第十二話 逆鱗
青年は剣を突きつけた姿勢のままソフィーを睨めつけている。
ソフィーはすぐには行動せず、敵をじっくりと観察し始める。
貴族、または富裕な商人一家の生まれだろう、ソフィーは一目見ただけでそう確信した。上品そうな顔立ちをしているのだ。白髪交じりの金髪は肩まで伸びており、耳の上には銀の髪飾りが光っていた。瞳は赤く、目つきは鷹のように鋭い。口紅を塗っているらしい。神経質そうに結ばれた唇が、ケシの花のように真っ赤なのが印象的だった。
青年はソフィーと同じように黒を基調とした服を着用していた。値の張りそうな生地で仕立てられた上着には、金や赤、灰色の糸によってところどころ刺繍が施されている。下のズボンも同様に刺繍による装飾が見受けられる。
(軍服のようにも見えるけど……さすがに違うわよね。にしてもプライドの高そうな男ね。口紅をつかっているのはどうしてかしら。女装の趣味でもあるのかしら)
「どうしたのだ黒ねずみ!! 怖じ気づいたのか!!」
青年は蔑むような口調で怒鳴る。ソフィーは応じなかった。彼女は草の中で身をかがめており、その目線は草の上端と一致している。青年の視点からはソフィーの顔のみが見えているだろう。ソフィーがそんなことをする理由は彼女の手元にあった。地面に板が置かれており今もチョークによって魔法陣が描かれていた。彼女は手は動かしていない。それどころか身動き一つしていない。しかしチョークは独りでに宙に浮き、彼女の求めるがままに板の上を滑っていく。ソフィーの行使する魔法の作用だ。
「なんなんだあいつ。返事もせずにじっとこちらを見て、気色の悪い。さっきは口も開かないで腹話術のまねごとをしていた。馬鹿なのか。馬鹿なのだろう。よし、こちらから攻撃してやろう」
「ペルヘルバス様っ。お待ちを。あの少女の腕にお気をつけください。彼女の腕が振られる度にいつも何かしらの魔法が起こっているのです。私は手話によるルーン詠唱ではないかと考えております」
青年は怪訝な顔をして剣を下ろし、イシュリーンの方を向いた。
「あ? 手話? 愚かなイシュリーン、何を呆けたことを言っているのだ。あやつに幻でも見せられたのではないか」
「し、しかし……私は確かに目にしたのです。か、彼女の腕が振られる度に、蒼い壁が出現し、あたりに風が巻き起こるのを……」
「おかしなことを言う……。ああ、なるほど!! 今し方やつに精神操作をされていたのか。なんと哀れなイシュリーン。あとで徹底的に検査してやる。だから今は黙れ」
青年とイシュリーンがそんなやりとりをしている間、ソフィーは魔法陣のペイントを完了させる。
(さっきの魔法陣から得た情報によれば、あの金髪が使ったのは斬撃系の遠隔魔法。原理はおおよそ、剣に流したマナの量かなにかで座標指定を行っている……まあ、それはどうでもいい。重要なのは、遠隔魔法ならジャミングが可能であろうということ……)
ソフィーはスカートのベルトを緩めると、板をスカートの下から腰部に当ててそのまま上につき上げた。板は服と背中の間の空間にすっぽりと収まる。ソフィーはベルトを締め直す。息を短く吐いて気を引き締めた。
(さて、遠隔魔法の対策はすんでしまったし。戦闘前にやることは……もう無いわね。でもどうしましょう。拘束魔法具はイシュリーンに使った一つしかないのよねえ。マナ的にもあまり余裕はないし……)
敵二人はソフィーの分からない言語で話し込んでいる。彼女は立ち上がると自分から声をかけることにした。
