第十三話 追憶
あらかじめ、世界封鎖の定義について変更があります。
以前は「2つの世界の中継地となる世界をすべて消滅させること」と説明していましたが、これからは単純に「世界をつないでいる扉を破壊すること」としておきます。扉は「現在の技術では修復不可能」とします。
鳥のさえずりが聞こえる。よく晴れた日のうららかな午後のこと。開け放たれた窓にそよ風がふいて、庭に根づいた木々や花々のよい香りが運ばれてくる。レースのカーテンが、穏やかに眠った人のおなかのように、ゆっくりとふくらんだりしぼんだりをくり返し、その度にさらさらと布のすれる音がなり、木の葉のさざめきと甘くとけ合って、聞く者をまどろみの中へとつれていこうとする。
「……ソフィー? いるの? 眠ってしまったの?」母が子にかけるような、優しい呼びかけが聞こえた。
少女が一人、寝台の上に横たわっていた。年齢は15、6歳ごろだろう。うすい緑色の寝間着すがたで、おなかの上まで毛布をかぶっていた。少女はつややかな黒髪をしていた。大きな瞳も同じように黒色であったが、完全な純色ではなく、宵闇の空に雲が浮かんだような灰色まじりの黒色であった。
少女の見つめる先、地べたに座ったまま寝台に頭をあずけて、すうすうと寝息をたてる幼い少女がいた。こちらの少女は、年齢5,6歳といったところだろうか。寝台に横たわる少女とうり二つの外見だった。まっすぐ伸びたくせのない黒髪、雪のように真白い肌をしている。少女は袖のないワンピースを身につけていた。
姉はほほえんで、眠ったままの妹にもう一度よびかける。
「ソフィー?」
妹はシーツに顔をつけたまま目を覚ます気配がなかった。
姉はゆっくりと身体を起こす。衣ずれがして、さーっと、浜辺の波のような音が聞こえる。彼女は地べたに足をつけると、寝台に腰をかけるような姿勢をとった。妹の小さな頭に手をおいてゆったりとした手つきでなで始めた。
彼女はつぶやいた。内容から察するに、そのつぶやきは誰に対するものでもない、単なる独り言のつもりだったのだろう。
「ああ、分かってしまうの。私はもうすぐ死ぬんだわ。でも大丈夫。私は死ぬことを恐れない。怖いことなんてなにもない」
手のひらの下で妹の頭が動くのが分かった。姉は手をどかす。妹が頭をあげて、姉の目をまっすぐに見つめていた。姉とは異なってその瞳はどこまでも純粋な黒色だった。
「あら、起きていたの?」
妹は自分の腕を賢明にふった。口がきけないため手話を使っているのだ。
「ふふ。ソフィーの気持ちうれしいよ。でも駄目みたい。肩のここらへんにね、うっすら匂いを感じるの。死が、きっと背中にはりついているんだわ」
妹はほっぺをふくらませる。妹は寝台の上に乗りあがって、ほこりを払うような仕草で姉の背中をなで始めた。そのうち勢いが増していって、姉の背中に居座った見えない何かを追い払おうとするようにぶんぶんと腕を乱暴にふり始める。
姉はソフィーを制止した。彼女は妹のほほに手をあてて自分の方を向かせた。
妹の瞳には底知れぬ怒りが宿っていた。しかし同時に恐怖の色もちらついているのだった。姉は妹の瞳をのぞき込み、その様子をめざとく見てとった。
「あなたは本当に死が恐ろしいのね。分かるよ、ソフィー。私も以前はそうだったから」
お姉ちゃんはしぬのがこわくないの?
「ソフィー。死を怖がることなんてないのよ。死は誰にでもやって来るものなの」
どうしてしぬのがこわくないの?
