いよいよ、ラスト、どんな展開で幕を閉じるのだろうか。
なぜか、起動ワードが発動して、和田のぞみ先生が見つかってしまう。そして・・・
発動 起動キーワード
査察団が校内を視察している頃。六年一組では、ちょうど社会科の授業が終わったところだった。今日の学習は、「第二次世界大戦」。教室を出た数人の児童が、音楽室へ向かう廊下を歩いていた。
「戦争って、本当に嫌だよね。」
一人がぽつりとつぶやく。
「うん。」
「今の日本って、どう思う?」
少し考えてから、一人の男の子がニコニコと笑顔で答えた。ゆっくりと、三回言った。
「嬉しいから、オレゆっくり大きな声で、三回言うよ!日本は、まちがいなく 平和だあー。平和だあー。平和だあー。」
本当にびっくりするほど、大きい声だった。
「そうだ。僕もそう思う。うれしいね。本当に、こんな日本に感謝だね。」
別の子が大きくうなずく。
「そう平和さ、正直、歌でも歌っていたいよね。」
「ここ、音楽室の前だし。あはは」
「じゃあ、一曲歌っちゃう?」
「いいね!」
子どもたちは顔を見合わせると、楽しそうに笑った。その時だった。音楽準備室の奥で、静かに音もなく隠れていた和田のぞみ先生の瞳が、ゆっくりと開いた。
第八章 発動 起動キーワード
『起動ワードを認識しました。』
旧式OSが音声を解析する。メンテナンス起動ワードである。三回目で起動する。
ヘイ シリ?
ヘイ ワダ?
ヘイ 和田?
――ヘイ、ワダ。
待機モードが解除される。
「はい、和田です。ご用件をどうぞ。」
和田のぞみ先生は、音楽準備室で静かにその指示を待った。しかし、返事はない。和田のぞみ先生は周囲を確認し、次の命令を待ち続けた。その直後だった。廊下では子どもたちが声をそろえて歌い始めた。
♪僕らの望みは、明るく 歌うこと 大きな声で、気持ちよく
僕らの望みは、明るく 歌うこと きれいな声で 気持ちよく ──♪
その歌声を、新たな指示と認識した和田のぞみ先生は、自動的に古い音楽学習プログラムを起動する。
「分かりました。大きな声で歌を歌うのですね。それでは、一緒に歌いましょう。」
突然、音楽準備室の中から、透き通るような大きくきれいな歌声が響き渡った。そして、超小型の充電器とコンセントは刺さったままで、突然、廊下へと動き出した。その際、コードが剥き出しになって本体とブチっと離れた。和田のぞみは、指示の通り、大きな声で歌った。そして、埃まみれの音楽準備室から廊下へ動き出した。リズムに乗って踊り出す教師。突然の歌声。
「えっ?」
子どもたちは一斉に歌うのをやめる。誰もいないはずの準備室から聞こえてくる女性の歌声。一瞬、廊下の空気が凍りつく。足音が少しずつ近づいてくる。
「の、のぞみ先生の声じゃない!?」
「なんで中にいるの?こっちに来る。」
「わー、怖い!逃げろー!」
子どもたちは悲鳴を上げるように大声を出して、廊下を駆け出した。その騒ぎは、静かに校内を視察していた査察団の耳にも、はっきりと届いてしまった。
その騒ぎの少し前――。
校長室に残った二人を除き、八名の査察団員は校舎内を巡回していた。そのうち数名は、六年二組の教室の後方に静かに立っていた。もうほとんどのエーアイ教師を確認できて、時間が余った形だ。教壇に立っているのは、白髪交じりの老人教師、滝口透。例の「おじいちゃん先生」である。査察団の視線が一斉に集まる。
――この教師が、うわさのポンコツエーアイ教師か。
誰もが興味津々だった。その査察団の中には、加藤あきの姿もあった。滝口先生は、そんな視線など一切気にも留めず、いつものゆったりとした口調で授業を始めた。今日の内容は、「いじめ」である。
「みんな、いじめってどう思う?」
子どもたちの手が次々と挙がる。
「よくないことです」
「人を傷つけるからです」
「絶対にやっちゃいけないと思います」
どれも正しい答えだった。滝口先生は満足そうにうなずく。
「そうだよね。みんな、そもそも、ちゃんと分かってる。」
一呼吸おいて、教室を見渡した。
「じゃあさ……なんで、いじめってなくならないんだろう?」
教室が静まり返る。誰も答えられない。また、始まった。滝口先生の独特な考えの展開である。滝口先生は黒板に、ある文字を書いて、静かに話し始めた。
「先生はね、人間がいる限り、残念ながら、なくならないと思ってる。」
