゃったじゃない)
「おもしろかったもので」
(…………)
ソフィーは不意に押し黙ると、天井をぼんやりと見つめた。
「どうしました?」
(レイチェルとハグレ、ペルヘルバスとイシュリーン。みんなどうしてるのかな)
「消息は分かりませんでしたからね。無責任な言葉かもしれませんが、四人とも生きているような気がする、とだけ言っておきます」
(きっと……そうよね。一番考えられるのは、扉の出現座標がずれたこと)
「足が治れば……探索するつもりですか?」
(あまり公には出来ないけどね。知り合いに情報提供をお願いしないと。特にレイチェルね、あの未来的知識の塊が悪用されでもしたら、たまったもんじゃないわ。ペルヘルバスは……そっか。エルシアのことを考えたらペルヘルバスの方を先に見つけなくちゃかしら。彼ら二人で生きていけるかも不安だし)
「あの場でアイリーンを思い出してしまったのは分からなくもないですが……それでもソフィーは彼らに甘すぎると思いますよ。彼らの行動が侵略戦争を引き起こしかけていたことは、ゆめゆめ忘れるべからずです」
(そ、そりゃあ、そうかもしれないけれど……約束もしちゃったし……)
何かから目をそらすように、ソフィーはごろりと寝返りをうった。
(ねえ、ベル。06世界でね、ペルヘルバスがこんなこと言っていたの。『ソフィーは挫折を知らない目をしてる』って。私、挫折ならいっぱいしてると思うんだけど……彼、何が言いたかったのかな)
「そんなこと言ってましたっけ? うーん。ソフィーの言う挫折って、何ですか?」
(え? ……研究で壁にぶち当たったり……とか)
「それは真の意味で挫折とは言わないんじゃないですか?」
(どういうこと?)
「ペルヘルバスの言う挫折とは、大きな流れの中で自分の矮小さを思い知らされること、じゃないかと思います」
(矮小さ……? 変なの! 私、自分の大きさも分からないのに、自分が矮小だなんて決めつけること出来ないわ。だってねベル、きっと私ね、これからまだまだ成長するもの)
仮面は目を細めた。口元がにやけている。
「そうですね。その通りです。それで良いと思います」
そのとき廊下から叫び声がした。大量の物体が床に落ちる音、ナースの怒声が部屋にまでもれ入ってくる。「申し訳ないです~」と気の抜けるような声もその場に混ざっていた。
「ミュウですか。転移魔法の出現座標を間違えたのかな」
(練習中だって言ってたっけ。もう少し安全な位置に転移すればいいのに。建物の支柱とか削ったらどうするつもりなのかしら。下手したら病院が崩壊しちゃう)
「考えていないんですよ。緊急時以外じゃ阿呆みたいに抜けてる人だから」
(そうだったわね)
ソフィーは腕を頭の上につき上げて、うーんと伸びをした。
(何か……何かが始まる予感がするわ。あのね、私すごくドキドキしてるの。メリオドグラのこともそうだし、レイチェルも……停滞していたものが動き出している感じ、ベルには分からない?)