「……成し遂げたからよ、ソフィー。私は生きているうちに自分がやると決めたこと、すべてを成し遂げてしまったの。私はここに立ち止まってしまった。奇怪で奇妙な、愉悦にも似た満足感。あれだけ恋しかった生を、今では自分から手放そうとするほどに……」
お姉ちゃん、わからないよ……
「ソフィー、大きくなりなさい。大きくなれば、きっと分かるようになるから。あなたが死を恐れるのは、あなたが死を遠ざけているから。人はどうあがいたって、最後には必ず死と正面から向き合うことになるの。ゆりかごの中で母親の手を待つように、受け入れるほかないのよ。……死を受容するやり方は人それぞれだけど、大きくなったあなたにはきっとそれが出来るよ」
お姉ちゃん、死んじゃいやだよ……わたし一人になっちゃうよ……
妹のほっぺにいつしか涙が伝っていた。姉の胴をぎゅっとだきしめて、彼女のおなかに顔をうずめて声もなくしゃくり泣いた。姉はわずかに困惑と憂いの表情を見せた。しばらく手をさまよわせたのち妹の背に手を置いて、座ったまま前かがみになる。そのまま妹に覆いかぶさるようにして小さな身体を抱きしめた。
「私は……あなたの母でいられなかった。姉ですらなかった。この身に宿った病魔を受け入れるために、自分に価値を見いだすために、私はいつだって私、アイリーン・グランマレッドでなくてはならなかった。ごめんなさい、ソフィー。それだけが……私の心残りだわ」
妹は応えなかった。会話のための腕はどちらもふさがっている。
その代わりに、もっと強い力で姉をぎゅうっと抱きしめる。
「大丈夫よ、ソフィー。最後の魔法を唱えましょう。あなたが強くいられるように。世界があなたを見捨てないように」
精一杯の愛情を込めて、アイリーンがささやいた。
ソフィーは泣き止まなかった。涙は涸れることなく、アイリーンの寝間着に大きなシミができる。ソフィーは気づいていた。寝間着の下のアイリーンの身体が以前とは比べものにならないほどやせ細っていることに。ソフィーは……ソフィー? ソフィーは――――
☆ ☆ ☆
ソフィーははっと目を覚ました。
(ゆ……め……?)
徐々に焦点が合ってくる。視界いっぱいに青空が広がっていた。
(ずいぶん懐かしい夢を見たものだわ……)
ソフィーは起き上がろうとした。しかし身体に力が入らない。悪寒がした。身体のいたる場所にしびれを感じる。口の中に砂が入ってじゃりじゃりして気持ち悪かった。
(私……捕まったのかしら)
「ソフィー、気がつきましたか?」
耳のすぐ横で気づかうような声が聞こえた。
(ベル?)
「よかった。このまま死んでしまうかと思いましたよ」
(大丈夫よ。それよりベル、状況を教えてくれないかしら。私、ちょっと記憶がとんじゃってるの)
「ソフィーはペルヘルバスの魔法で吹き飛ばされたあと、ずっと倒れ伏していたんです。なぜかやつらが来る気配はありませんが……今に足音が聞こえてくるんじゃないかと僕は気が気じゃありません」
(そうだ、キリングワードを奪われたんだったわ。どのくらい気絶していたの?)
「長くはありません。二、三分といったところです」
(ありがとう。……予想、ただの予想なんだけど、来るとしたらイシュリーンね。あと五分もしたら来るわ。ペルヘルバスはマナが切れていて動ける状況じゃあないでしょうから)
「よく分かりませんが……、それはソフィーも同じじゃないですか。今イシュリーンに来られたら、それこそ簀巻きにされてしまいますよ。きれいに拘束しすぎたせいで、彼の体調はほとんど万全なんですから」
(分かってる。荒療治になるけど……。まずはマナを補充して、それから身体の傷を治療しなければ)
ソフィーは震える息を無理に整え、精神を集中する。
(実のところリスキーな手段だからやりたくはないんだけど……)
ソフィーの周囲にポツポツと蛍火のような青白い光が現れて、彼女の周囲を舞い始めた。ばらばらだった光はやがてソフィーの顔の真上に集まって凝縮され、青く輝く球体になる。球体はソフィーの口元に近づいてゆく。
ソフィーは球体を吸い込むようにして食べてしまった。
ソフィーはそれを三度くり返した。
一分もすると、立ち上がるまでは行かずとも上体を起こせるまでには回復していた。今は自分の身体の具合を確認している。
(全身に擦り傷とやけど、右の足首に軽度のねんざ。左腕全体に中度のやけど……と)
「もう起き上がれるのですか、すさまじい体力ですね……」
(何言ってるの。私は魔法使いなのよ? これくらい当たり前……とはいえ万全にはほど遠いけど。イシュリーン程度ならば対処できないこともないよ)
「あの……痛くはないのですか?」
(心配性ねえ……。今は痛覚遮断魔法っていうのを使っているの。これっぽっちも痛みを感じないわ。私、もともと自分の身体に少しだけ細工してるのよ)
