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第一章 お嬢様ああああああああああああああああ!!!!

「お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」


 公爵家の廊下に、侍女マリベルの絶叫が響き渡った。


 悲鳴ではない。

 怒号でもない。

 魂の底から噴き上がる、忠誠心の爆発である。


 銀盆を持った下働きが壁際に退避し、庭師が剪定ばさみを落とし、老執事が紅茶を落としかけた。


「マリベル、廊下を走っては――」

「お嬢様の一大事ですので!!!!」

「ならば仕方ありませんな」


 老執事は即座に道を開けた。

 この屋敷において、公爵令嬢エレノアの一大事はすべての作法に優先する。


 マリベルはスカートの裾を掴み、廊下を駆け抜けた。

 目指すは、エレノアの私室。


 扉の前にたどり着いたマリベルは、一瞬だけ息を整えた。

 侍女たるもの、いかなるときも礼節を忘れてはならない。

 たとえ主人が恋仲の騎士に浮気されたという、腸が煮えくり返るにもほどがある事件が発生していたとしても。


「失礼いたします、お嬢様!」


 礼節を込めて、扉を強めに開けた。


 強めに。


 決して蹴破ってはいない。


 そこにいたのは、たった一人で長椅子に腰かけているエレノアだった。

 いつも背筋を伸ばし、誰よりも美しく微笑む公爵令嬢。

 マリベルが幼い頃から仕えてきた、自慢の主人。

 そのエレノアが、目元を赤くしてハンカチを握りしめていた。


「……マリベル」


 名前を呼ぶ声が、ひどく小さい。

 その時点で、マリベルの中の何かは半分ほど壊れた。

 だが、侍女である。

 まだ耐えた。

 主人の前で取り乱すなど、侍女の名折れである。


 マリベルは静かに近づき、膝をついてエレノアの手を取った。


「お嬢様。お話は伺いました」

「そう……」


 エレノアは目を伏せた。

 長い睫毛の先に、涙がひと粒だけ残っている。


「私が、もっと可愛げのある女だったら……」


 マリベルの中の何かが、完全に切れた。

 ただし、外見上は笑顔である。

 公爵家の侍女は、怒り狂っているときほど美しく微笑むよう教育されている。


「お嬢様」

「私、きっと重かったのね。セドリック様は、私といると疲れてしまったのかもしれないわ。だから、あの方のところへ……」

「お嬢様」

「彼にも事情があったのよ。私がもっと優しく、もっと可愛らしく、もっと――」

「お嬢様」


 三度目の呼びかけで、エレノアはようやく顔を上げた。

 マリベルは微笑んでいた。

 とても、きれいに。


「お嬢様は悪くございません」

「でも」

「お嬢様は悪くございません」

「けれど」

「お嬢様は、悪く、ございません」


 ひとつひとつ、銀の釘を打ち込むように言い切った。

 エレノアの唇が震える。


「でも、私……」

「悪いのは、恋人同然のお嬢様がいながら、別の令嬢に鼻の下を伸ばしたクソ野郎でございます」

「クソ野郎……?」

「失礼いたしました。大変不誠実な騎士様でございます」

「言い直しても意味は同じではなくて?」


 マリベルは立ち上がった。


「百歩譲っても、千歩譲っても、一万歩譲っても、どう考えてもセドリック卿が悪うございます」

「マリベル、落ち着いて」

「落ち着いております」