「僕には何とも……、やることがいっぱいだってことは分かります」
(そうね。その通り。きっと、あっという間に春が来て、いつの間にか夏まっ最中になっていて、気づいたら空気に秋が混じっていて、そして去年の今頃は何してたっけ、なんて想いながら冬の雪を踏んでいるわ)
「忙しそうですね」
(私にはそれくらいが丁度いいの。時を忘れるノンストップほど楽しいことはないわ)
ソフィーは腕を天井に向かって伸ばした。
天井のその先の、雲の上のそのまた先にいるはずの、たった一人の姉へと向けて。
(今は背中を追いかけるだけで精一杯だけど、いつかはきっとあなたのように……)
と、病室のドアがガラガラと開いた。ナースの言及から逃れてきたミュウが、手を上に突きだしたまま横になったソフィーを見つけた。
「ソフィー、何してるの~?」
「ん、何でもなーい」
☆ ☆ ☆
「ここはどこですかぁっ!!」
青みがかった灰色の髪が風に打たれてのたうっている。風と言うより嵐といった方が正しいか。空は端から端まで真っ黒な暗雲に覆われおり、ゴロゴロという音とともに、時折筋のような稲光が暗雲から顔をのぞかせる。雨こそ降ってはいないが、風はとても強く、小さい子供だったら簡単に吹き飛ばされてしまうだろう。
「誰か居ませんかぁっ!! 助けてくださあいっ!!」
ハグレの目の前に広がっているのは、水平線まで続く広大な大地。木や草はまったく生えておらず、見渡すかぎり石ころと砂利に覆われた大地には、巨大な岩石が置物のようにぽつぽつと距離を置いて鎮座してる。
ハグレの声に反応する人間は一人もいなかった。人どころか生き物すら見あたらない。
「こいつはまずいぞ。世界が現存しているんだから06世界は脱したんだろうが……、いかんせんオレにサバイバルは無理だ。なぜなら知恵がないもん。うう……、ソフィーはどこにいるんだよっ。は、まさか捨てられたのか……? そんな……」
暴風がハグレをなぶってくる。ときどき小石や砂粒がすごい勢いで飛んでくる。腕で顔を守らなければ、割とまじめに失明の可能性すらあるように思える。
「レイチェルは目覚めないし……。ああ、喉かわいたぞぉ……」
ハグレはしょんぼりとして大地に座り込んだ。尻や足の裏にゴツゴツした砂利がくいこんで痛い。
すると、
--レ、レレ……
「え、レイチェル? 起きたのかっ?」
ハグレは小さな妖精の姿を探したが、レイチェルの影は見あたらない。しかし彼女の声は聞こえてくる。どこから聞こえているのだろうと不思議に思っていたハグレであったが、やがて合点がいった。
「そうだ。レイチェルのあの姿は、『幻覚魔法』だかで投影された仮の姿に過ぎないと言っていたもんな。つまりレイチェルはオレの中からオレに直接話しかけているんだ。そうなんだろ、レイチェル?」
ハグレはレイチェルに語りかけたが、まともな反応は返ってこなかった。
--エラー、レレ、確認、レ、中……支援サーバーとの接続、レレレ、不可
「レイチェル、どうしたんだ? 具合悪いのか? じゃなかったらしっかりしてくれ。あんた『生命支援魔法』なんだろう? その名前の通り、今度もオレを生命支援してくれ」
--宿主に、レレ、警告、充填、レ、ください 宿主に警告、レ、マナを充填してください
「え? マナ? ああ、あの真っ暗な通路で魔法を使っていたもんな。それでお腹すいているのか。っても、あんた、ソフィーの体内マナでしかマナの充填が出来ないんじゃないのか?」
--管理者の不在を確認、レ、非常事態を確認、大気マナの吸引に移行……却下、廃棄マナの異常値を検出、人体に有害なレベルである
「レイチェルったらどうしちまたんだ?」
--この場からの離脱を最優先に、管理者の捜索を敢行……、宿主に通達、活動権の強制譲受を開始します
「え、おいこの、レイチェルっ」
ハグレの身体があっという間にレイチェルに乗っ取られてしまった。すぐさま反抗して活動権を取り返そうとも考えたが、以前レイチェルに「活動権を強奪しないでくれ」と言われていたことを思い出し、ためらいを覚えてしまう。