ソフィーは周囲を見渡す。すぐ近くに、ワイヤロープが横たわっていた。飛翔魔法の形態でも、剣の形態でもない。それは輪の形をしていた。ソフィーはペルヘルバスの光熱魔法に対して、このロープに防護魔法をかけて盾として扱ったのである。輪の内部には枝分かれした針金がからみ合って魔法陣を作っていた――――はずだったが、高熱で溶かされたのか、今は針金が数本ごとにべったりと融合してしまっている。
(あれはもう駄目ね。杖としてなら使えるかしら)
ソフィーは指輪の魔法を行使して板を手にすると、その表面にチョークで魔法陣を描きなぐっていく。すべて大気マナで行使できる魔法陣である。魔法の種類はほとんどが治癒魔法だった。
すり傷がふさがり、ねんざが完治し、やけど痕が消えていく。
「やつらキリングワードを使ってましたよね」
(やつらっていうか、ペルヘルバスがね。……これでメリオドグラさんの死亡が確定したわけね)
「え、どういうことです?」
(キリングワードって、元をたどればただのコンプレックスルーンなのよ。ルーンの使用権がペルヘルバスに移行されているんだもの。そう考えるのが妥当だわ)
「さっきも思ったんですけど、コンプレックスルーンって……何でしたっけ?」
(前に懇切丁寧に教えたのに覚えていないなんて最低。あとでお仕置きね。えげつないのにしてあげる)
「僕の記憶容量は小さいんですよ……」
(問答無用)
「うぅ……」
(コンプレックスルーンってのは、世界に古代から存在している基礎魔法言語をもとにして、あとから作られた人造の言葉のことでね……)
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~~ ソフィー先生の魔法教室 ~~
コンプレックスルーンについて説明する前に、まずは魔法の基本的な常識について言及します。それは、人類の扱える全ての魔法は基本的にベーシックルーンだけを組み合わせることで発動可能であるということです。ではなぜコンプレックスルーンは使用されるのか。もちろんコンプレックスルーンを使うことに大きなメリットがあるからです。
コンプレックスルーンの特徴は、ベーシックルーンと比較すると説明しやすいです。ベーシックルーンが、一文字につき一つの音、ばらばらに並べるとまったく意味をなさないのに対し、コンプレックスルーンは『設定』次第で、一文字につき何個もの音、単体で何かしらの意味を持たせることができます。つまり、ベーシックルーンである意味を言い表すのに何文字か要するところを、コンプレックスルーンを用いればたった一文字で表すことができるのです。
このコンプレックスルーンの特徴を生かすと、魔法陣の縮小、ルーン詠唱の簡略化、さらには消費マナの削減などの効果を生み出せます。特にこの消費マナの削減効果が大きかったんです。コンプレックスルーンを設定するためには特定の魔法を使う必要がありますが、ひとたびこの魔法が発見されると、従来のベーシックルーンだけを用いた魔法陣ではマナの消費量が多すぎて扱えきれなかった魔法がいっせいに使用可能になりました。魔法技術の飛躍的発展と魔法使いの地位の向上は、このコンプレックスルーンの発見によってもたらされたのです。
ここが重要な点なのですが、このコンプレックスルーンは最初、ルーンを設定した人物にのみ『使用権』があります。ほかの魔法使いが勝手に使おうとしてもルーンとして働きません。他の魔法使いがコンプレックスルーンを使いたい場合には、使用権を持つ魔法使いにお願いして、使用権を分け与えてもらわなければならないのです。この関係を『親』と『子』の関係と呼称しています。
なお、よくあるケースなのですが、『親』に認めてもらえず『子』になれなかった魔法使いが、同じコンプレックスルーンを新たに設定して二人目の『親』になろうとすることがあります。これは不可能です。使用権の確立しているコンプレックスルーンを重複して設定することは出来ません。原因として『ブッキング超過』という現象があげられますが、ここでは説明を割愛します……
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「雰囲気だけつかめました。でも、メリオドグラ死亡説と何の関係が?」
(『親』であるメリオドグラさんが、敵世界のペルヘルバスにルーンの使用権を分割譲渡したと考えるよりは、メリオドグラさんが死亡していて、空に浮いた『使用権』をペルヘルバスが乗っ取ったと考える方が自然だわ。ルーン設定用の魔法陣は十中八九自立式だし、魔法陣が丸ごと残っていたのならペルヘルバスでも運用くらいできるでしょうから)
「なるほど……」
そんなことを言っている合間にソフィーの傷が完治した。
「これからどう動きます?」
(とりあえず森の中に身を隠すわ。出来るだけマナを節約しながら武装用のコンプレックスルーンを拡張します。バックが手元にないのが痛いけど、探すのはもっと時間がたってからね。ペルヘルバスの遠隔魔法の機構か、キリングワードを発動させている魔法陣を破壊できたらベストなんだけど……)
「今は目の前の危険に集中すべきときです」
(そうね。よし、行きま……あれ?)
