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2/7

お嬢様が殿下に断罪されるですって!? ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!!!!

「お嬢様が、殿下に断罪される……?」


 公爵家の洗濯場で、侍女マリベルの手がぴたりと止まった。


 手元には、白いレースのハンカチ。

 公爵令嬢エレノアが愛用している、雪のように清らかな一枚である。

 それを丁寧に畳んでいたマリベルの耳に、庭師と下働きのひそひそ話が飛び込んできたのだ。


「え、ええ。王城から戻った馬丁が聞いたそうです。明日の王宮夜会で、アルベルト殿下がエレノアお嬢様を皆の前で断罪なさるとか」

「理由は?」

「男爵令嬢イリス様を虐げた、とか……」


 ぱきん。


 洗濯場に、何かが折れるような音が響いた。

 下働きが恐る恐る視線を向ける。

 マリベルの手元で、洗濯ばさみが粉になっていた。


「……マリベルさん?」

「お嬢様が」


 マリベルはゆっくり顔を上げた。


 笑っていた。

 とても、きれいに。


「殿下に、断罪される?」


 庭師が剪定ばさみを落とした。

 下働きが洗濯籠を抱えて一歩下がった。


 かつて騎士団を鉄扇一本で正座させた侍女が、この顔をしている。


 屋敷に勤める者なら、誰でも分かる。

 これは、戦である。


「お嬢様は?」

「本日は温室で読書を……」

「そうですか」


 マリベルは静かに頷いた。


「では、お嬢様のお耳に入る前に、私が少々、確認してまいります」

「どちらへ?」

「王城でございます」


 次の瞬間、マリベルは洗濯場を飛び出した。


「お嬢様が殿下に断罪されるですって!?」


 廊下に絶叫が響く。

 銀盆を持った下働きが壁際に避難した。

 料理長が鍋蓋を盾のように構えた。

 老執事は、紅茶を飲もうとしていた手を止めて静かに目を閉じた。

 聞き覚えがありすぎる声である。


「ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!!!!」


 マリベルは叫びながら、廊下を駆け抜けた。

 老執事は沈黙した。

 それから、そばに控えていた従僕へ告げる。


「馬車を用意しなさい。あと、公爵様にご報告を」

「止めなくてよろしいのですか?」

「止められると思うかね?」

「無理ですね」

「ならば、被害を最小限に抑えるのが我々の仕事だ」


 従僕は深く頷いた。


「今回は王城ですから、前回より被害が大きくなりませんか?」


 老執事は遠ざかっていく絶叫を聞きながら、重々しく答えた。


「……祈りなさい」

「何にですか?」

「城壁の強度に」


 公爵家の使用人たちは、即座に動き出した。



 ***



 その頃、王城では。

 アルベルト王太子殿下が、執務室で震えていた。


「来る、だと?」


 豪奢な執務机の向こうで、金髪の王太子は顔色を失っていた。

 彼の前に膝をついている近衛兵は、深刻な表情で報告を続ける。


「はい。公爵家の侍女マリベルが、王城へ向かっております」

「侍女マリベル……」


 アルベルトの喉が鳴った。

 王都で、今もっとも恐れられている侍女の名である。


 公爵令嬢エレノアを泣かせた騎士がいた。

 その騎士は、騎士団詰所ごと正座させられた。

 止めに入った騎士は柱に括られた。

 なぜかズボンを押さえていた者もいた。

 詳細は不明だが、とにかく侍女が勝った。


 王都では今もなお、こう囁かれている。


 ――公爵令嬢エレノアを泣かせてはならない。

 ――泣かせたら、侍女が来る。


「なぜだ! なぜ侍女が来る!」

「殿下が、明日の夜会でエレノア様を断罪するとお決めになったからでは?」


 側近のユリウスが冷静に言った。

 眼鏡をかけた、いかにも有能そうな青年である。

 アルベルトは机を叩いた。


「まだ決めただけだ! 実行していない!」

「実行前に止めに来るあたり、むしろ大変優秀な侍女かと」

「感心している場合か!」

「では、断罪を取りやめますか?」

「それはできん!」


 アルベルトは立ち上がった。