「目が落ち着いていないわ」

「落ち着いております」


 マリベルはエレノアの涙をそっと拭った。

 その指先だけは、驚くほど優しかった。


「お嬢様。少々、席を外します」

「どこへ行くの?」

「騎士団詰所でございます」

「待って。マリベル、待ちなさい」

「大丈夫です。私は侍女ですので、礼儀正しくお話を伺ってまいります」

「その言い方が一番怖いのだけれど」


 エレノアが止めようと手を伸ばしたときには、もう遅かった。

 マリベルはエプロンを翻し、完璧な一礼を残して部屋を出た。

 そして廊下に出た瞬間、再び走り出す。


「ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!!!!」


 叫びながら。

 廊下の向こうで、老執事が静かに目を伏せた。


「……馬車を用意しなさい。あと、公爵様にご報告を」


 そばに控えていた若い従僕が、青ざめた顔で尋ねる。


「マリベルさんを止めなくてよろしいのですか?」


 老執事は、遠ざかっていく絶叫を聞きながら答えた。


「止められると思うかね?」

「無理ですね」

「ならば、被害を最小限に抑えるのが我々の仕事だ」


 従僕は深く頷いた。


「馬車と、公爵様へのご報告ですね」

「ああ。急ぎなさい。あれはもう、門を突破する」


 公爵家の使用人たちは、即座に動き出した。



 ***



 王都騎士団詰所は、普段から騒がしい場所である。


 剣の稽古の音。

 号令。

 馬の嘶き。

 若い騎士たちの笑い声。


 だが、その日。

 詰所の門番は、真正面から近づいてくる一人の侍女を見て、言葉を失った。


 黒い侍女服。

 白いエプロン。

 きっちり結われた髪。

 背筋は美しく伸び、歩き方は淑やかで、表情は穏やか。

 どこからどう見ても、公爵家に仕える品のよい侍女である。


 ただし、その右手には黒塗りの鉄扇が握られていた。


「公爵家侍女、マリベルと申します」


 マリベルは門番に向かって、完璧に一礼した。


「セドリック・ラングレー卿にお取次ぎ願います」

「せ、セドリックなら訓練場にいるが……どのようなご用件で?」

「ぶっ殺しに参りました」

「用件が明確すぎる!」


 門番は悲鳴を上げた。

 マリベルは、はっとしたように口元へ手を添える。


「失礼いたしました。正確には、社会的に、精神的に、騎士としての尊厳を丁重に埋葬しに参りました」

「余計に怖い!」

「お通しください」

「通せるわけがないでしょう!?」


 門番が槍を構えた。

 次の瞬間。


 ぱん


 乾いた音がした。

 マリベルの鉄扇が槍の穂先を横から叩き、門番の手からあっさり武器を弾き飛ばしたのだ。

 槍は空を舞い、きれいに武器掛けへ戻った。

 門番は自分の両手を見下ろす。

 何もない。


「……え?」

「ありがとうございます。では失礼いたします」

「待って待って待って!」


 門番が慌てて追いすがろうとしたが、マリベルは振り返らずに言った。


「私、急いでおりますので」

「誰かああああ! 侍女が! 侍女が攻めてきたああああ!」


 その叫びで、訓練場の騎士たちが一斉に振り向いた。

 彼らの視線の先で、マリベルは実に優雅に歩いてくる。

 ただし、その背後では、門番が慌てふためいていた。


「何者だ!」

「止まれ!」

「ここは騎士団詰所だぞ!」


