プロローグ 当たり前の幸せを求めて
「――まさか、あなたが近衛騎士なんてね」
春のそよ風のような音色で、若い女がそう言った。
息を吞むほどに美しい女だった。
艶やかな亜麻色の長い髪。僅かに先の尖った耳。白い肌。
そして淡い紫の瞳。
彼女の腕の中では、同じ髪の色の赤子がすやすやと規則正しい寝息を立てている。
「ああ。正直、自分でも驚いているさ」
木製の質素なテーブルを挟んで向かい側に腰かけていた男は肩を竦めて答えた。
茶色の短髪に目の覚めるようなスカイブルーの瞳。
元は白いであろうその肌は、日に焼けて小麦色をしていた。
「ただの冒険者だった俺を、まさか王子殿下の護衛として迎えたいなんてな」
「それはあなたが、この国の王子様を魔物から助けたからでしょ?」
「偶然通りがかっただけだよ。それにもし俺がいなくても、周りの手練れ連中が始末していた筈だ。だから、別に命の恩人っていう訳でもない」
「でもその時のお手並みが評価されて、王様から直々にオファーが来たんじゃない」
「まあ、一応そう聞いているが……」
「さっすが、実力は白金等級並みと噂される一流冒険者」
「よしてくれ。そもそもこの国のギルドでは、上級冒険者ですらないんだ」
「それは面倒くさがって試験を受けてないからでしょ」
「……まあ、否定はしないよ」
男はそう言ってまた肩を竦めた。
「私にとっては、そんなあなたがそのオファーを受けたことのほうが驚きだったわ」
女がからかうように笑うと、
「当然、最初は断ったんだ」
男は苦笑いで答える。
「でも何と言うか……陛下は物好きな、変わったお方でね。断り切れなかった。それに、なにせ相手は国家元首だしな」
「でも、思ったより嫌そうじゃないのね。クエストもいつもソロだったあなたが」
女は特に責めるでもなく、可笑しそうに笑う。
「ん?ああ……そうだな。これもまた、自分でも意外なんだけどね。陛下も周りの近衛騎士たちも、新参者の俺なんかに良くしてくれる。それに殿下はまだ若いが剣術の筋も良い。俺もこの歳になって初めて、人に物を教える悦びを感じているところだよ」
「あら、私は前から、あなたは人に教えるのが向いていると思っていたわよ?」
女は腕の中の赤子の亜麻色の髪を優しく撫でながら、今度は悪戯っぽい視線を男に向けた。
男は「それは光栄だよ」と笑って見せてから、ふいに真顔になって、
「……それに、予想外ではあるが、この立場は大きなチャンスだ」
と続けた。
「一介の冒険者では、どうあがいても得られない情報に触れる機会がある」
女の腕の中の赤子を愛おしそうに見つめながら、しかしその藍玉のような青い瞳は、どこかもっと遠いところを見据えている。
女も分かっていた。
夫がこの申し出を受けた、その本当の目的を。
「いずれは『勇者』の——……いや、そうでなくても、この子を救う手掛かりにたどり着けるかもしれん」
「『勇者』……」
何を思ったか女はそう呟いてから、もう一度男の顔を見て少しだけ心配そうな表情を浮かべた。
「……あんまり無茶はしないでね。女神様のご加護と私のお呪いがあるんだから、簡単に見つかったりはしないわ。それにお婆さまたち、里のみんながくれた御守りだってある。……たった二十年だもの。そんなに心配しなくても大丈夫よ」
「わかっているさ。魔女の呪いも、君のその——女神からの祝福の力も、何一つ疑っている訳じゃない」
男は力強く頷いてから、
「……だけど、この子が二十歳になるまで、女の子の恰好をさせ続けると言うのもな」
「あら、私のお呪いの対価は“名前”と“髪の毛”だけよ。別にスカートを履かようってわけじゃないわ。……まあ、この子ならきっとスカートも似合っちゃうでしょうけどね」
「……アリスが俺じゃなく君に似てくれて、本当に良かったよ」
女が敢えておどけたように言うと、男もつられて苦笑を浮かべた。
「――でも、いくら似合っていようと、この子は――アリスはやっぱり男の子だよ」
「そうね」
女も素直に頷いた。
「……私のお呪いは“人”に直接作用するものではないけれど、確かに全く影響がないとは言いきれないわ。この子が大きくなったとき、それで悩んじゃったりしないかは、私も正直ちょっと心配」
「ああ、そうだな。それに、それだけじゃない。何よりも俺は……」
男は頷き、そして少しだけ間を置いてからまた口を開いた。
「……二十年もの間、ずっと隠れて暮らさないといけないというのが、あまりにも不憫に思えてしまうんだ。……アリスも――それから、その子も」
男はそう言って、視線を向かいの女の腹部に移す。
華奢なその体には不釣り合いに、緩やかに膨らんだそれは、この女が妊娠していることを示していた。
「俺達大人はともかく、子どもたちにとって二十年はかけがえのないものだ」
男は女に、そして自分自身に言い聞かせるように言った。
「いくら君の力に守られていると言っても、できることならやはり根本から解決したい。いつまでも隠れて暮らさなくても良いように――この子たちが、人の街で暮らせるように」
「……そうね」
「だから俺は、これから王宮で近衛騎士を続けながら、少しずつ情報を集めることにするよ」
「ええ、分かっているわ」
これは何も、男が今日、突然言い出したことではない。
女も分かっている。
何度も二人で話し合って決めたことだ。
しばらくして、男は壁に掛けられた時計に目をやり、
「……そろそろ俺は行くよ」
そう言って、立ち上がった。
すでに支度を終えてテーブルの脇に置いていた大きな布袋を担ぎ、ポーチを腰のベルトに固定してから扉へと向かう。
女も席を立って、赤子を抱きかかえたままその後に続く。
扉を開けて外に出ると、温かい春の日差しが三人を包み込んだ。
質素な造りの家の前には、見渡す限り青々とした草原が広がっていた。
人の住む村へと続く、曲がりくねった細い道だけが、辛うじて人との繋がりを示している。
「じゃあ、行ってくる」
男は女にキスをしてから、女の腕の中で静かに眠り続ける赤子の頬をそっと撫でた。
「うん、行ってらっしゃい。体に気を付けてね」
「ああ。月に一度は必ず帰ってくる。……君たちも、くれぐれも気を付けてな」
男は繋いでいた馬の背に乗り、そして大草原の中の小道を下っていく。
女はその背が見えなくなるまで見送っていた。
午後の昼下がりの春風に、女の亜麻色の髪が軽やかに靡く。
「……このまま私たち家族だけでずっと一緒に暮らせれば、それだけで……」
しばらくして、女は誰にともなく、そっと呟いた。
「そう思ってしまうのは、きっと私のエゴなのね……」
その瞳は、不安げに揺れていた。
それは、心配を掛けまいと、愛する男の前では決して見せなかった色だった。