「イリスが泣いていたのだぞ! エレノア嬢に意地悪をされたと! 公爵令嬢だからといって、弱き令嬢を虐げるなど許されん!」

「証拠は?」

「涙だ!」

「それは証拠ではなく、ただの水分ですよ」

「うるさい!」


 ユリウスは無表情のまま、書類を一枚めくった。


「ちなみに、エレノア様が実際に何をなさったのかは?」

「イリスが言っていた。睨まれた、と」

「それだけですか?」

「昨日、王城の廊下で挨拶を無視された、と」

「エレノア様は昨日、王城にいらしておりません」

「……そうなのか?」

「そうです」


 沈黙。

 アルベルトは目を逸らした。


「と、とにかくだ。ここまで来たら王太子の威厳がある。侍女一人に怯えて断罪を取りやめたなどと知られたら、私の立場がない」

「噂程度で公爵令嬢を断罪しようとしている時点で、すでに立場は危ういのでは?」

「うるさい! 早く始末しろ!」

「始末」

「足止めだ! 足止めと言ったのだ!」

「今、明確に始末とおっしゃいましたが」

「言葉のあやだ!」


 アルベルトは近衛兵を指差した。


「兵を出せ! 王城に侍女を入れるな!」

「はっ!」


 近衛兵は走って出ていった。

 ユリウスはため息をつく。


「殿下」

「何だ!」

「相手はただの侍女です」

「そうだ。ただの侍女だ」

「ですので、ただの侍女に対して兵を出す王太子というのも、なかなか見栄えが悪いかと」


 アルベルトは震えながら叫んだ。


「ただの侍女なら騎士団を正座させないだろうが!」



 ***



 王城正門。

 そこにはすでに、兵たちがずらりと並んでいた。


 槍兵。

 剣兵。

 盾兵。

 そして、城壁の上には弓兵。


 相手は一人。

 黒い侍女服に白いエプロンをつけた、小柄な女性である。

 ただし、その右手には黒塗りの鉄扇が握られていた。


 マリベルは王城の門前で足を止め、実に優雅に一礼する。


「公爵家侍女、マリベルと申します。アルベルト殿下にお取次ぎ願います」


 門番隊長は槍を構えた。


「ここから先は通せん!」

「なぜでございますか?」

「命令だ!」

「殿下の?」

「そうだ!」


 マリベルは微笑んだ。


「なるほど。つまり殿下は、私がお話を伺う前から、やましいところがおありなのですね」

「そういう話ではない!」

「では、どういう話でございますか?」

「ええい、構え!」


 槍兵たちが一斉に槍を向ける。

 マリベルは目を伏せた。


「王城の兵士様方が、侍女一人に槍を向けるのですか?」

「うっ」

「か弱い侍女に」

「か弱い……?」

「お嬢様を断罪されると聞き、心を痛め、今にも倒れてしまいそうな、この私に」


 兵たちは、マリベルの鉄扇を見た。

 誰一人、今にも倒れそうだとは思わなかった。

 隊長が叫ぶ。


「押し返せ!」


 兵たちが踏み出す。

 次の瞬間、黒い影が舞った。


 ぱん、ぱん、ぱん、ぱん。


 乾いた音が連続した。


 槍が飛んだ。

 剣が飛んだ。

 盾が回転しながら空を舞い、城壁にきれいに立てかけられた。


 先頭の兵が膝裏を払われ、なぜか正座した。


 二人目も正座した。


 三人目も正座した。


 四人目は逃げようとしたが、エプロンの紐で足を絡め取られ、やはり正座した。


「なぜ全員正座になるんだ!?」

「反省の姿勢でございます」


 マリベルは涼しい顔で言った。


「次の方」

「次の方ではない!」


 隊長は顔を青くした。


「弓兵! 放て!」


 城壁の上で、弓兵たちが弦を引く。

 無数の矢が空を覆った。

 王城の訓練を積んだ弓兵たちの一斉射撃である。


 普通の侍女なら、逃げる。

 震える。

 悲鳴を上げる。

 だが、マリベルは顔色ひとつ変えなかった。


「まあ」


 鉄扇を開く。


「埃が舞いますわ」


 矢の雨が降る。

 マリベルは一歩踏み出した。

 鉄扇が、優雅に舞う。


 右へ。

 左へ。

 上へ。

 斜めへ。


 矢は一本残らず弾かれた。

 弾かれた矢はなぜか向きを変え、城壁の上の弓兵たちの足元に突き刺さる。

 誰にも当たらない。

 ただし、全員の靴紐だけが綺麗に切れていた。


「ひっ」