 三人の若い騎士が前に出ると、マリベルは微笑んだ。


「存じております。ですから参りました」

「侍女が何の用だ!」

「お嬢様を泣かせたクソ野郎を引き取りに」

「クソ野郎!?」

「失礼いたしました。不誠実な騎士様を引き取りに」

「言い直しても悪化している!」


 一人の騎士が剣を抜いた。


「これ以上進むなら、実力で止める!」

「まあ」


 マリベルは目を細めた。


「騎士様が、侍女相手に剣を?」

「うっ」

「か弱い侍女に?」

「か弱い……?」

「お嬢様の涙で胸を痛め、今にも倒れてしまいそうな、この私に?」


 その場にいた全員が、マリベルの右手の鉄扇を見た。

 誰も「か弱い」とは思わなかった。

 だから退けなかった。

 剣を構え、踏み込んだ。

 次の瞬間、マリベルの姿が消えた。


「え」


 騎士が瞬きをしたときには、彼の剣は地面に落ちていた。

 手首には痛みもない。

 ただ、いつの間にか剣だけが弾かれていた。


 さらに、膝裏を軽く払われ、彼はその場に正座していた。


「なぜ正座!?」

「反省の姿勢でございます」


 マリベルは涼しい顔で言った。


「次の方」

「次の方じゃない!」


 二人目の騎士が飛びかかる。

 鉄扇が開いた。


 ぱちん、ぱちん、ぱちん。


 乾いた音が三度響く。


 一度目で剣が飛び。

 二度目で兜がずれ。

 三度目で騎士のベルトが外れた。


「うわああああ!?」


 騎士は慌ててズボンを押さえ、その場にしゃがみ込んだ。


「命まで取る気はございません」

「尊厳は取りに来てる!」

「お嬢様の涙に比べれば軽いものでございます」


 三人目は逃げようとした。


 マリベルは懐から白いレースのリボンを取り出し、ひゅっと投げた。

 リボンは蛇のように騎士の足へ絡みつき、彼は前のめりに倒れた。


「リボンで!?」

「侍女ですので」

「侍女のリボンはそう使わない!」


 訓練場は混乱に包まれた。

 騎士たちは次々にマリベルを止めようとした。

 だが、誰一人として彼女に触れることすらできない。


 剣は弾かれる。

 槍は絡め取られる。

 突進した者は、なぜか正座させられる。

 背後に回った者は、なぜかエプロンの紐で柱に括られる。


 マリベルは息ひとつ乱さず、鉄扇を閉じた。


「申し訳ございません。廊下を走った直後ですので、少々手加減が雑になりました」

「これで手加減だって!?」


 訓練場の隅で、セドリック・ラングレーは青ざめていた。


 金髪琥珀眼。

 侯爵家の三男。

 若くして騎士団に入り、見目のよさと愛想のよさで令嬢たちに人気の騎士。

 公爵令嬢エレノアと将来を約束していた関係でありながら、男爵令嬢ロザリンドと夜会の庭で手を取り合っていた男である。


 マリベルは彼を見つけた。

 にこり、と微笑む。


「セドリック・ラングレー卿でございますね」

「ひっ」


 セドリックは情けない声を漏らした。

 先ほどまで周囲の騎士たちに囲まれ、余裕ぶっていた顔は、もう跡形もない。


 マリベルが一歩近づく。

 セドリックが一歩下がる。

 マリベルがまた一歩近づく。


 セドリックはさらに下がり、訓練用の木箱に足を取られた。


「うわっ!」


 そのまま尻もちをつく。

 腰を抜かしたのだ。


 マリベルは彼の前で立ち止まった。

 鉄扇を、ゆっくり開く。

 黒塗りの扇面には、金文字でこう書かれていた。