ソフィーが顔をしかめる。
彼女は自分の左足に視線を注いだ。真っ黒いブーツとスカートのはざま、露出した太ももを焦ったようにぱしぱしっと叩く。次に同じ箇所をマッサージするように両手でなで始める。
(うそ……うそでしょっ)
「どうかしましたか?」
(だから大気マナは吸入したくなかったのよ……)
「大気マナ?」
(でもそれにしては……運が悪かったじゃ腑に落ちない。一度でここまで侵されるかしら。廃棄マナの濃度が高かったのはペルヘルバスがキリングワードを連用したせい?)
「ソフィー?」
(呪害よ)
ソフィーは額に手をあてて深刻そうにうつむく。
(左足が動かない。まるで棒きれのよう)
☆ ☆ ☆
イシュリーンの腹の上で立方体型の拘束魔法具がぐっと浮き上がる。針が抜け、イシュリーンの四肢に自由が戻る。ソフィーによって仕掛けられた妨害魔法の板はペルヘルバスの魔法の余波のおかげでどこかへ飛んでいってしまった。ペルヘルバスはソフィーと出会った当初のように脂肪魔法で拘束魔法具を押しやることができた。
「ペルヘルバス様!!」
イシュリーンは主に駆けよる。
ペルヘルバスは草の中に倒れていた。見るからに青白い顔でぐったりとしている。黒い服のために目立ちはしないが、ソフィーに刻まれた刀傷からは今も血がにじんでいる。イシュリーンはペルヘルバスの頬を何度かはたいた。ペルヘルバスはうめき声を上げると、ゆっくりとまぶたを開いた。
「ああ、イシュリーンか。僕は……気を失っていたようだな」
ペルヘルバスは身体に力をこめて起き上がる。身体の各部に若干の震えが見られる。
「まだ横になられていた方が……」
「かまわない」
ペルヘルバスは立ち上がろうとしたが足に力が入らないようだった。イシュリーンが心配そうに主の身体を支えている。
「くはは、なんと情けない。キリングワード……とか言ったか。たった数回でこのざまだ。少ないマナで高出力の魔法が撃てるのはたしかに魅力的だが……」
「試し撃ちの段階ではこうはならなかった。なぜ?」
「出力の制御がすさまじく難しいのだ。手なずけ難い狂犬だ、こいつは。油断するとすぐ体内マナを喰らい尽くそうとする。怒りにまかせて使用すればなおのこと。お前には見えていなかったかもしれないが、光熱魔法も重力魔法も、効果範囲を必要以上に広げすぎてしまっていた」
「もうあのコンプレックスルーンはお使いにならないでください」
「そういうわけにもいくまいが……。それよりもイシュリーン。貴様なぜ動ける。黒ネズミの拘束魔法を受けていたのではないか」
「魔法の肝は私の腹部に乗っていた板ただ一つでしたから」
「はあ!? 愚鈍なイシュリーン!! それを早く伝えないか!!」
「も、申し訳ありません」
「……過ぎたことだ、不問に処す。イシュリーンよ、次なる命令を下そう」
ペルヘルバスは未だもうもうとあがっている土煙の先を指さした。
「あのソフィーとかいう小娘の生死を確かめてくるのだ。貴様の役目はやつの生死を僕に伝えること。誓え、決して交戦するな」
「しかしペルヘルバス様をここにこうして残していくわけには……。傷の手当てもしなくてはならないですし……」
「言わせるなよ。こんな情けのない姿を貴様などに見られたくはないのだ。それにマナの補充さえ済めば僕はもと通り体力を取り戻せる。その間でも獣くらいはなんなく対処できる。最悪、転移魔法で離脱も可能だ。行ってしまえイシュリーン、僕の命令は絶対だ」
「う、承りました……」
「体調が戻り次第、僕も貴様の後を追う。そんなにはかからないとは思うが……自我を保て、暴走するなよイシュリーン」
イシュリーンは黒焦げの大地を駆けだした。ペルヘルバスはしばらくぼーっとしながら、従僕の後ろ姿が土煙の向こう側に飲み込まれていく様を眺めていた。
「うーむ。下策だっただろうか。いや、イシュリーンもそこまで愚かではないはずだ」
そんなことをつぶやいたあと、自分の上着の内ポケットから小さな注射器を取り出した。注射器には真っ赤な液体がたっぷりと収めてある。ペルヘルバスは左腕の服をまくり上げると、注射針を二の腕に突き刺した。
「雌の上にガキなのだからと侮っていた。馬鹿なことをした。危うく捕縛されるところだった」
赤い液体を注射しながら、ペルヘルバスはなにげなくあたりを見渡した。
「気配はない。誰も襲ってこない。思った通りやつは一人で06世界にやってきたようだ。……となると、やつは僕と同じく独力で扉を開けるだけの技能を有していた?」