 弓兵たちは一斉に座り込んだ。


「命までは取りません」


 マリベルはにこりと微笑む。


「侍女ですので」


 城壁の上の兵士たちは、全員、無言で正座した。

 その様子を執務室で見ていたアルベルトは、窓辺から飛び退いた。


「な、何だあれは!」

「侍女です」


 ユリウスが答えた。


「ただの侍女です」

「ただの侍女が矢を全部弾くか!」

「私もそう思います」

「どうすれば戦闘不能にできるのだ!」


 アルベルトは机に手をつき、荒く息を吐いた。

 そのとき、何かを思い出したように顔を上げる。


「そ、そうだ! 異国から取り寄せたあれがあるだろう!? あれを使え!」


 ユリウスの表情がわずかに曇った。


「殿下。あれはまだ試作段階です。大変危険ですが」

「いいからやれ! 命令だ!」

「相手は侍女ですよ」

「侍女ではない! あれは侍女の形をした災害だ!」

「その災害を招いたのは殿下ですが」

「うるさい!」


 アルベルトの命令は、すぐに兵たちへ伝えられた。


 王城の奥から運び出されたのは、異国製の雷鳴銃。

 長い銃身を持つ、まだこの国では珍しい武器である。


 兵たちは青ざめながら、それを構えた。

 正門前では、マリベルがちょうど正座した兵たちの列を整えているところだった。


「膝を揃えてくださいませ」

「は、はい」

「背筋が曲がっております」

「はい!」

「よろしい。王城の兵士様ですもの。正座も美しくあるべきです」

「何の指導だ、これは……」


 隊長が涙目で呟いた。

 そのとき、雷鳴銃を構えた兵たちが現れる。

 マリベルは振り返った。


「まあ」


 兵たちは震えていた。

 引き金に指をかける。


「撃て!」


 轟音。

 煙。

 火花。


 弾丸がマリベルへ向かって走る。


 だが、次の瞬間。


 マリベルは、そこにいなかった。


「え」


 兵が瞬きする。

 マリベルは弾丸の間を縫うように進んでいた。

 まるで雨の中、濡れない場所だけを選んで歩いているかのように。

 鉄扇が弾丸を弾く。


 ぱん。

 ぱん。

 ぱん。


 弾かれた弾丸は壁に当たり、綺麗に跳ね返り、なぜか兵士たちの兜だけを落としていく。

 兜が、からん、からん、と音を立てて地面に転がった。

 兵たちは武器を構えたまま、硬直した。


「危ない道具でございますね」


 いつの間にか目の前にいたマリベルが、微笑む。


「お子様の手の届かないところに保管してくださいませ」

「う、うわああああ!」


 雷鳴銃部隊は、武器を置いて正座した。

 自主的に。


「よろしい」


 マリベルは満足そうに頷く。

 執務室で見ていたアルベルトは、椅子からずり落ちた。


「雷鳴銃が……効かない……」

「効いてはいましたよ。兜が落ちました」

「敵の兜を落とせ!」

「相手は侍女ですので、兜をかぶっておりません」

「なぜだ!」

「侍女だからでは?」


 ユリウスは淡々と答えた。

 アルベルトは頭を抱える。


「最後の手段だ」

「まさか」

「対魔獣用の爆裂玉を使え!」

「殿下。王城の正門前です」

「構わん!」

「構います」

「私が構わんと言っている!」

「後で修繕費の書類に署名していただきますよ」

「今はそれどころではない!」


 ユリウスは無言で天井を仰いだ。

 主君選びを間違えたかもしれない。

 だが、今さらである。

 命令は出されたのだ。


 対魔獣用の爆裂玉が、城壁の上へ運ばれる。

 兵たちは泣きそうな顔で、それを抱えた。


「本当に投げるのか……?」

「命令だ……」

「相手、侍女だぞ……」

「でも、あの侍女だぞ……」


 全員が納得した。

 爆裂玉が投げられる。

 赤い光を帯びた球体が、マリベルの足元で跳ねた。

 マリベルはそれを見下ろす。


「まあ」


 爆発。


 轟音が王城の空に響いた。

 白煙が正門前を包み込む。

 兵たちは耳を押さえ、目をつむった。

 アルベルトは執務室の窓に飛びつく。


「やったか!?」


 ユリウスが静かに言った。


「殿下」

「何だ!」

「今の台詞は、基本的にやっておりません」


 煙が晴れる。


 そこに、マリベルは立っていた。


 無傷である。