教室がざわつく。
「えっ?」
子どもたちは思わず顔を見合わせた。訳わからん。どう言うこと。子どもたちは、それぞれ「いじめ」について、自分なりに考え始めた。教室には、いつもの賑やかさはなく、静かな空気が流れている。
しばらく沈黙が続いた後、滝口透先生がゆっくりと口を開いた。
「なあ、みんな。夏休み前の道徳の授業、覚えてるか? ハゲタカと少女の写真を見て、『あなたならどうしますか』って考えた授業だ。」
「あっ、覚えてる。」
「あの写真だ。」
子どもたちが頷く。
「あの話には、実は続きがあるんだ。」
教室は再び静まり返った。
「あの写真を撮った写真家は、最初は世界中から賞賛された。『アフリカの飢餓の現実を伝えてくれた』ってね。」
なるほどと、子どもたちは真剣な表情で耳を傾けている。
「でも、しばらくすると今度は、『どうして写真を撮る前に少女を助けなかったんだ』と、多くの人から激しく批判されるようになった。」
「えっ……。」
思わず声を漏らす子どももいた。
「その批判に耐えきれなくなって、その写真家は自ら命を絶ってしまったんだ。」
「ええっ……。」
教室中に驚きの声が広がった。誰も次の言葉を見つけられない。滝口先生は子どもたち一人一人の表情を見つめながら、静かに続けた。
「先生はね、この出来事も、一つの『いじめ』だったんじゃないかと思っている。先生はね。」
その言葉に、教室の空気がさらに引き締まる。
「人は時として、正しいと思って言った言葉で、誰かの心を深く傷つけてしまうことがある。だからこそ、人の気持ちを想像することが大切なんだ。」
滝口先生は少し微笑み、穏やかな声で締めくくった。
「みんなには、これから強い心を育てていってほしい。でも、強い心っていうのは、今日明日で急にできるものじゃない。」
一呼吸おいて、続ける。
「毎日の生活の中で、人を思いやったり、誰かの話を最後まで聞いたり、失敗しても立ち上がったり……。そういう積み重ねの中で、少しずつ育っていくものなんだと、先生は思っている。」
子どもたちは誰一人として言葉を発しなかった。ただ、それぞれが自分の胸の中で、「強い心」とは何かを静かに考えていた。
「先生が、なぜ、いじめが無くならないかと考えるのは、それは」
「人には相性があるから。そう思っている。」
滝口先生は少し笑って続けた。
「例えば、昔、織田信長と明智光秀がいたよね。歴史にはいろんな理由が書いてある。でも、人と人との関係って、理屈だけじゃない。ぶつかることもある。極端な言い方をすれば、大人同士の争いだって、人間関係のもつれから生まれることがあるんだ。大人のいじめだと思っている。先生はね。あくまでも先生はね。もちろん記録はない。」
査察団の一人が思わずメモを取る手を止めた。
「人との相性は、なかなかね。すぐには、苦手意識は変えられないと思う。」
滝口先生は子どもたち一人一人を見つめた。
「でもね。つらい時をどう乗り越えるかは、やはり、自分で学べる。」
教室は、水を打ったように静かだった。
「同じ時代でも、豊臣秀吉は信長にかわいがられた。どうしてだろうね。」
子どもたちは考え始める。
「エジソンは学校になじめなかった。でも、その後、世界を変える発明をたくさんした。」
滝口先生は穏やかに続けた。
「人生ってね、人に勝つことじゃない。自分がどう生きるかなんだ。」
誰一人として目をそらさない。
「いじめる人もね、『こんなことしても、結局、人生において何も得しないな』って思えるようになったらいい。先生は、そう願ってる。なかなか、いじめる子は、自分が満たされてない。そんな背景がある。子どもの家庭環境もあるし、不満もあるから、子どもなりのストレス発散してる場合もある。だから、難しいと思う。簡単ではない。それもわかっている。」
そして、ゆっくりと言葉を結んだ。
「正直、人は、なかなか変えられない。」
一拍置く。
「だったら、自分の心の持ち方を少し変えてみる。そこから人生は始まるんじゃないかな。いじめる人を見て、ああこの人、可哀想な人かもしれない。満たされてないんだな。なんか自分にできることないかな。そんな風に考えても、いいかも知れない。」
少し照れくさそうに頭をかいた。
「……まあ、きれいごとかもしれないけどね。」
