第二話 邂逅の日・2
「では、ホームルームを終わります。今日も頑張りすぎないように頑張りましょう」
いつもの締めのセリフを志郎が告げたのち、生徒たちはそれぞれの一時間目の準備をそれぞれが始めた。このままこの三年二組の教室で授業を受ける者もいるが、大多数は別の教室へと向かう。志郎も二年一組の教室で古典Bの授業を受けるため移動しなければならない。基本的には主に理系科目を選択している志郎だが、うまく時間割を計算しながらできるだけ好みの科目を選んでいる。自分の特殊能力のラインナップに分身の術があれば(体育以外の)全ての科目を選ぶのに、と彼は半ば本気で思っていた。
「山岡くん」
と、千絵が志郎の顔を見て、ちょっと恥ずかしそうな表情をした。
「やっぱり、気になる?」
昨日とは異なり包帯が手のひらまで巻かれた左手を顔の横でひらひらさせて、まるでからかうように志郎の反応を待った。
「ごめんね、ガン見したりチラ見したり」と、志郎は軽く頭を下げた。「見ているのを見ていただろうな、とは思ったんだけど」
「見られてる側は見られてることがわかるからね」くすくす笑った。「特に女の子に対しては気をつけた方がいいよ」
「ごめん」本気で謝罪した。
「ううん、平気。登校中にもみんなに気づかれたから。昨日の今日だしね」
場の空気を変えよう、と思い、志郎はちょっとおちゃらけてみた。
「また戦ったの?」
千絵は、うん、と、うなずいた。
「昨日の敵は手強かった」
なんだかおかしくなってしまって、二人は顔を見合わせて互いにはにかんだ。
「それで、どうしたの?」
と、気を取り直して志郎は訊ねた。
「うん。昨日、うちに帰ったらなんだか痛み出しちゃって。それで病院に行ったの。検査してもらったけど特別異常はないんだって。でも気になるって言って、それで包帯を巻いてもらったの。少し収まるといいなと思って」
「収まった?」
「少しね。だからショックとかストレスとかかもしれないな」
「昨日も言ったけど、何か困ったことになったら言ってね」
「でも今日、山岡くんとは四時間目の物理で一緒なだけだし」
「じゃ、物理のノートを取ったり」
「私、右利きだよ」と、千絵は笑った。「織部くんだったら大ピンチだっただろうけど」
少し気が急いてしまったことを志郎は反省した。だが、何か力になりたい、と思う。なんといっても相棒なのだ。彼女にはしょっちゅう助けられているが、自分は何も返せていない、と志郎はこの二年間を想起した。総一朗と違って自分が千絵の力になってあげられたことなどほとんどないように思う。何か力になれれば、と、思う。
それでも、あまりしつこいのはよくない。これ以上は“追及”になりかねない。志郎は、うん、と、うなずいた。
「いつでも力になるからね」
志郎の意図を受け止め、千絵は再びいつもの静かな微笑みを浮かべた。
「ありがとう。でも、もう助けてもらってるんだよ。いつもありがとう、山岡志郎くん」
––––体育館。体育倉庫。
「一応、あなたのいう“目撃者”は全員始末したよ」
「ありがと。さすが“昼下がりの魔女”」
「でも、あなたも乱暴だね。万引きの現場を見られたかもしれないからってただそれだけの理由で七人も殺すんだもの」
「殺したのはあんたでしょ?」
「ううん。私はあなたの命令に従っただけ。動いたのが私なだけで、殺したのはあくまであなただよ」
「ま、いいわ。これで心配なくなったし」
「家が厳しいんだったね」
「そう。ちょっとむしゃくしゃして。まあそんなことはいいのよ」
「そうだね。しょせん他人事だしね」
「なんかムカつくな」
「それはあなたが、家に対して決してネガティヴな気持ちしかないわけじゃないからだよ」
「もういい、もういい。そういうのはいいの。そういうのほんとウザいから」
「ごめんね。やっぱり優しい方がいいもの」
「殺人鬼のセリフじゃないっしょ」