『お嬢様第一』


 セドリックの顔から血の気が引いた。


「ま、待て。話せば分かる」

「もちろんでございます」


 マリベルは優しく微笑んだ。


「そのために参りました」

「なぜ武器を持っている!?」

「礼儀でございます」

「どこの礼儀だ!」

「公爵家流でございます」


 マリベルは鉄扇の先を、セドリックの喉元すれすれに向けた。

 触れてはいない。

 触れてはいないが、セドリックは涙目になった。


「お、おい! 誰か! 助けろ!」


 周囲の騎士たちは、地面に正座していたり、柱に括られていたり、ズボンを押さえていたりした。

 誰も助けられない。


「なぜ全員負けているんだ!?」

「日頃の鍛錬が足りないのでは?」

「お前が強すぎるんだよ!」

「恐れ入ります」


 マリベルは丁寧に頭を下げた。

 セドリックは這うように後ずさる。


「わ、悪かった! 謝る! 謝るからその扇をしまってくれ!」

「何について謝るのでございますか?」

「え?」


 マリベルの笑顔が深くなった。


「まさか、命が惜しいからとりあえず謝っているわけではございませんよね?」

「そ、それは」

「お嬢様を泣かせたことについて、でございますか?」

「そ、そうだ!」

「お嬢様を裏切ったことについて、でございますか?」

「そうだ!」

「お嬢様に『自分が悪いのではないか』と思わせたことについて、でございますか?」

「そう! 全部! 全部俺が悪かった!」


 セドリックは両手を上げた。

 完全な降伏だった。


「命だけは助けてくれ!」


 訓練場が静まり返る。

 マリベルは鉄扇を閉じた。


「命は取りません」

「ほ、本当か?」

「はい。私は侍女ですので」


 セドリックはほっと息を吐いた。


 だが、次の瞬間。


 マリベルは満面の笑みで言った。


「ただし、お嬢様の名誉を傷つけた件については、社会的にきっちり死んでいただきます」

「やっぱり殺す気じゃないか!」

「社会的に、でございます」

「その区別が今いちばん怖いぞ!」


 そのとき。

 訓練場の入口に、低い声が落ちた。


「何の騒ぎだ」


 騎士団長ヴィクターだった。

 長身で、黒髪の、いつも冷静な男である。

 彼は訓練場を見渡した。


 正座する騎士。

 柱に括られた騎士。

 ズボンを押さえる騎士。

 地面に腰を抜かしたセドリック。


 そして、その中心に立つ、鉄扇を持った侍女。


 ヴィクターは数秒だけ沈黙した。


「……公爵家の侍女殿」

「はい」

「これは?」

「お話を伺っておりました」

「話を聞くだけで、なぜ騎士団員が半壊している」

「皆様が大変お元気でしたので」

「そうか」


 ヴィクターは深く息を吐いた。


「セドリック」

「だ、団長! 助けてください! この侍女、俺を殺す気です!」

「殺す気なのか?」


 ヴィクターがマリベルを見る。

 マリベルは胸に手を当て、優雅に一礼した。


「物理的には、まだ」

「まだ」

「はい」

「では、物理的でない方は?」

「すでに準備が整っております」

「なるほど」


 ヴィクターはセドリックを見下ろした。


「自業自得だな」

「団長!?」

「何をしたのかは知らんが、公爵家の侍女をここまで怒らせた。結果、騎士団の訓練場がこの有様だ。セドリック、お前には後ほど、正式な事情聴取を行う……あと、騎士団員は全員、鍛え直しだ」