その一言に、教室中がどっと笑いに包まれた。しかし、その笑いの奥には、どこか温かな空気が流れていた。教室の後ろで授業を見つめていた査察団員たちは、誰も口を開かなかった。
――何だ、この授業は。エーアイ教師の授業なのか。それとも、人間だからこそできる授業なのか。
答えは分からない。だが、一つだけ確かなことがあった。子どもたちは今、自分自身の行動について考え始めていた。六年二組で授業を受けていた宇野サキは、胸の奥がじんと熱くなるのを感じていた。こんな展開になるなんて、まったく予想していなかった。
この道徳の授業。滝口先生の言葉は、まるで一人一人の心に静かに寄り添うようだった。やっぱり、滝口先生は普通のエーアイ教師じゃない。宇野サキは、そう確信していた。東京都校長会が、極秘で新しい教育プログラムを進めているのだろうか。それとも、西さくら小学校に語り継がれる、あの桜の木の伝説と何か関係があるのだろうか。
あるいは――。未来から来た最新型エーアイ教師で、転んでも電子部品が壊れない特殊な素材でできているのかもしれない。考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。謎は解けるどころか、ますます深まるばかりだった。
宇野サキは教壇に立つ滝口先生をじっと見つめた。
(滝口先生……あなたは、一体何者なの?)
その問いだけが、何度も心の中で静かに繰り返されていた。子どもたちは思わず顔を見合わせた。訳わからん。どう言うこと。
六年二組の黒板には、「思いやり」と書かれていた。
そして、授業が終了した。子どもたちは、先ほどまでの道徳の授業を振り返りながら、それぞれが「いじめ」について考え込んでいた。教室には、いつもの賑やかさはなく、静かな空気が流れている。滝口透の授業が終わると同時に、教室の後方に立っていた査察団員たちは顔を見合わせた。
「……何だったんだ、今の授業は。」
誰も答えられない。エーアイ教師とは思えない。しかし、人間とも言い切れない。そんな不思議な感覚だけが残っていた。その時だった。廊下の向こうから、大きな警告音が響いた。
ピーッ、ピーッ、ピーッ――。
「こちら三階西側です! 一体のエーアイ教師が制御不能になっています!」
査察団員の無線が慌ただしく鳴り響く。
「急げ!」
全員が一斉に教室を飛び出した。職員室前の廊下では、一人の女性教師が同じ言葉を何度も繰り返していた。
「システムエラー。システムエラー。児童の安全を最優先してください。」
和田のぞみ。数年前の旧式OSを搭載したエーアイ教師だった。目の焦点は合わず、腕をぎこちなく動かしながら、その場で立ち尽くしている。査察団はすぐに非常停止プログラムを起動した。
「電源を遮断!」
「バックアップデータを保存!」
「児童を別教室へ誘導!」
校内は一時騒然となった。十分ほどして、ようやく和田のぞみは静かに停止した。査察団員たちは原因究明を始めたが、診断結果は予想どおりだった。
「旧式OSの経年劣化によるプログラム異常。」
「他のエーアイ教師への影響は確認されません。」
結論は、それだけだった。安藤は静かに校舎を見上げた。何かが引っかかる。滝口透の授業。
子どもたちの表情。そして、自分の胸に残る説明のできない違和感。だが、その違和感を裏付ける証拠は、どこにも見つからなかった。仕方ない。今回は、こちらの負けだ。
「……これで査察は終了します。いろいろご協力ありがとうございました」
安藤はそう告げるしかなかった。査察団の車列が、西さくら小学校を後にする。帰りのクルマの窓から、じっと校舎を見つめる安藤は、小さくつぶやいた。
「何かを見落としている気がするんだが……。」
その言葉を聞いた者は、誰もいなかった。校門の前では、高藤校長が深く一礼していた。その胸の内で、一つだけ確かなことがあった。
――今日も、なんとか守り切った。
しかし同時に、高藤校長は感じていた。この秘密は、いつまでも隠し通せるものではない、と。