「そこの抜剣した金髪の人。私の名前はソフィー・グランマレッドっていうの。お名前を聞いてもいいかしら」
「あ?」青年はきょとんとした。
「お名前を聞いているの」
「……ペルヘルバスだ」
「ペルヘルバス。あら、それだけ? 名字みたいなものはないのかしら。あなたの手下は持っていたみたいだけど」
「貴様に教える筋合いはない。貴様を拷問部屋にたたき込むのが僕に課された唯一の使命だ」
「そう……。残念ね」
「敵の名を聞けず残念? さっきからお前はなんなんだ。ずっと口を開かず会話を続け、今度は敵の名を聞けないから残念がる? もうたくさんだ」
青年もといペルヘルバスは改めて剣の切っ先をソフィーに向ける。
「まずは四肢を切り落とす。くはは、案ずるな死なせはしない。しゃべるダルマにしてやろう」
そう言うと、彼は剣を横一線に振った。
再び、物をムチで叩いたような音が響き渡る。
ソフィーはその場から動かなかった。彼女はペルヘルバスの顔をじっと見ている。
ソフィーの立ち位置から左に5メートルほど離れた場所の草が、根元から切断されていた。
ペルヘルバスは唖然として、ソフィーと切断された草とを交互に見ている。
「ずぶの素人なのかしら」ソフィーが顔に笑みをたたえたまま大声で言った。
ペルヘルバスは激昂した。彼は怒りに身をまかせ乱雑に剣を振りまくった。様々な場所の草が刈り取られていく。だが透明な刃がソフィーに届く気配はいっこうに無かった。
「うわっ!」
15回目の刃がペルヘルバスの足下の草を散らした。
「ペ、ペルヘルバス様!! あの少女は――っ」
「黙って目と耳を閉じていろっ。イシュリーン!!」
「ペルヘルバス様!! 聞く耳をお持ちになってくださいっ」
「僕の命令に逆らうな!! イシュリーン!! 目と耳を閉じているのだ!!」
「魔法の妨害です!! あの少女は遠隔魔法を妨害することができるのです!! どこかに魔法陣の描かれた板を所持してはおりませんか!!」
「なにぃっ!?」
ペルヘルバスの手元が止まった。
(マナはまあまあ削れたかしら)
ソフィーは満足そうにほほえむとペルヘルバスに話しかける。
「どうせ遠隔魔法が切り札なんだろうと思っていれば、案の定ね。自分の魔法を乗っ取られる気分はどうかしら、ペルヘルバス」
「黙っていろ雌ガキ!! 今はイシュリーンに用がある!! イシュリーン!! やつは板など持ってはいないぞ!! 貴様はまた妄言を吐いているのか!?」
「様子を見るに、今さら手下の忠告を聞く気になったの? でも許されると思って? ふふふ。あなたはどうやって拘束してやろうかしら」
ソフィーはロープの剣をこれ見よがしにぶらぶらさせる。
ソフィーがペルヘルバスのもとへ駆けだした。
ペルヘルバスは焦ったように剣を二度振った。一度目はソフィーの真横の草が、二度目は彼女の真後ろの草が刈り取られる。
「くそっ!! 僕のあみだした魔法が乗っ取られる!? あってはならない!!」
「ペ、ペルヘルバス様っ!! 板を!!」
「黙れぇ!!」
ソフィーはペルヘルバスのすぐ近くに到達するとロープの剣を振りかぶる。
「調子にぃ!!」
顔を真っ赤に染め上げてペルヘルバスが叫ぶ。
「乗るなぁ!!」
ペルヘルバスは手持ちの剣を振り上げるとソフィーを遙かに上回る速度で跳びだし彼女に斬りかかる。
(速い!? 肉体強化!? でも剣筋が丸見え!!)
ソフィーは振り下ろされた剣をすれすれで避けながら、ペルヘルバスのがら空きとなった右胴にロープの剣を滑り込ませる。
(まずは適度に出血させ弱らせる。私の治療なしでは生きられない程に……!!)