「俺が被害者では!?」

「最初の加害者はお前だ」


 マリベルは小さく頷いた。


「さすが騎士団長様。話が早くて助かります」

「君ほどではない」

「恐れ入ります」


 そう言って、マリベルが鉄扇を閉じたときだった。

 門の前に、公爵家の馬車が止まった。

 老執事が降りる。

 続いて、公爵令嬢エレノアが姿を見せた。


「お嬢様!?」


 マリベルは初めて動揺した。

 それまで鉄扇片手に騎士たちを正座させ、柱に括りつけ、セドリックを腰抜けにしていた女とは思えないほど、分かりやすくうろたえた。


「な、なぜこちらへ……!」


 エレノアはまだ少し目元を赤くしていた。

 だが、背筋は伸びていた。

 公爵令嬢としての矜持を、震える指先で必死に握りしめているような姿だった。

 そして、訓練場を見渡す。

 訓練場は、すでに戦いの場ではなくなっていた。


 剣は地面に転がり、騎士たちは誰一人として立ち上がろうとしない。

 ある者は正座し、ある者は柱に括られ、ある者は青い顔でズボンを押さえている。

 木箱の前では、セドリックが腰を抜かしていた。

 そして、そのすべての中心に黒塗りの鉄扇を手にしたマリベルが立っている。


 エレノアはしばらく沈黙した。


「……マリベル」

「はい、お嬢様」

「これは何?」

「お話を伺っておりました」

「お話……」

「はい」


 エレノアは柱に括られた騎士を見た。

 騎士は無言で首を横に振った。

 お話ではなかった、という目をしていた。


「マリベル」

「はい、お嬢様」

「その扇は?」

「お嬢様の日除け用に持参したものでございます」

「日除け用の扇で、騎士団の方々を?」

「皆様、日頃の鍛錬が足りないようで」


 騎士たちが一斉に目を逸らした。

 誰も反論できなかった。

 反論したら、また正座させられる気がしたからである。

 エレノアは小さく息を吐いた。


「後でお説教です」

「はい」

「長いお説教です」

「はい」

「それと、夕食後にもお説教です」

「はい」

「反省してる?」

「お嬢様を泣かせた男を探しに来たことについては、反省いたしかねます」

「マリベル」

「ですが、騎士団の備品を壊さなかった点については、お褒めいただけるかと」

「褒めません」


 エレノアはそう言ってから、セドリックへ視線を向けた。

 その瞬間、セドリックの肩がびくりと跳ねる。


「エ、エレノア……」


 彼は地面に座り込んだままだった。

 いつもなら整えられている金髪は乱れ、上等な騎士服には土埃がつき、顔色は青い。

 夜会で令嬢たちに微笑んでいた美しい騎士の面影は、ほとんどなかった。

 エレノアは静かに彼を見下ろした。


「セドリック様。ロザリンド様とのことは、本当ですか」

「ち、違う。誤解だ。君が思っているようなことじゃない」

「では、どういうことですか」

「それは……」


 セドリックは言葉に詰まった。

 エレノアはセドリックから目を逸らさなかった。


「セドリック様。ロザリンド様とのことを、私にご説明いただけますか」

「そ、それは……誤解だ。俺はただ、ロザリンド嬢と少し話をしていただけで」

「少し話を」


 エレノアが静かに繰り返す。

 マリベルが、鉄扇を握ったまま一歩前へ出た。


「お嬢様。目撃した者の報告によりますと、手を握り、肩を抱き『君の前では本当の自分でいられる』とおっしゃっていたそうでございます」

「少しの範囲が広いのね」

「騎士様の歩幅でございますので」

「マリベル」

「失礼いたしました」


 エレノアは、もう一度セドリックを見た。


「セドリック様。今の報告は、事実ですか」

「そ、それは……その場の雰囲気で……」

「そうですか」

「だから、違うんだ。俺はただ、君があまりにも完璧だから、息が詰まることがあって……」


 その言葉に、エレノアの指先がわずかに震えた。

 マリベルの鉄扇が、ぱきん、と嫌な音を立てる。

 折れたわけではない。

 怒りで鳴ったのである。


「ま、待て! 待てマリベル! 今のは言葉のあやだ!」


 セドリックは両手を上げた。


「殺さないでくれ!」

「殺しません」


 マリベルはにっこり微笑む。


「ただの侍女ですので」

「ただの侍女は騎士団を壊滅させない!」

「壊滅はしておりません。皆様、正座しているだけでございます」