 侍女服に煤ひとつついていない。

 むしろ、爆風でエプロンの皺が綺麗に伸びていた。


「まあ」


 マリベルはエプロンを軽く撫でた。


「アイロンの手間が省けました」


 兵たちは全員、武器を捨てた。

 そして、正座した。

 もう誰も命令を待たなかった。

 その方が早いと悟ったからである。


「どうすれば戦闘不能にできるのだ……」


 アルベルトは、机に突っ伏した。

 王太子の威厳は、すでに机の下に落ちていた。


 ユリウスは窓の外を見る。

 正門前には、見事な正座の列ができていた。


 槍兵。

 剣兵。

 弓兵。

 雷鳴銃部隊。

 爆裂玉担当。


 全員が背筋を伸ばして正座していた。

 謎に統率が取れている。


「ある意味、王城史上もっとも整列していますね」

「黙れ」

「はい」


 そのとき、執務室の扉が静かに叩かれた。


 こん、こん。


 控えめで、礼儀正しい音だった。

 アルベルトは顔を上げる。


「誰だ」


 扉の向こうから、穏やかな声がした。


「失礼いたします」


 アルベルトの顔から血の気が引いた。

 ユリウスが眼鏡を押し上げる。


「おや」


 扉が開く。

 そこには、黒い侍女服に白いエプロンの女性が立っていた。


 右手には黒塗りの鉄扇。

 髪は一筋も乱れていない。

 表情は穏やか。

 どこからどう見ても、ただの侍女である。


 ただし、王城の兵を全員正座させてきた、ただの侍女である。


「公爵家侍女、マリベルでございます」


 マリベルは完璧に一礼した。


「なっ……いつの間に!」


 アルベルトは椅子から転げ落ちそうになった。


「城内の兵たちはどうした!」

「皆様、正座しております」

「城内もか!?」

「はい。大変素直でいらっしゃいました」

「素直にしたのはお前だろう!」

「恐れ入ります」


 マリベルは丁寧に頭を下げる。

 アルベルトは机の裏に逃げ込み、半分隠れた。


「ち、近寄るな! 私は王太子だぞ!」

「存じております」

「ならば控えろ!」

「控えたいのは山々でございますが」


 マリベルは一歩、前へ出た。


「お嬢様が断罪されると伺いましたので」


 室内の温度が下がった。

 ユリウスが、ほんのわずかに姿勢を正す。

 アルベルトは唾を飲み込んだ。


「それは、その……」

「それでは殿下」


 マリベルは鉄扇をゆっくり開いた。

 黒い扇面には、金文字でこう書かれている。


『お嬢様第一』


「すべて吐いていただきましょうか」

「吐く!?」

「なぜお嬢様が断罪されるのか、根掘り葉掘り、毛根の一本に至るまで教えていただきます」

「毛根は関係ないだろう!」

「関係のないことまで調べるのが事実確認でございます」

「横暴だ!」

「噂だけで公爵令嬢を断罪しようとなさるよりは、控えめかと」


 ユリウスが小さく頷いた。


「正論です」

「ユリウス!?」


 アルベルトは裏切られたような顔で側近を見た。

 ユリウスは表情を変えない。


「殿下。ここは正直にお話しされた方がよろしいかと」

「なぜだ!」

「王城の兵力が、すでに正座しております」

「……」

「次はおそらく、殿下です」


 アルベルトは震えた。

 マリベルは微笑んでいる。

 とても、美しく。


「殿下」

「は、はい」

「イリス男爵令嬢が、お嬢様に虐げられたと訴えたのですね?」

「そ、そうだ」

「具体的には?」

「睨まれたと」

「お嬢様は目つきが涼やかでいらっしゃいます。見惚れたの間違いでは?」

「知らん!」

「他には?」

「挨拶を無視されたと」

「その日は?」

「昨日だ。王城の廊下で無視されたと言っていた!」

「昨日、お嬢様は公爵家の温室で一日中読書をされておりました」

「なぜ分かる!」

「私がお茶をお淹れしておりましたので」

「くっ」

「他には?」

「ドレスに紅茶をかけられたと」

「お嬢様は紅茶をかけるくらいなら、まず相手の品性に静かに失望なさいます」

「それはそれで怖いな!」

「褒め言葉として承ります」


 マリベルは鉄扇を閉じた。

 その音に、アルベルトがびくりと肩を揺らす。


「つまり、殿下は証拠も確認せず、相手の言葉だけを信じ、お嬢様を公衆の面前で断罪しようとなさった」