「レイチェルの様子もなんかおかしいし……素直に従っていた方がいいのか? っておい、レイチェルどこに行くんだっ。待て、当てもなくさまようのは得策じゃないっ。こらポンコツめ、言うことを聞け!」
ハグレの身体が荒れた大地を疾走している。恐ろしい速さだった。そのまま壁にぶつかれば単に怪我ではすみそうにもないほどの速度が出ている。レイチェルの身のこなしが一級品である証であった。風と一体になってハグレはひたすら前へ進む。
「レイチェル、返事してくれよ……」
--レレレレレレレレレェェェ
「どうしようもないぞ、これ……。まあ、仕方ないか」
当面は身体の運転をレイチェルに任せることにして、ハグレはこれからの展望に想いを巡らせてみた。
「とりあえず命の危機を脱した後は、レイチェルにオレの過去を聞きたいんだが……。まあ、一つずつこなしていくほかないか。そうだな、何ごとにもポジティブ取り組むのが成功への近道だ。あ、見ろよレイチェルっ、雲の切れ間からお日様が見えるぞっ」
ハグレが言うとおり、雷雲のすき間から日の光が差し込んでいた。暗雲を背景として、その日差しはまるで天空から聖なるカーテンを下ろしたようで、あまりの神々しさにハグレは思わず「うおおっ!」と雄たけびを上げた。
「きれいだなあ、レイチェルっ。あれはすごくきれいだっ」
--レェェェェェ レェェェェェ レ゛ェェェェェェェェッ
「その不安になるうめき声は止めてくれよ。熊じゃねえんだぞ。せっかくの景色も台無しだ」
すべては序章に過ぎなかった。
06世界での出来事は、再び始まった運命の開始地点だったのだ。
数多の世界が創成されてどれほどの時間が経ったのか、人間には知るよしもない。そして無限にも思える時間を巨視的に眺めてみれば、人間という生き物が何度となく同じ歴史をくり返してしまうことは自明である。似たような思想や似たような想いが、時空を越えて異なる人物に宿り、そして過去の人物と同じ道をたどらせてしまうのである。
ソフィーも、ペルヘルバスも、そして……これから世界に災厄をもたらすであろうメリオドグラも、彼女たちはどうしたって心を持った生き物で、そしてその心に従って行動するのだ。だからこそ、人の行動は心に浮き上がる思想や想いに規定され、そんな人間が重なり合うことによって似たような歴史は形成されていく。そうして歴史はくり返されていく。
そう考えてみれば、06世界の時間が巻き戻ったのは、ある意味ではぜんまいを巻く行為と同義だったのかもしれない。それを巻き戻してしまえば、あとは玩具が規定された通りの動きをするだけだ。それがたとえ救われぬ物語であっても、世界は運命をくり返すだけである。
これから発動するメリオドグラの計画もそうだった。それは過去の人物たちの手で何度もくり返されていたことで、そのたびに世界を崩壊させてきたものであった。つまるところソフィーの世界の未来は、運命は悲劇一辺倒に振られたのである。
ただ……その運命というものを信じない者たちがいる。気にいらないからという理由で運命に抗おうとする者たちがいる。そしてそういった者たちは時々、本当にわずかな確率で、運命をねじ曲げ、連なる膨大な数の前例を否定し、人類の可能性を示してくれることがある。
そういった人物を、
「勇者」
彼女たちはそう呼んでいた。
「メリオドグラの作り上げる歴史もなかなか珍しいものだけどぉ……ふふ。ソフィー・グランマレッド。汚れを知らない、その未来へと向けられた瞳の奥に、相反するようにこめられた死への恐怖、その矛盾から生まれた爆発的な、感情の、渦ぅ……。よだれが垂れるわねぇ。原石は十分に役者足りうる……あとは……うふふ、神のみぞ知る、かしらぁ?」
紅玉の瞳が闇の中からソフィーをのぞいていた。
つぶやいたのは『観測者』だ。
人から人へと渡り歩き、時の流れを遊覧する存在。
「うふふふ。ソフィーだぁいすき」