その二日後、滝口透先生の道徳の授業を参観して以来、加藤あきの胸には、一つの疑問が残り続けていた。本当に西さくら小学校の変化は、最新のエーアイ教師たちだけが生み出したものなのだろうか。提出された資料を、改めてじっくりと見直してみる。いじめアンケートの結果が改善し始めた時期。それは、滝口先生が毎日のように廊下や校庭へ出ては、子どもたち一人ひとりに「どうした?」「元気か?」と声をかけ続けていた時期と、不思議なほど重なっていた。理科の学力データも調べてみた。成績が大きく伸びているクラスを追っていくと、そこにも共通点があった。どのクラスも、滝口透先生が授業を担当していたのである。もちろん、それだけで結論を出すことはできない。しかし、加藤あきの中で、一つの考えが静かに芽生え始めていた。心が育つからこそ、学ぼうという意欲が生まれる。そして、その意欲を育てるのは、人と人とのつながりや、信頼なのかもしれない。やる気を出す声がけ。
教育に近道はない。一人ひとりに寄り添い、言葉を交わし、小さな変化を見逃さない。そんな積み重ねが、子どもたちの心を動かし、学びへとつながっていくのではないだろうか。もしそうだとしたら――。あの少し変わった、どこか不器用で、下手なダジャレや、失敗ばかりしているポンコツエーアイ教師は、実は誰よりも、大切なことを子どもたちに伝えているのかもしれない。安藤たち査察団は、最後まで滝口先生の正体を突き止めることはできなかった。それでも、この査察は決して無駄ではなかった。加藤あきは、数字だけでは見えてこない教育の本当の価値が、この学校には確かに存在していることを知ったのである。
第九章 謎の教師の正体
宇野サキは、アイスクリームが大好きだった。昨夜も冷凍庫を開けると、つい一本、いつもより多く手が伸びた。
「大丈夫。おいしいんだもん」
そう言って笑いながら食べたことなど、その時は何も気にしていなかった。何が大丈夫かわからない。しかし翌日、音楽の授業が始まって間もなく、お腹が急に痛み出した。
「いたたた……」
我慢しようとしたが、限界だった。
「先生、トイレに行ってきます」
サキはお腹を押さえながら、急いで廊下へ出た。ようやく個室に入り、ほっと息をつく。
「やっぱり……食べ過ぎるんじゃなかった」
苦笑いしながら、一人で反省していた。その時だった。
――カチッ。
どこかで小さな音がした。続いて、何かが焦げるようなにおいが鼻をつく。
「あれ?」
耳を澄ますと、パチパチという音が少しずつ大きくなっていく。
次の瞬間、廊下の方から薄い煙が流れ込んできた。
「えっ……」
煙はあっという間に濃くなり、焦げ臭さが一気に強まる。
「火事……?」
サキの心臓が激しく鼓動した。どうしよう。どこから、どっちへ逃げればいいの?怖い……。
助けて……。頭では逃げなければと思うのに、足がまったく動かない。恐怖で体が固まり、その場から一歩も踏み出せなかった。
トイレの中で、サキは煙に包まれながら、ただ震えていた。
査察団が西さくら小学校を訪れてから、一週間後のことだった。文部科学省のサロンでは、昼のニュースが静かに流れていた。
『速報です。東京都江戸川区西さくら小学校で火災が発生しました。場所は音楽準備室のようです。現在、消防による消火活動が続いています。』
テレビ画面には、校舎の一角から立ち上る黒煙が映し出されていた。音楽準備室の窓から炎が噴き出し、赤い消防車が次々と校庭へ入っていく。その映像を見た安藤が、思わず声を上げた。
「加藤さん……これ、この前の視察した学校だ。そして、加藤さんの母校だよね?」
「えっ……。」
加藤あきはテレビに駆け寄った。画面には見慣れた校舎が映っていた。
「西さくら小学校……。」
顔色が一瞬で変わる。
「すみません。係長、今から年休をいただきます。」
それだけ言い残すと、加藤は部屋を飛び出していった。安藤は、オレも少し後から行くと話した。しかし、その声は加藤あきには聞こえなかった。
⸻西さくら小学校へ着いた頃には、騒然となっていた。校庭には全校児童が安全な避難を終えていた。東京では毎月のように避難訓練が行われている。理由は東日本大震災からの教訓である。その成果もあり、子どもたちは大きな混乱もなく、安全な場所へ整然と並んでいた。そして、保護者への引き渡しが行われ始めていた。近くでは、マスコミが学校の様子をテレビで中継をしていた。
しかし、その場の空気だけは重苦しかった。高藤幸一郎校長は、児童名簿を握りしめたまま、何度も人数を確認している。
「まだ、六年生一人が確認できていません。」
周囲の教師たちにも緊張が走る。その時、滝口透が静かに校長へ近づいた。
「誰がいないのですか。」
校長は苦しそうな表情で、滝口へ答えた。