「……」

「王太子ともあろう御方が」

「……」

「涙を証拠と勘違いなさった」

「……」

「まあ」


 マリベルは口元に手を添えた。


「赤子でございますか?」

「赤子!?」

「失礼いたしました。大変純粋でいらっしゃる」

「意味が同じだ!」


 ユリウスが横から言った。


「いえ、赤子の方がまだ確認を取ります」

「ユリウス!?」

「失礼いたしました。言い過ぎました」

「そうだろう!」

「赤子に」

「私にではないのか!?」


 マリベルはにっこり微笑んだ。


「殿下」

「な、何だ」

「正座を」

「嫌だ!」

「正座を」

「私は王太子だ!」

「正座を」

「……はい」


 アルベルトは、机の前に正座した。

 ユリウスはそれを見て、静かに書類へ何かを書き込んだ。


「何を書いている!」

「本日の記録です。王太子殿下、侍女に論破され正座、と」

「消せ!」

「公文書ではありません。個人的な覚書です」

「なお悪い!」


 そのとき、廊下の向こうが少し騒がしくなった。

 マリベルの耳がぴくりと動く。

 続いて、扉の外から老執事の声がした。


「失礼いたします。公爵令嬢エレノア様がお見えです」

「お嬢様!?」


 マリベルは、本日初めて動揺した。


 扉が開く。


 そこに立っていたのは、公爵令嬢エレノアだった。

 淡い青のドレスをまとい、背筋を伸ばし、静かな表情をしている。

 だが、その目には、わずかな不安があった。

 マリベルは鉄扇を背後に隠した。

 隠しきれていなかった。


「マリベル」

「はい、お嬢様」

「これは何?」


 エレノアは室内を見た。


 机の前で正座する王太子。

 横で記録を取る側近。

 鉄扇を背中に隠そうとしている侍女。

 窓の外には、正座する兵たちの列。


「お話を伺っておりました」

「また?」

「はい」

「王城で?」

「はい」

「殿下を正座させて?」

「結果的に」


 エレノアは片手で額を押さえた。


「帰ったらお説教です」

「はい」

「長いお説教です」

「はい」

「今回は王城なので、前回より長いです」

「はい」

「反省してる?」

「お嬢様を守りに来たことについては、反省いたしかねます」

「マリベル」

「ですが、爆裂玉でエプロンの皺が伸びた点については、少々得をした気がしております」

「そこではありません」


 エレノアは深く息を吐いた。

 そして、正座しているアルベルトへ向き直る。


「アルベルト殿下」

「エ、エレノア嬢……」

「私がイリス様を虐げたというお話について、直接お伺いしてもよろしいでしょうか」


 アルベルトは、先ほどまでの勢いを完全に失っていた。

 正座したまま、視線を泳がせる。


「その……イリスが泣いていて……」

「はい」

「君に睨まれたと」

「睨んだ覚えはありません」

「……はい」

「昨日、私が挨拶を無視したとも聞きましたが?」

「……はい」

「昨日、私は公爵家におりました」

「……はい」

「紅茶をかけられたとも?」

「……はい」

「私は、紅茶を粗末にする趣味はありません」


 マリベルが深く頷いた。


「お嬢様は紅茶にも礼儀を尽くされる御方ですので」

「マリベル」

「失礼いたしました」


 エレノアは静かにアルベルトを見た。


「殿下、私は自分が間違えたときは謝罪いたします。身分が上だからといって、誰かを傷つけてよいとは思っておりません」

「……」

「ですが、していないことを認めることはできません」


 その声は大きくなかった。

 けれど、執務室にまっすぐ響いた。


「もし私に罪があるとお考えなら、証拠をお示しください。証人をお呼びください。事実を確認してください」


 アルベルトはうつむいた。


「……すまなかった」


 小さな声だった。

 だが、確かにそう言った。

 エレノアは目を伏せる。


「謝罪は、私だけでなく、イリス様にもなさってください」

「イリスに?」

「はい。彼女が嘘をついたのなら、その理由を確認すべきです。誰かに言わされた可能性もありますし、泣いていたなら、なおさらです」


 ユリウスが少しだけ目を見開いた。

 マリベルも、胸の前で手を握る。