「それが怖いんだ!」


 騎士団長ヴィクターが、深く眉間を押さえた。


「公爵家の侍女殿」

「はい」

「ひとまず、鉄扇を下ろしてもらえるか」

「お嬢様の前ですので、もちろんでございます」


 マリベルはすっと鉄扇を閉じた。

 その音だけで、セドリックが「ひっ」と声を漏らす。

 エレノアは、そんな彼を見ていた。


 つい先ほどまで、自分を責めていた。

 もっと可愛げがあれば。

 もっと軽やかに笑えれば。

 もっと彼を癒せる女であれば。


 けれど今、目の前のセドリックは、エレノアではなくマリベルの鉄扇を見て震えている。


 情けないと思った。

 同時に、胸の奥に刺さっていた棘が少しだけ抜けた。

 この人のために、自分のすべてを否定する必要などなかったのだ。


「セドリック様」


 エレノアは静かに口を開いた。


「私は、あなたに誠実であろうとしました。あなたの立場を考え、言葉を選び、あなたの努力を信じようとしました」

「エレノア、俺は」

「それを重いと言われるなら、私はもう、あなたの隣には立てません」


 セドリックの顔が歪む。


「待ってくれ。俺は君を嫌いになったわけじゃないんだ。ただ、少し息苦しかっただけで」

「ええ。きっとそうなのでしょう」


 エレノアは小さく微笑んだ。

 悲しい微笑みだった。

 けれど、弱くはなかった。


「あなたは私を嫌いになったのではなく、私に誠実でいることから逃げたのです」


 セドリックは言葉を失った。

 訓練場に沈黙が落ちる。

 そのとき、訓練場の入口から、甘い香水の匂いがふわりと流れ込んだ。


「セドリック様? 先ほどから何の騒ぎですの?」


 桃色のドレスを着た令嬢が、不安げに顔をのぞかせる。

 ロザリンド男爵令嬢だった。

 どうやらセドリックを訪ねて騎士団詰所まで来ていたらしい。手には可愛らしく包まれた焼き菓子の箱まで持っている。

 マリベルの鉄扇が、静かに開いた。


「まあ」


 声だけは、恐ろしく穏やかだった。


「昨日の今日で、差し入れでございますか」


 セドリックの顔色が、さらに悪くなった。


「ロ、ロザリンド……なぜここに……」

「だって、今日は訓練のあとにお会いできると……」


 ロザリンドはそこで、ようやく訓練場の空気がおかしいことに気づいた。


 足元には、騎士たちの剣が転がっている。

 周囲の騎士たちは、誰も彼女と目を合わせようとしない。

 セドリックは青い顔で座り込んでいる。

 そのすぐそばに、鉄扇を持った侍女。


 そして、背筋を伸ばして立つ公爵令嬢エレノア。


「……これは、どういう状況ですの?」

「私もぜひ伺いたいところですわ」


 エレノアが静かに言った。

 ロザリンドは、はっとしてエレノアを見る。


「あなたは……?」

「エレノア・アルヴァインと申します」


 ロザリンドの顔色が変わった。


「公爵令嬢、エレノア様……?」

「はい」


 エレノアはセドリックを見たまま、静かに続けた。


「セドリック様と、将来をお約束していた者です」

「……将来を?」


 ロザリンドは唇を震わせ、セドリックを見た。


「セドリック様。あなた、私には『親に決められただけの冷たい縁談があるが、心は君にある』とおっしゃいましたわよね」

「ロザリンド、それは」

「公爵令嬢との関係を、冷たい縁談と?」


 エレノアの声は静かだった。

 マリベルの鉄扇が、また少し開いた。

 セドリックは半泣きで後ずさる。


「違う! 違うんだ! その場の雰囲気で、つい!」

「その場の雰囲気で公爵家を侮辱なさる騎士様」


 マリベルが静かに復唱した。


「大変珍しい害虫でございますね」

「害虫!?」

「失礼いたしました。害のある騎士様でございます」

「悪化したな!」


 ロザリンドは涙目のまま、ふんと顔を背けた。


「私、冷たい縁談に苦しむ悲劇の騎士様をお慰めしているつもりでしたのに。まさか、ただの浮気男でしたなんて」

「ただの浮気男」


 マリベルが小さく頷く。


「大変的確でございます」

「マリベル」

「失礼いたしました、お嬢様」


 エレノアにたしなめられ、マリベルは一礼した。

 だが、反省はしていなかった。


 騎士団長ヴィクターがセドリックを見下ろす。


「セドリック・ラングレー」