世界の枠から外れた存在は、ソフィーを眺めながらさも楽しげに笑っていた。
☆ ☆ ☆
ある日、ソフィーは学院寮の玄関に立っていた。杖の類いは使用していない。左足の呪害は無事に完治したようである。ソフィーは黒いコートを着用していた。
彼女の隣には同じくコートを着込んだミュウがいて、二人はコソコソと何かを話しているようだ。「クォーム遅~い」「出稼ぎに行ったのよ」「あはは、止めるの大変だったって聞いたけど?」「うん。寮に戻ったら旅支度終えていたんだからびっくり。ツルハシまで背負ってるのを見たときは笑っちゃった。どこから持ってきたんだか……」「なかなか一筋縄ではいかない子ですな……しかし遅い。時限制限に引っかかってしまう」「ホロニウスの系統魔法なぞ使うからよ。時限制限がゆるいのは他にいくらでもあるでしょうに」「私が好きだからいいんだもん。ホロニウスさんは格好いい」「毎度のことながらあんな髭もじゃのどこが……」「えいやっ」ミュウがソフィーの額にデコピンをくらわせた。ソフィが額を押さえてその場にうずくまる。
「お待たせしましたっ」
二人の視線が声のした方向に向けられる。寮の廊下にクォームが立っていた。クォームは膝に手を当てて肩で息をしていた。さらには玄関先から入ってくる冷気など無いかのように頬を赤くしている。大分急いで来たようだった。
「都会にお出かけなんて久しぶりだから、何着ていこうか迷っちゃって……」
「遅いよ~。転移できる時間は限られているんだからね~」
「ごめんなさい。あ、そうだソフィー、これ着けてみない? これなら黒い服にも合うと思うんだけど……。ほら、髪が短くなって首元も寒くなっちゃったでしょう?」
クォームの手には一本のマフラーが握られていた。マフラーは黒地を主体としていて、たくさんのストライプ柄が縫い込まれている。ストライプにはいくつかの色が使われていたが、全体的に見ると赤が多いか。
クォームはソフィーの首にマフラーを巻きつけようとしたが、
「やだ」
「ええっ、……着けてもみないうちにそれはないよお」
「やなもんはやだ。カラフルが過ぎるわ」
「うーん。ミュウさん、どうしよう……」
ミュウは意地悪く笑うと、クォームを手招きした。
ミュウはクォームの身体を引き寄せると、二人の首に例のマフラーを巻きつけてしまう。マフラーは長めのものだったので、二人で共用しても少しゆとりができるくらいである。
「あったか~い。ねえ、今日はこうして街をまわろうかね~」
「ですねえ。ソフィーはこのマフラーが気にいらないみたいですしぃ」
二人はにやにやしながらソフィーを観察している。
ソフィーは「ぐぬぬ……」といった表情をしていたが、我慢できなかったのか、ミュウの首からマフラーのすそをぐいっと引っ張って、自分の首にも巻きつけた。
「寂しかったんだ?」クォームが茶化す。
「あ、あなた達に似合ってなかったからマフラーがかわいそうだと思っただけだもん」
「ギブ、ギブだよソフィー、苦しいよ」
二人の間に挟まれたミュウは、マフラーが一等きつくまきついていた。
「えいっ、もうこうしちゃえっ」
ミュウがソフィーとクォームを抱き込むようにして、三人はぴったりと密着した。コートでモコモコしたいびつな三角形ができあがる。
「どうせもうすぐ転移魔法の使える時間になるし。ソフィー、あと何秒?」
ソフィーは腕まくりをして時計を見た。
「もう使用可能時間に入っているわ。逆にあと二分で使用不可になっちゃうわね」
「げ、早くしないと」
「手伝う?」
「いや、自力でやらねば練習にならない」
「急いで暴発させないようにね」
三人の周囲に大気マナが集まって、青い光が乱舞し始める。
「いくよ~?」
ソフィーとクォームは同時にうなずいた。
「じゃあ……転移魔法、起動!!」
はりのある声が冬の大気に吸い込まれていく。
玄関先に三人の姿はなかった。
少女らの立っていたあたりには、青白い光の残滓が吹き荒ぶ風を無視してわずかに漂うだけだった。




