となりの席になった日
春の午後。キャンパスの空気は、どこかぼんやりしていた。
講義室に足を踏み入れた健司は、窓際の二列目、いつもの席に腰を下ろす。前期の初回授業。まだ出席も取られず、静かなざわめきが教室に広がっている。
「この時間、眠くなるんだよな……」
小さくため息をつきながらノートを取り出した。スマホをちらりと確認し、すぐに伏せる。通知はない。あるはずもない。
数分後、ざわつきの中に、ちょっとだけ高めの声が混ざった。
「ここ、となりいい?」
顔を上げると、肩までの髪を軽く揺らす女子が立っていた。明るい印象。けれど、その目元には、どこか疲れのような陰が差していた。
「あ……どうぞ」
返事をした自分に少し驚く。こうして知らない人に気さくに話しかけられるのは久しぶりだった。
「ありがとう。初回って、席選び迷うよねー。なんとなく窓際って落ち着く」
彼女はさっと鞄からノートを取り出し、笑いながら言った。
「……そうですね」
健司の返事は短く、無難なものだった。
「もしかして、同じ学科? ○○学部?」
「うん、そうだけど」
「あ、やっぱり。私も。詩って言います。名前、なんていうの?」
「あ、健司……です」
詩。ひらがなか漢字かはわからないけれど、声にするとやわらかく響く名前だった。
「よろしくね、健司くん。ノート取る派? それとも聞く派?」
「取るけど……そんなに見返さないかな」
「だよねー! 私も!」
詩は、少しオーバーに笑った。
笑い声が大きいわけじゃないのに、なぜか周囲の空気がほんの少し、軽くなった気がした。
でも、健司はその笑顔を見ながら、どこかで違和感を抱いた。
楽しそうに見える。でも――目が笑っていない。
授業が始まり、教授の自己紹介と今後のスケジュール説明が続く。健司は淡々とノートを取っていたが、ふと横を見ると、詩は姿勢を崩すことなく真剣に板書を写していた。
(ちゃんと真面目にやるんだ……)
そう思った瞬間、詩が小さな声で呟いた。
「……黒板、反射して見えにくい」
「え? あ、うん……確かにちょっと光が入ってますね」
「まあ、たぶん全部は映さないでパワポくれると思うから、大丈夫かな」
そう言って笑うその声も、表情も、やっぱりどこか抑制されていた。
(この人、明るく振る舞ってるけど……無理してる)
無意識に、健司はその表情を自分と重ねていた。
人を信じなくなってから、誰と話しても表面だけの会話になった。
本音は隠して、何も期待せずに過ごすのが一番楽だった。
(でも……)
この詩という人は、たぶん違う意味で“仮面”をつけている。
元気なふりをして、誰にも心配されないように、傷つかないように、笑っている。
授業が終わるチャイムが鳴った。
「ふぅ……終わった。長かったね。初回って、眠くなるわりに内容薄いよね」
「……まあ、そんなもんかも」
健司の言葉に、詩はまた笑った。
「健司くんって、もしかしてちょっと人見知り?」
「……よく言われる」
「ふふ、でも話してくれてありがとう。なんか、しゃべりやすい気がした」
それを聞いた瞬間、健司の中に、小さく波紋が広がった。
「しゃべりやすい」と言われたのは、いつ以来だったろうか。
「……そう?」
「うん。じゃあ、また同じ時間、となりだったらよろしくね」
詩は、そう言って手を軽く振ったあと、くるっと背を向けて講義室を出ていった。
あっけらかんとしているようで、どこか後ろ姿に影を落としていた。
ひとり残された教室で、健司はしばらく動けなかった。
「しゃべりやすい」なんて、たぶんお世辞だろう。
でも。
あの笑顔も、きっと本物じゃなかった。
じゃあ……この距離感は、なんなんだろう。
まだ何も知らない。
彼女の過去も、彼女の本当の気持ちも。
だけど、なんとなく思ってしまった。
(あの子も、誰かに騙されたことがあるのかもしれない)
そう思ったら――
となりの席が、少しだけ、近づいたような気がした。