「だ、団長……」

「公爵家への不誠実な発言、複数令嬢への虚偽説明、騎士団の制服を着たままの不適切な行動。後ほど正式に事情聴取を行う」

「団長、これは私事です!」

「私事で済ませたいなら、騎士団の制服を着たまま令嬢を口説くべきではなかったな」


 セドリックの顔がさらに青くなった。


「そ、それより団長! この侍女をどうにかしてください! 騎士団員を何人も倒しているんですよ!」


 ヴィクターは訓練場を見渡した。


 正座している騎士たちは、一斉に目を逸らした。

 柱に括られた騎士は、小さく首を振った。

 ズボンを押さえている騎士は、何も見なかったことにした。


 ヴィクターは重々しく頷く。


「そうだな。由々しき問題だ」

「でしょう!?」

「ああ。騎士団の鍛錬不足が明らかになった」

「そっち!?」

「ただの侍女にここまでされた以上、反論はあるまい」


 騎士たちは沈黙した。

 反論はなかった。

 できなかった。

 ヴィクターはマリベルを見る。


「公爵家の侍女殿」

「はい」

「後日、我が騎士団に礼節と危機管理について講義をしてもらいたい」

「私が、でございますか?」

「君以上の適任はいない」


 騎士たちが一斉に青ざめた。

 マリベルはにっこりと微笑む。


「光栄でございます」

「マリベル、ほどほどにね」

「もちろんでございます、お嬢様」


 ほどほど。

 それは、マリベルにとって大変難しい言葉だった。

 エレノアは最後に、セドリックへ向き直る。


「セドリック様。これまでありがとうございました」

「エレノア、待ってくれ。本当に、俺は」

「お幸せに」


 そう言って、エレノアは背を向けた。

 凛としていた。

 けれど、その歩幅がほんの少しだけ小さいことを、マリベルは見逃さなかった。

 すぐに隣へ寄り添う。


「お嬢様」

「マリベル」

「はい」

「帰りましょう」

「はい」

「それと……」

「はい」

「帰ったら、お説教です」

「はい」

「騎士団を半壊させた件について」

「半壊ではございません」

「では何なの?」

「整理整頓でございます」

「騎士の方々は物ではありません」

「では、整列でございます」

「無理があるわ」


 エレノアは呆れたように言った。

 それでも、その声から先ほどまでの震えは消えていた。


 マリベルは何も言わず、半歩後ろへ下がる。

 帰るための道を譲るように。

 エレノアは一度だけ訓練場を見渡し、ゆっくりと歩き出す。


 馬車に乗る直前、エレノアはふと足を止めた。

 そして、振り返る。


 訓練場では、まだセドリックが腰を抜かしていた。

 その姿を見てエレノアは小さく息を吐く。


「私、あの方のために泣いていたのね」

「はい」

「少し、悔しいわ」

「はい」

「でも、もう大丈夫」


 エレノアはマリベルを見た。


「ありがとう、マリベル」


 その一言で、マリベルは膝から崩れ落ちそうになった。

 だが耐えた。

 侍女なので。


「もったいなきお言葉でございます」

「あと、もう勝手に殴り込みに行ってはだめよ」

「殴ってはおりません」

「倒していたでしょう」

「鉄扇で軽く整えただけでございます」

「人を整えないで」


 エレノアは今度こそ笑った。

 涙の跡が残る顔で。

 でも、確かに笑った。


 マリベルは胸の奥が熱くなる。

 お嬢様が笑った。

 それだけで、今日の戦は勝利である。



 ***



 公爵家へ戻ると、屋敷中の使用人が玄関広間に集まっていた。

 庭師も、料理長も、洗濯係も、馬丁も、全員である。

 エレノアが入ってくるなり、彼らは一斉に頭を下げた。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


 エレノアは驚いたように立ち止まる。

 老執事が静かに言った。


「皆、お嬢様のお帰りをお待ちしておりました」

「……みんな」


 エレノアの目がまた潤む。

 マリベルは即座にハンカチを構えた。

 今度の涙は、先ほどとは違う。

 だから少しだけ許す。


「私、情けないところを見せてしまったわね」

「いいえ」


 マリベルは即答した。


「お嬢様は、今日も大変ご立派でございました」

「でも、泣いたわ」

「涙を流すことと、誇りを失うことは別でございます」