「別に人殺しが趣味なわけじゃないよ。私は昼下がりの魔女を呼んだ人の願いを叶えてるだけ。対価がもらえればなんでもいいの」
「その対価って結局なに? あたし何すればいいの? 面倒なこととか危険なことじゃないって言ってたけど」
「うん。面倒なこととか危険なことじゃ全然ない」
「何か渡せばいいんだったよね?」
「ご名答、だね」
「でも、う〜ん……あたしの持ってるもので一番高いものっていえば、ヴィトンのバッグぐらいだけど……これじゃなきゃダメ? 家族でパリに行ったときに買ってもらったの。結構大事な宝物なんだよね」
「今も持ってるよ」
「え、なんだろ。じゃ、これ? 最新型のスマホ。じゃ、別の買ってからでいいかな。あたしバックアップ取ってないの」
“彼女”はにっこりと微笑んだ。
「うう……これが俺の宿命なのか……」
弁当箱を前にぐったりうなだれる総一朗を見て、志郎は笑った。
「おばさん、いつも頑張るね」
「朝の六時から仕事だってのになんでこんな頑張るかなあ」
総一朗の弁当箱は一言“かわいい”もので満ち満ちていた。智子考案のキャラクターをベースに海苔で表情を作ったおにぎり二つ、星型に切った人参のグラッセ、ハート型のフライドポテトなどで男性用の大きな弁当箱は溢れんばかりに埋め尽くされていた。ちなみに一番地味なのがウサギのリンゴである。
「なあ、交換しない?」
「そうしたいのも山々だけど」と、志郎は自分の昼食である朝適当に作った地味なサンドイッチを見つめた。「やめとくよ。おばさんに悪い」
はあ、と、総一朗はため息をついた。
「おばさんは総ちゃんがかわいいんだよ。お弁当だけじゃなくてもどうしても頑張っちゃいたくなるんだろうね」
「でも、志郎のは普通だったじゃん」
「それはやっぱり、僕がからかわれたりしないか心配だったんだよ」
「うう……悪意を感じる……」
昼休み。校庭の桜の木の下で二人は昼食をとっていた。わざわざ外で食べるのは総一朗が自分の弁当を他人に見られたくないからだ。これは子供の頃からの習慣で、小学四年生のときの春の遠足でそれまでは総一朗の弁当に対してポジティヴなだけの驚きを示していた同級生たちがその日になって突如大笑いし始めたことが彼のトラウマになっている。だから、中学一年生の秋の課外授業の日の朝、志郎が高熱を出したとき総一朗は心配ののち大いに絶望したものだ。そのとき彼はトイレで弁当を食べ、それはそれでからかわれたが弁当箱を見られるよりは遥かにマシだった。それだけ総一朗の弁当箱はあまりにもかわいらしい様相が常態だった。
「母さんはほんとは女の子が欲しかったんだよなあ」
「ああ、それじゃ僕のお弁当が普通なのは僕に架空の娘を投影してないからだ」
「分析いらねー。いただきます」諦めて総一朗は弁当に手をつけ始めた。「俺がお腹ん中にできたときも、てっきり女の子かと思ったんだって」
「エコー検査で? そんな馬鹿な」
「ううん。うち、父方も母方の家系もみんな一番上が姉ちゃんだから、うちもそうなるだろうって」
「なかなか乱暴な理屈だなあ」
「三人目も男だったらって思ったら産めなかったって言ってたけど、だったらマジで人生諦めも肝心だってわかってほしい……」
「男の子が三人もいたら食費がとんでもないだろうしね」と、志郎はサンドイッチを齧りながら、ふと訂正した。「いや、四人か。それじゃ諦めただろうな」
しばらく沈黙が走った。
「あのさ」
総一朗が、沈黙を切り裂いた。
「だからさ、あんま考えすぎんなって。うちが二人兄弟だろうが三人兄弟だろうが、十人だろうが、うちは志郎に、うちに来てほしくてしょうがなかったんだから。そりゃ正直言えば金はかかったよ。正直言えば。でも、だからなんだ。いや、俺の金じゃないけどさ、でも、うちの父さんも母さんも無駄遣いしたなんてこれっぽっちも思ってないぜ。いい金の遣い方したって思ってんだぜ。ほんとだったら大学までずっとうちにいてほしかったっていつも言ってる。俺だってまさかこんなに早く志郎が家出ちゃうなんて思ってなかったから」喋りすぎた、と、総一朗は静止した。そして、静かに、ゆっくり続けた。「寂しくて」