魔法……口語魔法……ペルヘルバスは思い起こす。
「イシュリーンの言ったとおりだったのだろうか。やつの手の動きは手話のようにも見えなくもない。たしかに魔法も発動していた。それも恐ろしい速さと正確さで。僕のように拠点を作って魔法機構を準備する時間的余裕はなかったろうから、遠隔魔法を行使していたという考えは除外して……。手信号のベーシックルーン……そんなものが存在するのだろうか。やつの世界では普及した技術なのか?」
ペルヘルバスは手を振ってみた。無論、何も起こらない。
「嫌戦家を丸め込むには、好戦家をたきつけるには……」
ペルヘルバスは空に手を伸ばし、空気を掴んだ。
「足りないぞ、情報が足りない。欲しい」
ペルヘルバスは注射器を草の中に投げ捨てる。
「というより、やつが06世界を訪れたわけはなんだったんだ。まさか一人で観光というわけでもあるまい。推論に過ぎないが……おそらく06世界に至る扉を封鎖されたのは僕たちの世界だけではない。ソフィーの世界も同様だったんだ。そして今、僕とあいつは、偶然にも同時に06世界への扉を開けてしまった? 変な話だがそう考えてみよう。でなければ、やつらの世界がここ06世界を占領していない理由が見つからないしな。ドット値がこれほど高い世界などそうそうない。使い道はいくらでもあるだろう」
ペルヘルバスは顎に手を当てて考え込む。
「そうなると……問題はソフィーだけではない。やはり根幹は奴だ、結局はメリオドグラなんだ。なぜ双方の世界から06世界を隠すような真似をする。そもそもメリオドグラが06世界を完全に破壊せず、こうして僕らの進入を許すような擬似的なものにとどめた理由は何だ? 戦争を止めたいだけならば完全に禍根を絶てばよいのに、わざわざ06世界の扉を細工をした上ダミーワールドを量産したなんて、意味不明。疑問があふれる。疑問は悪だ。疑問とはその性質上気持ちが悪いものだ。全てを理解したときはじめて心は平定される……」
ペルヘルバスは眉間にしわをよせて思考する。
「なぜ……いったいなぜ……」
地鳴りがする。大きな男が墨に染まったような色彩の大地を駆けている。脂肪魔法は発動しておらず、腹まわりの脂肪はたぷんたぷんと段になって跳ねていた。
と、いきなり足を止めてしまう。彼は地面から何かを拾い上げる。黒い肩掛けのバックだ。土砂に埋もれていて危うく見逃すところだったが、それは確かにあの少女の物だった。どうやらひもが切れているようだ。
「貴重な情報源だな。一応拾っておくか」
彼は切れたひもを結んでしまうと、それを肩に引っかけて再び走り出した。
イシュリーンは走りながら考えていた。
「死んでいなかったらどうしようか。殺すには惜しい。幼い。戦女神のように美しい。しかし主を侮辱した償いをしてもらわねばならない。償いは死だ。妥協はできない。迷ってしまうなあ。いったい私はどうすればいい?」イシュリーンは真剣な表情をする。「では、私はなぜ彼女を美しいと思ったのか。それは――――そう、あの瞳を見たせいだった。彼女が僕に跨がって見下ろしてきたときの、あのはつらつとした命の輝きを見たせいだ」
イシュリーンは自分なりの考えにたどり着く。
「よし、彼女を痛めつけよう。自分から死を望んでしまうような、地獄のような痛みを感じさせてあげよう。そうすれば彼女の瞳は輝きを失うはずだから、僕が彼女を惜しむ理由もきっと消えてしまうだろう。僕は気兼ねなく報復ができるというものだ」
恐ろしいことを口走りながら、イシュリーンがソフィーのもとへと疾走する。
「でもペルヘルバス様の厳命があるんだなあ。じゃあ、彼女が思ったよりも元気そうだったら引き返そう。弱っていたら実行することにしようか」
イシュリーンは鼻歌を歌い出した。
「お伝えしますよペルヘルバス様。あの美しき少女の死を、必ずやお伝えします」
※補足
コンプレックスルーンの『使用権』ですが、世界をこえてしまうと失われてしまうことになっています。具体的な例をあげて説明すると、ソフィーは自分の世界において様々なコンプレックスルーンの『子』であり『親』であるわけなのですが、06世界に身をおく場合、もとの世界で使えていたコンプレックスルーン全てが使用不可能になってしまう、といった具合です。つまるところ今のソフィーってかなり弱体化しています。




