つい、聞いてしまった
大学のキャンパスには、目に見えないルールがあるような気がする。
騒ぎすぎず、黙りすぎず。
浮きすぎず、埋もれすぎず。
そのバランス感覚が、昔からどうしても苦手だった。
初めての講義が終わって、ノートを閉じる。
隣に座っている彼女――詩さんは、明るく話しかけてくれた。
「思ったよりわかりやすい先生だったよねー」
健司は、うなずきながら返す。
「……うん、ですね。ノリも軽かったし」
社交辞令。それはわかってる。でも、こうして自然に会話が続くのはありがたかった。
彼女は、明るくて、よく笑って、誰とでもすぐに距離を縮められるタイプだ。
――なのに、どこか“違和感”があった。
その笑顔が、少しだけ“無理”をしているように見えたから。
健司は、昔のことを思い出す。
信用していた人に騙されたこと。
「好き」と言われて、お金を貸して、音信不通になったこと。
人は、笑いながら嘘をつく。
その記憶が、無意識に詩さんの笑顔を“疑う”ようにしていた。
けれど、彼女の笑顔には、悪意や打算ではなく――
なんというか、“自分を守るため”の何かが混じっているように見えた。
「詩さんって、……疲れない?」
ふと、口から言葉が漏れてしまった。
しまった、と思った瞬間にはもう遅い。
詩さんは目を瞬かせ、きょとんとこちらを見ていた。
健司は、慌てて続ける。
「……あ、ごめん。えっと、初日って、やっぱり疲れるよねって意味で……」
「うん、そうだね。緊張するし、知らない人ばっかりだし」
詩さんはいつも通りの調子で笑ったけど、
その声のトーンがほんの少しだけ――揺れたように感じた。
「……私、しゃべるの好きだから、逆に疲れないかも?」
そう言った彼女の声に、どこか「ためらい」が混ざっていた。
健司は、それ以上踏み込まないことにした。
優しさか、逃げか。それはわからないけれど――
彼女の心に、無理に触れてはいけないような気がしたから。
2人で少し歩いて、キャンパスの出口に向かう。
話題はたわいないことばかり。
学生証の写真がひどかったとか、図書館が思ったより綺麗だったとか。
その間も、詩さんはよく笑っていた。
でも、その笑顔の奥に「何か」があることを、健司の心は察知していた。
(自分には関係ない。関わらない方が楽だ)
そう思おうとする一方で、心のどこかがずっと気になっていた。
「じゃあ、また明日ね。……となり、空いてたらまた座ってもいい?」
「……うん。もちろん」
そう答えたとき、健司の声は少しだけ柔らかくなっていた。
それは、彼女の“仮面”を完全に見抜いたわけじゃないけれど、
同じように「仮面をかぶってきた自分」が、どこかで共鳴したからかもしれない。
詩さんが手を振って離れていく背中を見ながら、健司は小さく息をついた。
(あのときの「疲れない?」って言葉――あれは、俺自身への問いでもあったのかもな)
誰かと一緒にいるのに、なぜかひとりぼっちみたいな疲れ。
明るく笑うことに、慣れてしまった自分。
それは、きっと詩さんも同じだったのかもしれない。
翌日の講義でも、詩さんは隣の席に座った。
そして、なにもなかったように――また笑った。
でも、その笑顔がほんの少しだけ、
昨日より「自然」に見えた気がした。
それだけで、今日は少しだけ、救われた気がした。
となりの席は、まだ遠い。
でも、あの仮面の奥にある“ほんとうの顔”を、いつか――見てみたいと思った。