春風が二人の間を通り抜ける。投げやりのように総一朗は弁当をかっ込む。志郎は齧りかけのサンドイッチを手に、なんと言ったらいいのか、しばし逡巡した。
「総ちゃんこそ、平気なの」
志郎が、沈黙を切り裂いた。
「何が」
「修くんのこと」
「ああ、うん。それはなんていうか〜」言葉を選びながら総一朗は言った。「自分で言う分には」
重い沈黙。
校庭で騒ぐ生徒たちの声が遠くに聞こえる。まるでこの桜の木周辺だけが世界から切り離されたかのようだった。
「ごめん」志郎が謝る。
「いや、こっちこそごめん」総一朗も謝る。
まるで春が沈黙の季節であるかのようだった。
「あのさ」
と、二人同時に言った。
「え、何?」
「いや総ちゃんから」
「いやいや志郎が先に言えって」
「僕は後でいいから、総ちゃんが」
「志郎が先に言えって」総一朗が目を見開いた。「頼むよ」
沈黙。沈黙。沈黙。
「いい天気だなって」
と、志郎は雲ひとつない青空を仰いだ。
総一朗も応える。
「ほんとだな。ピクニック日和だな〜」
「今度行く?」
「お、いいな。じゃ、今度の土曜どう? なんかいい場所ないか調べとく」
「朝からバイトなんだよ。日曜なら五時からだから行けるんだけど」
「おっし、じゃ、日曜の朝、俺ん家集合な」
体調管理のことを考えれば、夕方から仕事があるわけだから、午前午後とピクニックに行く余裕はないはずだったが、しかし志郎にとってそんなことはどうでもよかった。
またやってしまった、と、志郎は強く強く反省した。
いつもこうなのだ。自分の悩みが世界最大の悩みだと思ってしまう。つい自分がこの世界の主人公で他の人間たちはモブキャラクターだと思ってしまう。むろん志郎にそんなつもりは微塵もない。しかし実際にはそういうふうに生きてしまっているのだ。いや、それをいうなら誰もがそうなのかもしれない。誰もが自分の人生の主人公で、他の人間たちは脇役にすぎない。自分の人生にとって。それはそうだ。しかし、そういうことではないのだ。現実には“主人公”という人物は存在しないし、いや、あるいはあくまでも全人類がそれぞれみんな主人公なのである。誰もが何かを抱えている。それが死んだ両親のことであろうと、特殊能力であろうと、熟年離婚であろうと首元のニキビであろうと、悩みは尺度で測るものではない。むろん総一朗も何かを抱えている。それをつい忘れてしまう。これでは、総一朗をモブキャラだと言っているのと同じだ。総一朗は自分と違って何の悩みもないお気楽な人間だと言っているのと同じだ。ましてや志郎は、総一朗の抱えている“何か”がなんなのかをちゃんと理解している。それなのにこの体たらくで、全く、自分というやつは––––。
日曜のピクニックについて話しながら、頭の中で猛反省を続けながら、志郎はサンドイッチを齧り続ける。それでも午後の授業は始まる。そう、世界は自分の気分を中心に回っているわけではないのだ。本音を言えばこのままこの場から逃げ出したい。しかし、そんなわけにはいかない。そんなことをすればまた総一朗に気を遣わせてしまう。ああ、例えば、せめてこれから突然学校が休校になったりすればいいのに。そうすれば家に帰って寝ていられる。しかし、そんなことは絶対にあり得ないのだ。そう、そんなことは絶対にあり得ない。自分の気分の状態によって世界が動くなど、そんな馬鹿なことは絶対に、絶対にあり得ないのである。
––––週明けまでの休校が決まった。
「“昼下がりの魔女”が出たんだって!!」
緊急のホームルームで全生徒が自分の教室に集められていた。そこで、全てのクラスで誰かが全く同じセリフを叫び、そして細かいディテールは違えど全校生徒が一斉に篠沢高校七不思議について議論をし始めた。