 お嬢様。

 なんとお優しい。

 そして、なんと強い。


 マリベルは今すぐ王城の床にひれ伏したくなった。

 だが耐えた。

 侍女なので。


 アルベルトは苦い顔で頷いた。


「分かった。正式に調査する。君を断罪する話は取りやめる。公爵家にも謝罪する」

「ありがとうございます」


 エレノアは丁寧に頭を下げた。

 マリベルは鉄扇を握ったまま、にっこり微笑む。


「殿下」

「何だ」

「もし次に、証拠もなくお嬢様を断罪しようとなさった場合」

「場合?」

「次は、城ごと正座させます」

「城ごと!?」

「マリベル」

「冗談でございます、お嬢様」


 エレノアは疑わしげにマリベルを見た。

 マリベルは完璧な笑顔で返す。

 侍女なので。



 ***



 その日の夕方。

 王城には、新たな通達が出された。


 一つ。

 噂のみを根拠に貴族令嬢を断罪してはならない。


 一つ。

 涙は証拠ではない。


 一つ。

 公爵令嬢エレノアに関する案件は、必ず事実確認を行うこと。


 そして、誰が書き足したのか分からない、小さな一文が最後に添えられていた。


『なお、公爵家侍女マリベルを怒らせてはならない』


 ユリウスはその通達を見て、しばらく考えた。

 削除しようか。

 いや。

 残そう。

 王国の安全保障上、必要な注意書きである。



 ***



 一方、公爵家へ戻ったマリベルは、エレノアから宣告通り長い説教を受けていた。


「マリベル。王城で暴れてはいけません」

「はい」

「兵士の方々を正座させてもいけません」

「はい」

「殿下を正座させてもいけません」

「はい」

「爆裂玉をアイロン代わりにしてもいけません」

「はい」

「分かった?」

「はい、お嬢様」

「本当に?」

「お嬢様を断罪しようとする者が現れない限りは」

「マリベル」

「善処いたします」

「絶対しない顔ね」


 エレノアは呆れたようにため息をついた。

 けれど、その口元は少しだけ緩んでいた。

 マリベルは胸の奥が温かくなる。

 お嬢様が笑っている。

 ならば、今日の戦も勝利である。



 ***



 翌朝。

 公爵家に、王城から正式な謝罪状が届いた。

 差出人はアルベルト王太子殿下。

 内容は、公爵令嬢エレノアへの謝罪と、事実確認不足への反省。


 そして、別紙としてもう一枚。

 王城兵士訓練計画。

 講師欄には、こう書かれていた。


『公爵家侍女マリベル殿』


 エレノアが紅茶を吹きそうになった。


「またあなたなの!?」

「光栄でございます」

「受けないでね!」

「ですが、お嬢様。王城の皆様は正座の姿勢に少々難がございました」

「そこを鍛えなくていいの!」


 マリベルは真剣な顔で答えた。


「正座は心を映します」

「騎士にも兵士にも必要ないわ!」

「反省には必要でございます」

「何を教えるつもりなの?」

「礼儀作法と危機管理でございます」

「危機とは?」

「お嬢様を泣かせることです」


 エレノアは額を押さえた。

 老執事はそっと視線を逸らした。

 公爵は静かに頷いた。


「必要な講義かもしれんな」

「お父様まで!?」


 その日から王都では、また新しい噂が流れ始めた。


 公爵令嬢エレノアを断罪しようとすると、侍女が来る。

 弓も効かない。

 雷鳴銃も効かない。

 爆裂玉は、エプロンの皺を伸ばすだけ。


 その名は、マリベル。


 職業は、侍女。

 ただの侍女である。

 本人も、周囲も、そう言い張っている。


 武器は忠誠心。

 防具はエプロン。

 必殺技は、完璧な礼儀作法。


 そして今日も、公爵家のどこかで彼女の声が響く。


「お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」


 屋敷中の使用人が、一斉に手を止めた。

 老執事は何も聞かず、ただ静かに頷く。


「馬車を用意しなさい。あと、公爵様にご報告を」


 公爵家の者たちは、もう誰も理由を尋ねない。

 お嬢様が呼ばれた。

 ならば、戦である。


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