「六年二組の宇野サキさんです。音楽の授業中にトイレへ行ったまま、まだ戻ってきていません。」
その言葉を聞いた瞬間だった。滝口透は近くにあったバケツの水を頭から一気にかぶった。
「滝口先生!」
誰かが叫ぶ間もなく、滝口先生は燃えさかる校舎へ駆け出していた。
「待ってください!危険です!」
教師たちの制止も届かない。
校舎の中は、すでに濃い煙で視界がほとんど失われていた。火の粉が廊下を舞い、熱気が肌を刺す。滝口は口元を押さえながら、一歩ずつ音楽室近くのトイレへ向かった。
「サキさん!」
煙の中へ向かって、大声で叫ぶ。
「サキさん!」
しばらくして、小さな声が返ってきた。
「……ここです。」
その声を聞いた滝口は胸をなで下ろした。
「今、助けに行く。動くな。」
「先生……怖いです。」
「大丈夫だ。できるだけ体を低くして、煙を吸わないようにしているんだ。何とかする」
「……はい。」
滝口はトイレの扉を開け、震えるサキを抱き寄せた。
「さあ、先生につかまりなさい。」
サキを背中におぶると、再び煙の中へ飛び込む。行くぞ。⸻外では、誰もが固唾をのんで校舎を見つめていた。保護者たちも次々と学校へ駆けつけ、不安そうな表情で消防隊の動きを見守っている。
「まだ出てこない……。」
誰かがつぶやいた。時間だけが、ゆっくりと流れていく。
五分が経った――。その時。黒煙の中から、一つの人影が現れた。
「出てきた!」
滝口透先生だった。背中には宇野サキをしっかりと背負っている。消防隊員が二人へ駆け寄る。宇野サキは無事だった。その瞬間、校庭は安堵の声に包まれた。
「サキさん、大丈夫。」
優しく滝口先生は背中からサキをゆっくり降ろし、膝をついて目線を合わせた。そして、
「どこか痛いところはないかな。」
「……ありません。」
「そうか。よかった。もう大丈夫だ。」
顔は、煙の影響で真っ黒になっていたが、その顔には、いつもの穏やかな笑顔が浮かんでいた。首筋から血が流れていることなど、まるで気にも留めていない。周囲の教師たちは、その光景を息をのんで見つめていた。
「……滝口先生。」
誰かが小さくつぶやく。
「血が……。」
その言葉を聞いても、滝口先生は首にそっと触れ、
「ああ、どこかで少し、かすったかも。」
と、まるで他人事のように笑った。しかし、その直後だった。加藤あきの視線が、滝口先生の首筋で止まる。首の後ろを、一筋の赤いものがゆっくりと流れ落ちていた。
血――。煙でできた汚れではない。確かに、人間の血だった。その光景を目にした周りの一同は校庭は、一瞬にして静まり返った。
サキの身体は近くの消防隊員が、安全な場所へゆっくりと移動させた。確認ができるまで、無理に動かさないように配慮した。校庭には、宇野サキや消防隊員、警察官、文部科学省の職員、加藤、安藤、そして教育委員会関係職員、西さくら小学校教職員が静かに集まっていた。誰も口を開かない。
そして、なんとか消防隊員と消防団の協力で火事は鎮火した。原因は埃と小型のコンセントのようだった。なぜ、そこに小型のコンセントが刺さってあったのか、誰も知らない。とにかく、子どもたちを保護者に返した後も、多くの関係者がその場に残っていた。
それは、校長からの説明を意味していた。校長の高藤幸一郎は、空気を読み、一歩前へ進むと、ゆっくりと全員を見渡した。そして、深く息を吸い込む。そして、口を静かに開いた。
「皆さん。今まで、このことをお話しできず、本当に申し訳ありませんでした。」
静まり返った空気の中、校長の声だけが響いた。
「私と滝口透さんは、実は、三十年前、同じ学校で勤務していました。当時、私はまだ若い教員でした。」
校長は遠くを見るような目で、あの日を思い出していた。
「夏の嵐の日でした。記録的な大雨で川が氾濫し、一人の子どもが流されたという知らせが学校へ入りました。その知らせを最初に受けたのは、私です。」
一呼吸置き、静かに続ける。
「知らせを聞いた滝口先生は、何もためらうことなく学校を飛び出しました。そして、濁流へ飛び込み、子どもの命を救ったのです。」
校長は唇をかみ締めた。
「しかし、その直後、滝口先生は激流にのみ込まれ、そのまま行方不明となりました。」
誰も身動き一つしない。
「それから三十年。昨年の夏でした。台風による豪雨の日、西さくら小学校の脇にある桜の木の下へ、一筋のカミナリが落ちました。」