 エレノアは息を呑んだ。

 マリベルはまっすぐに主人を見つめる。


「お嬢様は、きちんと傷つかれました。きちんと怒るべきところで怒り、きちんと別れを告げられました。それは、情けないことではございません」


 広間が静まり返る。

 エレノアはゆっくりと目を伏せた。


「……私、本当は悔しかったの」

「はい」

「私の何が足りなかったのかって、ずっと考えていたけれど……本当は、悔しかった。大切にしていた気持ちを、軽く扱われたことが」

「はい」

「怒っても、よかったのね」

「もちろんでございます」


 マリベルは胸を張った。


「ですが、もし怒れないときは私が代わりになりますので」

「あなたが怒りすぎるのは困るわ」

「善処いたします」

「絶対しない顔ね」


 エレノアは笑った。

 使用人たちも、つられるように笑った。


 その日の公爵家の夕食は、なぜか妙に豪華だった。

 料理長いわく「お嬢様の新しい門出祝いです」とのことである。

 食後、エレノアは久しぶりに温かいミルクを飲み、マリベルに髪を梳かれながらぽつりと言った。


「マリベル」

「はい、お嬢様」

「私、しばらく恋はいいわ」

「賢明かと」

「でも、いつかまた誰かを好きになることがあったら」

「はい」

「そのときは、まずあなたに見極めてもらおうかしら」


 マリベルは櫛を持つ手を止めた。

 ゆっくりと、鏡越しにエレノアを見る。


「お嬢様」

「なあに?」

「そのお役目、命に代えても務めさせていただきます」

「命は代えないで」

「では、相手の命で」

「マリベル」

「冗談でございます」


 エレノアは疑わしげにマリベルを見た。

 マリベルは完璧な笑顔で返す。


 侍女なので。



 ***



 翌朝。

 公爵家の朝食の席に、一通の書状が届いた。

 差出人は王都騎士団長ヴィクター。

 内容はセドリックの処分に関する正式な謝罪と、騎士団への礼節講義の依頼であった。


 公爵は手紙を読み終えると、静かにマリベルを見た。


「マリベル」

「はい、旦那様」

「騎士団長殿から、君を講師として招きたいとのことだ」

「光栄でございます」

「内容は、礼節、危機管理、そして対侍女戦闘訓練とある」

「最後だけ意味が分かりませんわ」


 エレノアが小さく呟いた。

 公爵は真顔のまま続ける。


「ついでに、我が家でも役職を新設することにした」

「役職、でございますか?」

「ああ」


 公爵は厳かに言った。


「エレノア専属恋愛監査官」


 エレノアが紅茶を吹きそうになった。

 マリベルは一礼する。


「謹んで拝命いたします」

「受けるの!?」

「お嬢様の幸せを守るためならば」

「マリベル、本当にほどほどにしてね」


 マリベルは微笑んだ。


「もちろんでございます」


 その笑顔を見て、公爵家の全員が思った。

 絶対に、ほどほどでは済まないと。



 ***



 それから王都では、ひとつの噂が流れることになった。


 公爵令嬢エレノアを泣かせると、恐ろしい侍女が来る。

 怒鳴り込んでくるのではない。

 礼儀正しく訪問し、微笑みながら事実確認をし、鉄扇一本で騎士団を正座させる。


 その名は、マリベル。


 職業は、侍女。

 ただの侍女である。

 本人も、周囲も、そう言い張っている。


 武器は忠誠心。

 防具はエプロン。

 必殺技は、完璧な礼儀作法。


 そして今日も、公爵家のどこかで彼女の声が響く。


「お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」


 屋敷中の使用人が、一斉に手を止めた。

 老執事は何も聞かず、ただ静かに頷く。


「馬車を用意しなさい。あと、公爵様にご報告を」


 公爵家の者たちは、もう誰も理由を尋ねない。

 お嬢様が呼ばれた。

 ならば、戦である。


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― 新着の感想 ―
面白くて一気に読んでしまいました。 現在2周目を読み返していたのですが、すごい事に気付いてしまった。 セドリック正座してねぇ!!!
痛快です!!
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