ソフィーは内蔵にまで達しないように気をつけながら、ペルヘルバスの脇を浅く切りつけようとした。
その時ソフィーは信じられないものを見る。
剣を握っていたはずのペルヘルバスの右手が恐ろしい速さで引き上げられ、ロープの剣の側面を、つまり入り組んだ魔法陣を形成する針金の網目部分をむんずと掴んだのだ。
(げっ!! それは予想外っ。ていうかあの体勢からよくもまあっ)
力比べでは勝ち目はないだろう。ソフィーはおとなしくロープの剣を手放すと自由になった両手を使い魔法を発動させる。
ペルヘルバスはロープの剣を自分の後ろに放り投げると、左手に持った剣を少女の肩口めがけて――――振り下ろそうとしたまま固まる。空中に局部的に現れたソフィーの防護壁がちょうど柄の底部にぶち当たり、ペルヘルバスの剣は阻まれてしまう。ペルヘルバスは即座に蹴りを放ったがソフィーはそれを容易く避けてしまう。
(力も速度も十二分なのに……さっきから目的も持たない見え透いた攻撃ばかり。あきれた。今まであの遠隔魔法に頼りきっていた証拠だわ)
ソフィーは左手で手招きするような仕草をした。ペルヘルバスに投げ捨てられたロープの剣が宙に浮いて、ソフィーの手元に引き寄せられるように飛んでいく。そのままロープの剣を再入手するとソフィーは剣を無造作に横なぎした。突然後ろの死角から武器が現れて、丸腰だったはずの敵に斬りつけられる。ぎょっとしたペルヘルバスは急ぎ背後へと跳躍しソフィーの間合いから離脱する。
実のところこのときロープの剣に切断能力はなかった。ペルヘルバスによって剣が掴まれた際に切断魔法の核である魔法陣がゆがんでしまっていたからだ。ソフィーのかましたはったりにペルヘルバスはまんまと引っかかったわけである。
ソフィーはロープの魔法陣を瞬時に修復すると後ろに下がるペルヘルバスを追撃する。両者の距離はあっという間に詰まり、ソフィーが振り下ろした剣がペルヘルバスの右腕を切り裂く。彼の衣服が血を吸って雨に濡れたようにしっとりとする。ペルヘルバスはソフィーを遠ざけようとして闇雲に剣を振り回した。
ソフィーはペルヘルバスの無茶苦茶な動きに合わせ、まるでデュエットでダンスでもするかのように足の運びをそろえ身体を優雅に反らせる。ソフィーはすきを見てロープの剣を斜め上に一閃した。ペルヘルバスの剣の刃が柄のすぐ上の位置で鮮やかに両断される。裸同然の敵を前に少女は狩人の如く猛攻を開始した。切り離された刃が宙を舞い地面に落ちるまで、ペルヘルバスの身体には少女の手により新たに7カ所の刀傷が出来ていた。
ペルヘルバスは歯をむき出しにして叫んだ。
「イシュリーン!! 位置が知りたい声を出せ!! いったい貴様はどこにいる!!」
「ここに!! どうなさいました!?」
「もう我慢がならない!! あれを使ってしまう!!」
ペルヘルバスはソフィーの剣をあしらいつつ、不思議な響きのする声を出し始めた。歌のようにも、メロディのない単なる言葉のようにも聞き取れる音の連なりを響かせていく。魔法発動の下準備、ルーンによる詠唱だ。
(大きな魔法で一発逆転を狙うのね。でもそれが許されるマナ残量なのかしら)
ソフィーは相手がきってきた新しい手札に注意しつつ、攻撃の手をゆるめなかった。むしろルーン詠唱を妨害すべくこれまで以上に激しい攻勢に出る。ソフィーは散弾のように突きをくり出した。そのうち一つがペルヘルバスの頬をかすり、赤い線が浮き上がって、にじんだ血液は顎の下まで垂れていく。
そのときの衝撃でペルヘルバスのルーン詠唱が途切れてしまった。
しかし即座に詠唱を再開する。
ぎょっとしたのはソフィーだった。
(ルーン詠唱は今ので失敗したじゃない!! 不完全なままを魔法を強行したら暴発するかもしれないよ!! ぺルヘルバスってやっぱり馬鹿なんだわ!!)
ソフィーは冷や汗をかきつつバックステップで敵から距離を取る。
ペルヘルバスの周囲に青い蛍火のような光が舞い始める。
危険の匂いを嗅ぎとったソフィーは右手を振って防護魔法を発動させる。発動させたのは空間固定型の防護障壁で、ソフィーはそれの後ろで片膝をついて衝撃にそなえる。
ペルヘルバスは目を血走らせ絶叫した。
「恐れおののけ!! 消えてしまえ!!」
ソフィーの視界が白く染まる。眩むような光に景色の全てが飲み込まれていく。
突如つんざくような爆音が轟いた。鼓膜を突き破られた気がした。手を預けている壁面が火にさらされた鉄板のように熱を持ち、圧縮された空気は強烈な熱風となって少女の身体を削り取るようになめていく。少女は急ぎ両腕で顔を保護し歯を食いしばって身体を焼く熱に耐える。
風は唐突にやんだ。
全てが終わったとき、少女の周りには何も残っていなかった。
冗談抜きで絵の具でも塗られたように大地が黒い。なぎ倒された草は例外なく炭化して土の中にうずもれている。煙のにおいがあたりを満たしていた。
(なんだったの……熱線?)