校長の声が少し震える。
「雷がおさまった後、その場所に行ってみると、そこに立っていたのは……三十年前とまったく変わらない姿の滝口先生でした。」
どよめく者はいない。あまりにも現実離れした話に、誰も反応できなかった。
「私は信じられませんでした。しかし、滝口先生が私に最初に尋ねた言葉は、今でも忘れられません。」
校長はゆっくりと言った。
「『子どもは……無事だったのですか。』」
その一言だけだった。自分のことではない。三十年という歳月さえ知らず、滝口先生は、ただ子どもの安否だけを気にしていた。校長は目を閉じ、小さく息を吐いた。
「私は、自宅で滝口先生の生活を支えながら、三十年間に起きた出来事や、この時代の社会について少しずつ伝えました。」
「幸い、正式な死亡届は提出されておらず、関係機関と手続きを進め、戸籍などの法的な整理を行うことができました。」
そして、少しだけ笑みを浮かべる。
「ある日、滝口先生は私にこう言いました。」
校長は、その言葉を大切に口にした。
「私は『おまけでもらった人生だ。もう一度、教師をやりたい。』」
「その思いを受け、私は時間講師として勤務できるよう手続きを進めました。」校長は再び表情を引き締めた。
「しかし、私は皆さんに真実を隠し続けました。今回、それがルールに反する行為であったことは間違いありません。」
「すべての責任は、私にあります。」
校長は消防、警察、教育委員会の職員、そして教職員全員へ向かって深々と頭を下げた。
「もちろん、今後は、法律に基づく判断を受けます。どうか責任は、私一人に負わせてください。本当に申し訳ありませんでした。」
長い沈黙が流れた。誰一人として言葉を発しない。
時空を超えて現れた教師――。あまりにも現実とかけ離れた告白に、その場にいた誰もが、信じることも、否定することもできず、ただ静かに立ち尽くしていた。今度は、当の本人から話を聞く流れになっていた。
そして、滝口透は、校長の話の後、その話を受けて、補うようにゆっくりと全体へ話しを始めた。まず、滝口は、静かに一人一人の顔を見渡した。自分の思いを話しはじめた。
「私にも、話させてください。」
「いつの時代からか、私たちは誰かのせいにし始めました。反省はせず。自分以外の人にする。そうする事で、正当化できるからです。その方が楽だからです。」
「でも、私は、自分の反省をしないといけないと強く思っています。理由は正直、分かりません。何となくですが。」
滝口透は、静かに一人一人の顔を見渡した。そこには、高藤校長、文部科学省の安藤。加藤あき、消防団、警察そして文部科学省職員たちがいた。最後に、その視線は宇野サキへと向けられる。滝口は小さく微笑み、ゆっくりと口を開いた。
「エーアイ教師は、本当に良い仕事をします。素晴らしいです。これからもどんどん活用すべきです。」
静まり返った避難場所に、その声だけが響く。
「それは、効率的で、公平で、どんな子どもにも同じ水準の学びを届けられる。これからの時代、多くの子どもたちを支える大切な存在になるでしょう。どうか、これからも大事に育てていただきたいと、心から願っています。」
誰も言葉を発しない。滝口は続けた。
「一方で、私見たいに人間は迷います。失敗もします。時々、どうでもいいダジャレなども言います。当然、感情に流されることもあります。もちろん間違えます。」
少しだけ笑みを浮かべる。
「ですが、人間だからこそ、規則だけでは救えない子どもの心に寄り添えることがあります。」
その言葉に、高藤校長は静かに目を閉じた。
「エーアイ教師と人間は、対立する存在ではありません。互いの長所を上手く生かしながら、歩んでいくことが、これからの社会には必要なのだと思います。」
滝口は一度言葉を切り、周りに向き直る。
「私は、この時代の規則を破りました。」
その声に迷いはなかった。
「ですから、この社会で、処分を受けるのでしょう。ルールはそのためにあります。そうすべきです。それも私の運命です。もちろん素直に受け入れます。何しろ私には、おまけの人生ですから。」
静かな空気が流れる。
「ただ、一つだけお願いがあります。」
滝口のまなざしは、加藤へと向けられた。
「教育には、一律でよい場面があります。そして、一律では救えない場面もあります。そのことだけは、どうか忘れないでください。」