ソフィーは瞬間的に受けた衝撃のため軽度の思考停止に陥っていた。身じろぎ一つせず、口を開けたまま呆然としている。髪や衣服はところどころ焦げついて埃まみれ。露出した白い肌には無数のひっかき傷が出来ている。一時的に壁についていた手のひらには決して軽くないやけどを負っているようだった。
防護魔法は解けていなかった。ベールは無事で今も壁としての機能を果たしていた。彼女は障壁ごしにペルヘルバスの方を確認した。
ペルヘルバスの口が動いている。彼女の耳には音が戻っていなかったが、相手が何をつぶやいているのかは簡単に理解できた。
危険だ。命の危機なんだ。
ソフィーの目に光が宿る。軋む身体にむち打って、ほとんど本能的に行動を開始する。
(あれには対抗できない。距離をあけねば……)
彼女は自分の背後を確認する。信じられないことに、背後の直線二百メートルほどが更地になっていた。木々も草花も最初から無かったかのよう。巨大な破城槌の通過によって何もかも根こそぎ押し倒されてしまったような様相だ。ソフィーは一瞬考えると、右手を振って蒼い障壁を空間固定型から使用者に連動するタイプへと変更した。同時にロープの剣を解体して飛翔魔法を使用できる形態へと変化させる。
ペルヘルバスの周囲に青い光が乱舞し始める。
威力の増した第二波が少女に牙をむく。
衝撃がソフィーの防護壁に到達する。連動型として設定された防御壁はその圧倒的な威力に押され後退する。身体に斥力を受けるソフィーはその力に逆らわず後ろ向きに走り出した。ある程度スピードにのると、彼女は両足を大地から離してブーツの底を壁面に押しつける。
同時にロープの魔法陣が輝きだす。
ソフィーの身体が宙に浮く。飛翔魔法によって浮遊するロープにしがみついて高度を調節し、壁に直撃する衝撃は横方向の推進力として利用する。襲いかかる熱流の波に乗るように、少女の身体がななめ上に砲弾の如く打ち上げられる。
「やったか……」
自分の魔法が止まったあとでペルヘルバスが肩で息をしながら言う。青い顔をして体中に汗をかいている。
「やーやー、大したことはなかった……くははっ、思い知ったな小娘、これが僕が手にした新たな力だ……」
しかしすぐに上空の彼方に浮遊する黒い点を見つけ、すさまじい形相で歯がみした。
ボリリッと歯の砕ける音がした。
「逃さない!! 塵も芥も残すものかよ!! 完全に消し飛ばしてやる!!」
彼は再びルーンの詠唱を開始する。
一方、上空で息を整えるソフィーは身体の損傷具合を確認していた。やけどや切り傷以外に目立った外傷はない。対照的に衣服はずたぼろになっていて、もはやつくろうことは不可能だろう。防護壁面につけていたブーツの底も高温のために変形してしまっていた。
(ベル、大事はないかしら!?)
「鼻が焦げました……これ治るんでしょうか……」
(よかった!! 大丈夫みたいね!!)
「ソフィー、あれはなんです? 一人の人間があんな高火力の魔法を連続でうてるはずがない。しかもやつは疲弊していたんですよ。……遠隔魔法の機構を利用したものなのですか?」
ソフィーは仮面の疑問に答えることができなかった。
違和感。
はじめ頭が重くなったような感覚を覚え、頭痛、さらには急激な目まいに襲われる。髪の毛の重さも増したようで、頭皮が引っぱられ鈍く痛みがはしる。あまりの重みに首がすくむ思いがしたかと思えば、今度は肩、腕や胴体から脚部へと重さの感覚が身体の内側を下へと巡っていく。身体全体が上から押しすくめられたように感じられた。ロープの飛翔魔法では耐えきれなかった。一拍をおいて、翼をもがれた鳥のように少女の身体は落下し始めた。尋常ではない落下速度だった。
ソフィーはそれがペルヘルバスの魔法の作用だと気づいた。
(じゅ、重力魔法……!? 距離をおいたことで油断していた、ここまで届くなんて……!!)
少女の右手を振って自分も重力魔法を行使する。自分の周囲にしぼって増大した重力を緩和させることに成功する。飛翔魔法と自分の重力魔法を組み合わせ、宙に浮くことは叶わないまでも、徐々に減速し大地に叩きつけられることは回避する。
綿毛のようにゆっくりと降下しながらも、少女はペルヘルバスから離れる方向に移動していた。
周囲を見渡して、ソフィーは息をのんだ。そして恐怖した。
あたり一帯の森が見事にはげ上がっていた。ペルヘルバスの重力魔法がそうさせたのだ。自重に耐えきれず葉がちぎれてしまったのだろう。枝がへし折られ幹一つになった裸の樹木も多数そびえていた。ソフィーはいつの間にか自分が冬の森に迷い込んでしまったような錯覚を覚えた。
重力魔法の効果範囲はペルヘルバスを中心として、中心角45度ほどの扇形の様相を呈していた。ソフィーは視線をさらに遠くに向けた。そこでは現在も重力魔法の浸食が進んでいた。次々と緑が地面に貼り付けにされていっている。
(まだ効果範囲が拡大するの……!?)
「ソフィー、あいつの魔法の正体が分かった気がします」
(ええ、こんな大規模魔法を個人で行使するなんて、手段は一つしかない)
ソフィーは悔しそうに顔をゆがめる。
(光熱魔法に重力魔法……間違いない。キリングワードだわ……!! 先をこされた……!!)
ソフィーはついに地面に着地する。着地地点の木々はペルヘルバス魔法によって消し飛ばされていた。だが、すべてというわけではない。彼からかなり離れているために魔法のエネルギーが拡散し、威力が弱まっていたためだろう。
ソフィーはペルヘルバスからさらに離れようと歩き出す。彼女は体調が優れないようで、ただでさえ白い肌には血色は皆無だ。両の目に光はなく、膜がはったようにぼんやりとしている。足取りもよたよたとおぼつかず、手にしたロープを杖代わりについている。彼女は一度吐くような挙動をした。
(深刻にまずい。マナを補充しないと……)
ソフィーは腰のあたりにバックを探した。そして愕然とする。
バックがなかった。
(どこかでひもが千切れたんだわ……。気づかなかった)
ソフィーは上着のポッケをあさってガラスケースを取り出した。しかしガラスケースの中身は前のような深紅の色をしておらず、腐り落ちた果実のような焦げ茶の色彩をしていた。
(もともと使用済みの上、マナが大気中に逃げてしまっている……これじゃあ……)
言っていても始まらないので、ソフィーは衣服の腕の部分の破れ目にガラスケースの先端を押し当てる。幾分かは気分が回復したようで、顔にうすく赤みがさす。
そんなとき突然、ソフィーの身体が宙に浮いた。ペルヘルバスの重力魔法が解除されたようだ。少女の身体には自前の重力魔法のみが作用することになる。結果として、少女は直立した姿勢のまま30センチも浮いたのち、前のめりになりながら落下した。
(重力魔法を……取りやめた……?)
四つん這いの姿勢のまま、少女は次に何が起こるのかを予知した。彼女は立ち上がろうとしてロープにしがみつきながら膝立ちになったが、しかしそれが限界だった。
数秒後、予想通りソフィーは背中に熱を感じた。
背後を見やる。ペルヘルバスのいる方角から、莫大な光熱の束が柱のようになって彼女に急接近している。ソフィーはそれをじっと見つめた。目をそらさない。目を焼く光量を前にしてまばたき一つしなかった。
ソフィーは腕を振りかけて――――操り糸が切れたように力なく腕を下ろした。
(体内マナが……もう……)
熱風がやってきて少女の髪を乱雑に持ち上げる。スカートや上着のすそが音を立ててはためく。
焼き払われた真っ黒な大地に少女は孤独にたたずむ。
唇を強く、血がにじむまで噛んでいた。激情が少女の身体を支配した。
(死んでやるものか!! 私はまだ何も成し遂げてはいない!!)
少女の瞳に光が戻っていた。迫る光を反射させているのか、それとも彼女の内奥から照射されているのか。
死の匂いを混じらせた光の濁流が少女の身体を容赦なく包み込んでゆく。紅茶に溶ける砂糖のように、少女の姿がうすくかすみがかってゆく。
(死よ、やって来るがいい!! 私がお前を連れて行くまで、私はお前に奪われない!!)
少女の姿が光に飲み込まれる。
地鳴りが轟く。土煙が噴煙のように空にたち上っていた。