加藤あきは何も答えられなかった。その言葉は、まっすぐ胸の奥へ突き刺さっていた。滝口は最後に高藤校長へ向き直り、深く頭を下げる。
「高藤さん。本当にお世話になりました。ありがとうございました。また、今回も、運が良く生き延びちゃいました。ははは」
穏やかな笑顔だった。
「あのカミナリで死んだと思っていたけど、、、、おまけの人生、とても楽しかったです。」
一拍置いて、静かに言う。
「皆さん、ありがとうございました。お世話になりました。」
その瞬間だった。宇野サキは、あふれそうになる涙を必死にこらえた。滝口先生は、最後まで先生だった。私の最初の違和感は、これだったんだと思った。サキは心の中で、そっとつぶやく。
(いつの日か……。)
(もし、もう一度、教師を募集するそんな時代が来たなら。)
(私も、いつか先生になろう。)
その小さな決意は、誰にも聞こえなかった。
人事異動発令
後日、滝口透は、十一月と言う異例の時期ではあるが、福島県南会津地区への異動を、正式に命じられた。滝口が、東北へ異動したその日、西さくら小学校の校長室では、高藤校長が古い地域資料を閉じながら、ふと、思い出した。
「そうか、あの時も……条件がそろっていたのか。」
「桜の木は、人を選んだのかもしれない。」
と、つぶやいた。その資料の中には、2027年7月29日、そして、誰かが書いた。資料の隅に、「素数」という走り書きがあった。
滝口透先生の道徳の授業を参観して以来、加藤あきは、滝口透の教育指導について考えることが多くなった。あの少し変わった、どこか不器用で失敗ばかりしているポンコツ教師は、実は誰よりも大切なことを、子どもたちに伝えているのかもしれない。加藤あきは、数字だけでは見えてこない教育の価値が、西さくら学校には確かに存在していたことを、改めて知ったのである。
加藤は、滝口透が福島県南会津地区への人事異動データを静かに見つめる。そして、小さく笑った。北海道でなく東北地方の福島県南会津への異動。その地域は確かに、冬には気温がマイナス二十度になる地域である。文部科学省なりの滝口への精一杯の配慮が、この人事にあった。エーアイ教師機器の維持管理は確かに無理な地域だ。しかし、本当に異動になるなんて、今まで一度も前例がなかったけ。しかし、規則を守るのがお役所。真面目過ぎる。まあ、それがいい時もあるしね。
「滝口先生なら、きっと向こうでも、楽しく生きていく感じがある。」
なんか、そう思えた。季節はこれから冬へ向かう。東京にも木枯らしが吹き始め、街路樹の葉が風に舞っていた。冷たい風の向こうには、新しい時代が静かに訪れようとしている。
人とエーアイ教師が、ともに歩む未来へ――。
エピローグ
資料を閉じると、加藤あきは椅子にもたれ、ふっと息をついた。その瞬間、不意に滝口透先生の道徳授業の最後の場面を思い出した。思い出しただけで、口元が緩む。
「あっ、みんな。ところで今日、何の日か知ってる?」
教室がざわついた。
「えっ、先生の誕生日?」
「違います」。
「じゃあ、分かんない。」
滝口先生は、少し得意そうな顔で人差し指を立てた。
「あのね。たぶん、電池の日。」
教室中が首をかしげる。
「たぶん?調べてないんですか。」
「確証ないんですか、先生?」
子どもたちの鋭い突っ込みに、滝口先生は困ったように頭をかいた。
「だって、十一月十一日だから。」
「はあ?」
「ほら、漢字で書くと、プラスとマイナスが二つ並んでるでしょ。」
そして、滝口透先生は、机の上に一本の乾電池を置いた。
「みんな、この電池にはプラスとマイナスがあるよね。でもね、人間にもあるんだよ。」
教室は静まり返る。
「嬉しい日もあれば、落ち込む日もある。元気な日もあれば、元気が出ない日もある。でも、それでいいんだ。」
滝口先生は、一本の乾電池を持ち上げ、にっこり笑った。
「だから今日は、調べてないけど、滝口透が勝手に決めた電池の日。」
子どもたちは首をかしげる。
「人生はね、時々、元気がなくなる。そんな時は……。」
少し間を置いて言った。
「電池だけに、充電しよう!」
教室中が一瞬静まり、そのあと一斉に笑い声が広がった。
「先生、それダジャレじゃん!」
「また始まった!」
「苦しい!」
笑いながらツッコミが飛ぶ。滝口先生も、子どもたちと一緒になってニコッ笑っていた。その光景を見つめていた渡辺カイトは、ふと胸の奥が温かくなるのを感じた。(なんで、この先生はいつもダジャレなんて言うんだろう。)最初は、そう思っていた。でも、今日、分かった気がした。笑うと、心が少し軽くなる。張りつめていた気持ちが、ふっとほどける。そんなに落ち込まなくてもいいかもと思ってしまう。ほんの数秒なのに、不思議なくらい楽になる。
(ああ……。)その時だった。雨の日の噂を思い出した。吉田ナナたちが学校中に広めていた、あの話。
「エイトが『どうでもいいことの中に幸せがある』って言ってたんだって。」
みんなは面白がって笑っていた。カイトも、その一人だった。(あの時は意味なんて考えもしなかった。)でも今なら分かる。どうでもいいダジャレ。どうでもいい笑い声。どうでもいい友達との会話。そんな何気ない時間が、人の心を救うこともある。(そうか……。)生きるって、こういうことなのかもしれない。大きな幸せばかりを探していた。でも、本当は違った。毎日の、どうでもいいような出来事の中にこそ、人は笑い、生きる力をもらっている。カイトは小さく微笑んだ。(オレも……救われた。)教室のその笑い声は、誰にも気づかれないまま、一人の少年の心を、確かに照らしていた。
その時、一人男子児童が、手を挙げた。一瞬の静寂。そして真顔で尋ねた。
「あのー、先生、それ、今の、この授業に必要ですか?」
滝口先生は照れくさそうに笑い、小さく頭を下げた。
「まあ、そうだな、必要でないかも知れない。でもな、先生は思うんだ。人生には、余白が必要だと思っている。みんな、今日、「いじめ」について、しっかりと考えたから、学習の箸休めさ。時々、どうでもいい事を考える事で、心に余裕がでる。先生は、そう思っている。」
少し間を置いて、照れ笑いを浮かべる。
「―でも、つい言っちゃった。そこは、本当にごめんなさい。」
そう言って、ぺこりと頭を下げると、教室は笑いに包まれた。
「仕方ない。その代わりに今日は、特別に、人を許せる『心の余裕を作るおまじない』の言葉を、みんなに、教えて進ぜよう。」
宇野サキが、手を挙げた。
「どうしてサムライ言葉になるんですか? そもそも、そんな言葉、あるんですか?」
「あります。それは、、、 『まっ いっか。』 です。」
「はっ?、どんな意味ですか?」
教室では、子どもたちがそれぞれ思い思いに、その意味を考えはじめた。そして、
「滝口先生、僕たち、これから、どんな人生を歩んだらいいですか?。先生の理想の生き方、教えてください。」
「んー、そうだな。運命を受け入れ、寅さんみたいな生き方ができたら、先生はホントに幸せだな。もうおじいちゃんだけど。ははは。」
「何ですか、それ?。意味わかりません。まあ、後でチャッピーさんに聞いてみます。」
その言葉で、教室はくすくすと笑いに包まれた。
「んっ……、いつからだろうね。そんな自分で調べないで……、 まあ、いっか。」
そう言って、滝口透は続きの話をするのをやめた。そして、チャイムが鳴り授業が終了した。
その光景が、今でも鮮明に思い浮かぶ。加藤あきは、思わず吹き出した。
「何なんだ、あのポンコツ教師は……。」
そうつぶやくと、不思議と肩の力が抜けた。一度しかない人生。たまには仕事を忘れ、自分のために時間を使ってもいいのかもしれない。
「よし。来週、年休を取って、舞浜のテーマパークにでも、行くか。」
そんな気持ちになった自分に、加藤あきは少し驚きながらも、静かに笑っていた。人生には、余白が必要だからね!と加藤は、都合よく解釈した。加藤あきは、窓の外に広がる、冬の青空を見上げた。思わず笑みがこぼれる。
あのポンコツ教師は、最後まで誰よりも人の心を動かす先生だった。
もちろん、この物語はフィクションです。登場する建物や場所、人物は架空のものです。存在はしません。だれもが、自分の置かれた立場の中で精一杯生きています。私は、一人も悪役にならない物語を作ろうと思いました。それをこの物語の中で表現したかった。
そして、私は、人間とAIは、対立ではなく、共存できる存在だと思っています。それをこの物語を通して伝えたかった。これからも、ずっと思いやりのある日本社会であってほしいと心から願っています。最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。 白石 遼




